ほかほかしながら、「優しい人ってどんな人?」と疑問に思う
お風呂は私を柔らかくしてくれる。
学校や仕事で一日を終えると、体が緊張でこわばっていることに気づく。
お風呂からあがり、体がふやけているのを感じて、これがリラックスなんだと知る。
なんだか頭もぼやけてきて、固いことよりも柔らかいことを考えたい。
政治や経済のことよりも、どうでもよい柔らかいことはないかと思う。
柔らかい人間ってどんな人だろう。体が柔らかい人というのは、体操選手のような柔軟性がある人のことを言う。でも、引き締まっている印象もあるので、たんに柔らかいフワフワというよりも、ゴムのような印象がある。
柔らかい人は、腰が柔らかい人だ。言葉遣いが丁寧で態度も冷静な人に会うと、やわらかいと思う。
すべてを包みこんでくれそうだ。そのためには、固くてはダメで、受け入れてくれるだけの柔軟性がいる。ゴムだと弾いてしまうので、受け入れてはもらえない。
一般的にそういう人は、「優しい人」と言われる。
優しい人ってどんな人だろう。相手のことを否定せずに、うんうんと頷いてくれる人だろうか。
だけど、それではジャイアンを前にしたスネ夫みたいだ。なんでも肯定する人は、どことなくゴマすりが上手で、虎視眈々とチャンスを伺っているように思う。これは僕の偏見か。
ときに厳しさも必要かもしれない。相手が間違っていることをしているときは、うんうんと肯定するのではなく、親しい相手であれば、「それは間違っているよ」と言う勇気も必要かもしれない。若いときの僕は、実際に「優しさ」をそのように捉えていた。
しかし、今の僕はそれが間違いだったと思っている。なぜなら、しばしばその行為は「相手のことを思って言っている」と言い訳をしたくなるが、たんに自分の不満を相手にぶつけていることもあるからだ。本当に相手のためになるのか、それとも自分が納得いかないだけなのか。相手のために指摘することは、たんなる自己満足にすぎないのかもしれない。
優しい人というのは、「相手をそのままに受けいれる人」のことだろう。
自分と違うことを考えていても、その人が極端な思想を持っていても、肯定も否定もしない。
「そうなんだね」と認識する。相手と自分がどこで異なり、どうして違った主張に行き着くかを見つめる。
自分の意見を尋ねられたら、「自分はこう思うよ」とだけ言う。そのとき、相手に同調を求めない。
現代の優しさは、「共感してくれること」といえる。SNSのいいねがその代表だ。
相手が自分と同じように思ってくれている。自分だけではないんだという安心感を与えてくれることが、優しさだ。
もちろん、それで満足している人はそれでよい。ただ、どことなく表面的で浅い関係ではないだろうか。
人間は、みんなそれぞれ異なっている。相手のこと知れば知るほど、自分との違いは見えてくるはずだ。共感は、ある意味ではよく知らない者同士だから共感できる。浅い関係であるから差異が見えず、「わかる!」と言い合いやすい。親しい関係であれば、「ほんとうに思っている?」と疑われるだろう。
この浅くて薄い優しさでは、満足できなくなってきているのが現代の傾向ではないだろうか。でも、深い付き合い方がわからない。短い文章でコミュニケーションをとるSNSでは、その点が克服できない。むしろ、システムは「あなたへのおすすめ」と称して、薄いつながりを広げようとしつこくやってくる。
ネット社会に背を向けて現実世界に回帰するか、メタバースようなディープな仮想世界にのめり込むか。2極化していくのだろう。




