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月うさぎへの演奏家

彼は、きょうもステキな歌だね、なんて言ってきた。

「先生こそ、調子いいんですね。」

「せんせいが調子いいのはあたりまえのことだね。」

「いいんですよ、先生だからっていつも無理することはないです。」

「そうかもしれないね、ありがとう。」

さいきん、この笑顔をみていると彼がどういった調子なのか分からなくなる。

でも、スマイルはそういった意味で便利な手段であることを私も知っている。

でも私はなぜか、最初から無表情で彼に接していたことを思い出した。

いつもだったら、ひとまずはニコニコとしてもいいはずなのに。

「そういえば、先生の名前ってどうでしたっけ?」

「...いいや、それはもういいんだ。

名前は覚えなくても、君の歌が素敵ならそれで俺もここにいる意味がある。」

「惜しかったんですか?」

「丁寧に自己紹介はしたつもりだけれどね。

俺はそんなことより音を......。」

「うた。」

「......。」

「せーのも言わないのにちゃんと合わせてきたからですよ。」

「それはさすがに慣れているよ。」

「でも私、ちゃんとブレスもしなかったけど。」

「たしかに、黎子さんは、歌うとき表情をあまり変えないですね。」

「ええ、アイドルの仕事でない限りは。にこりともしません。特に、あんな歌じゃ。」

「そうだね。」

「あれって深い歌ですよね。

とても気に入っていたんです。」

「君に見合うものかはわからないよ。」

「それじゃ誰にも似合いませんわ。」

彼はわらった。

まあ、それはいいとして。

「そうはいっても気に入らないです。

いえ、不思議だと言っておくわ。

なぜいつまでもそんなことをくりかえすの。」

「不本意だよね。

でも仕方ないね、これも問題だから。」

「あんなの、奏一さんのじゃない。」

最近、彼の曲が表に出るときは不必要な改変がされている。

意味のない前奏、気だるげに繰り返すフレーズ、はっきり言って見合わない歌い手のためにメロディや歌詞まで変える...。

「いえ、奏一さんのだけど、誰かが変えればそのひとのものになるのね。」

「俺が何も言わないのは、それでいいとあらかじめ了承しているからです。」

「...そもそも奏一さんが曲作りになんか全然興味ないのは知ってるわ。

でも、私に曲を作るならそんなんじゃ困りますからね。」

「肝に銘じます。」

奏一さんはお詫びにといって、楽譜を渡した。

私はそれに思わず黙って魅入ってしまった。

「気に入らないところがあれば」

「いえ.......これ」

「はい。」

「私以外に見せてないよね......?」

「まだだれにも」

「つくるのどれくらいかかるの?」

「楽譜になると遅くなります。

たしか、3時間弱です。」

「でも最近、これをみてもそう。

やっぱり調子がいいのね。」

「そうかな。あまり自覚はないけれど。」

「だってこの曲、素敵よ。」

「ありがとう。」

「歌っていい?」

「もちろん。」

彼はピアノを弾き始めた。

いつにも増して熱が入っていると感じる。

褒められて、うれしいのかな。

私が珍しくにこりとしながら歌うと、彼も機嫌が良さそうに笑った。

...なるほど、彼にはもっと表情があるのか。

それも、こういった表情があることを垣間見ると、彼が人誑しだと周囲から言われるのも納得する。

「ねえ奏一さん」

「はい」

「歌いたいの?」

「いえ、それは...」

「だって何度も口開きかけてたでしょう。」

「すみません、少しばかり思い入れがありまして。」

「いっしょに歌いましょ。

歌も演奏のうちですから。」

「......はい。」

奏一さんは照れているけれど、ピアノを弾き出したら立派に歌でもリードを取りだした。

彼は以前、自分は歌は向かないと言っていたのに。

そこまでリードが完璧であるのなら、たまには表に出なさいと示すと、彼は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに対応している。

......きっと作ったときは彼が歌う前提ではないと思うけれど。

これ、思ったよりも......。

「ちょっと、どうしてかえすの?」

「歌は......やっぱりまだちょっと。」

「どうして、あなた歌手はやらないの?

