ぐらぐら、時代にそぐわない
「時代にそぐわない」とは、「そぐう」という言葉が「似合う」や「釣り合う」を意味していて、言葉、振る舞い、ルールが時代に合っていないときに使用される。
謝罪会見で「時代にそぐわない」というフレーズを耳にすることが増えた。発言者の当人がごく自然に話した内容が、世間から見て違和感があり問題視されたときに「時代にそぐわないことを痛感しました」と謝罪する。
しかし、「時代にそぐわない」を謝罪の理由とするのは違和感がある。たとえば、差別的な発言をした人が「この表現は、時代にそぐわない表現でした」と弁解したとする。記者会見やネット上のリアクションをみていると、それ以上問い詰めることをしないが、僕であれば「時代が変われば、同じ言葉を使いますか?」と質問したくなる。つまり、時代遅れとなっている背景をどのように理解しているのか知りたくなる。
時代にふさわしい事柄なのかどうかは、自分一人で決めることはできない。せまいコミュニティの中だと、外では問題視されるような言葉を誰かが使っても、注意されることは少ない。誰も注意をしないので、発言している本人はその異常性に気づくことなく、外の人間もいる場面でも、同じ調子で話をしてしまう。本人は、当たり前のように口にしていた言葉なので、不適切な発言を行ったことに自覚がない。むしろ、不適切だと咎める人間のほうがおかしいと疑う。
とはいえ、これ以上問題を大きくしたくないので、許してもらうために「時代にそぐわない発言でした」と謝罪する。本人はその発言を悪いと思っていない。悪いのは「時代」のせいだ。「みんながこの言葉を使うと非難する時代なので、とりあえず謝っておこう」という具合だ。
「時代にそぐわない」は、「時代」に原因がある。こんな時代になってしまったから、自分が悪者になってしまった。そのため、自分自身が悪いと思っていない本人は、再び同じような発言や行動をとってしまう。行動や言葉は、その人の考えや思想によって支えられる。考えや思想自体が反省されなければ、また別の場面で問題を起こしてしまう。過去に発言内容を責められた著名人が、問題発言を繰り返してしまうのは、こういう理屈で説明できる。
これは批判する側にも問題がある。ニュースでは「〇〇が問題発言!」「〇〇が差別発言を!」と取り上げ、その発言部分を切り取ったあとに「発言を問題視する声が上がっている」と記載する。記事の中身を確認しても、発言の何が問題で、どうして差別発言といえるのか説明がなく「時代にそぐわないという意見が寄せられている」とだけ書かれている。どうして差別と言えるのか、どの点で時代にそぐわないといえるのかぐらいは、批判する側が説明すべきだろう。
もしかしたら記事を書いている記者自身も、何が問題なのか分かっていないかもしれない。どの部分が差別的なのかわからないけれど、とりあえず問題として取り上げたい、目立つ記事にしたいという邪な気持ちがあるのではないか、と疑ってしまう。
結局は、批判する側も批判される側も似ている。両者とも、時代という雰囲気が存在すると信じている。理由や歴史的な背景はわからなくても、「みんなが認めてくれない」「みんながダメだと言っている」ということだけで、批判が成り立つと思っている。今だと、「炎上している」だけで批判されるのは当然視されるのだろう。
逆に言えば、誰も咎めない時代になれば、それは悪いことではなくなる。それは正しいことだろうか。正しさは、その時代の多数派の声にすぎないということになるが、それでよいだろうか。
過去の歴史をみれば、時の権力者が批判者を封じ込めて、自分の意見が多数派であるように見せかけることが起きている。そのため、権力者はインターネットやマスメディアを掌握しようと試みる。「みんなが言っている」の「みんな」を権力者は捏造しようと試みる。企業も「みんなに人気がある」と人々に思わせたい。
「時代」や「世間」というのは、人為的に操作されやすい。「時代」や世間の雰囲気は、疑ってかかるぐらいが、人生のうえでは丁度良いだろう。