それこそ、歌が上手いアイドルだっていいのに。」

「一応先生だから技術がなければ話にならないけれど、俺の場合こちらに関しては気概が足りないものです。」

「ねーえ、せんせーい。」

「なにかな。」

「私、お手本がないと歌えなーい。」

「......うたを、うたうのは思ったよりも大変なことなんだね。」

「それはそうでしょう。」

「......いいや、ごめんね。

じつはこれは色々と申し訳ないんだ。」

彼に話をきいてみると、そもそも彼はこの仕事に乗り気ではなかったとのこと。

理由は、自分が歌を真剣に歌うときは大抵ろくなことでないから、だそう。

「ごめん、ろくなことがないわけじゃない。

ろくでもないのは俺自身だね。」

「......おじいさんは喜んでくれたんでしょう。」

「そうだね。でも、これは穏やかではなかった。」

彼はそうとだけ言って、口をつぐんでしまった。

確かに、ひとの最期に歌をおくるのは、さすがに私も経験がない......。

それも、この様子だと彼は何度も......。

.......確かに、彼の声は天性のもので、人を魅了する力がある。

私だって、万が一もしものことがあればきっと.....。

でも、勿体ないとおもう。

だって。

「奏一さんの歌って、全く危うくないもの。」

歌も演奏のうちとは言ったが、実際彼の歌は、演奏とはまた少し異質さの毛色が違う。

言うなれば私は、彼自身の歌こそが彼の常日頃言う理想に最も近いのではないかと思った。

子どもらしい、すなおな歌い方というやつだ。

いえ、技術もひと通り、とくに柔らかさと鋭さの使い分けは相変わらず上手すぎる。

だが、それ以前にその歌声はとても純粋で綺麗である。

「うーん...奏一さん。悪びれもしないようで申し訳ないけどあなたとデュエットがしたいわ。」

「レッスン中ですから構いませんが......。」

「なにか気になることでも?」

「ええ......ちかいです。」

「あら、あまり近づかれるのは苦手?」

「...眼鏡を、返してくれませんか。」

「後でね。

じゃあ私がかけちゃおうっと。」

でも私が眼鏡をかけると、彼がすっと落ち着きを取り戻したようなので、やっぱりつまらなくなって外した。

彼は目を逸らさないが、またとてもきらきらと瞳が動揺してきた。

「この前、別の子にちょっかいかけられてたときはどうだったの?」

「すぐに振り払い、きちんと距離をとりました。」

「じゃあ私は?」

「それ以前に、今はレッスン中ですけれど。」

「そうね、でもほら......もっと強く言わないと。」

「いいや......君は俺とデュエットしたいんじゃなかったっけ?」

「じゃあ弾いて。曲は......。」

私がささやくと、彼はこれまたびっくりする。

「黎子さん...、おれが悪いことをしたのならきちんと謝りますから......」

「ちがうの、だって。

大人な奏一さんの歌きいてみたいもの。」

「大人って......。」

「だって最近プロデューサーに、

セクシーな曲もよろしく、って言われてたじゃない。

奏一さん、色っぽいのも似合うわよ。」

「からかうのはほどほどにしてね。」

とか言って、彼は色っぽい曲をさも純粋に弾いて見せた。

いえ...もしかしたらこのセンス、本気かもしれない。

たとえばジャズもクラシックで弾くならもちろんその意味がない。

奏一さんにはやっぱり、不向きな曲もあるのだなと思った。

そして、前奏も過ぎた頃に彼がそのまま歌いはじめる。

それはそれで.......と一瞬錯覚するほど音のクオリティが高いことは認めるけれど。

やはりこれは音の並びや歌詞からしてさすがにそうではないよ、奏一さん。

これは、言い方は悪いけれどバカの一つ覚えというやつだ。

さすがにこんなプレイって、心地よくはない、つまらない。

これは珍しく、歌い手である私が引っ張ってあげるべきだろうか。

演奏自体に愛嬌もあり、まっすぐと高く張る歌い方もかわいらしくはあるけれど。

私がそれなりに歌ってあげると、彼も少しずつ要領を得てくる。

まあこれは...先生が生徒に教わるというだいぶ本末転倒な状態だけど、私からふっかけたことだから仕方はない。

ひと通り歌い上げる頃には、さすがだいぶそれだけで成長している気はした。

「奏一さん、こういう歌ははじめて?」

「いいえ、さすがにひと通り歌うことはしていますよ。」

...奏一さんは、なぜか得意げな顔をしている。

もしかして、私がリードしていたことに気づいていないの...?

彼に限ってそんなことあり得るのだろうか。

でも...彼にもこだわりはあるようだから、たまにこうやってセンスがズレることも、じつはあるかもしれない......。

しかも、

「もう一回歌っていい?」

なんて彼は言い出した。

「どこか気になるところがあったの?」

「ううん、さすがに久しぶりだったから今まで要領(まと)()ていなくて。君に合わせるならまだ納得いってないよ。」

それは確かにそうだけど......。

今度は。

思わず、え?と声が出そうになった。

これは色っぽさの意識が思い切りすぎるというか、強すぎるというか......。

でも、なんで彼に限ってこんな......。

そして、彼の歌も......。

先ほどまで、調子が良いと言っていたことを前言撤回したくなるほど、これはこれでバカの一つ覚えすぎる。

はじめてこれは、話にならない...もう2度と大人のデュエットなんて言わない...と思ってしまった。

確かに、彼は芸術家だけど、そこまでのめり込むというか、自分に酔うというか......。

そういうのがないのが彼の良いところだと思っていたのに...。

「あれ?どうしたのかな、黎子さん。」

ひとまず私の異変に気づいて止まってくれただけ良かった。

はじめてこの人とは合わないと思ったことなんてさすがに言えない。

でも、考えてみればどんなひとにもこんなことはあり得る。

それが、いくら奏一さんであっても。

そうじぶんにいい聞かせることにして、蓋をするように私が話題を切り替えようとしたとき。

「......だってね、教えるってことは......こういうことも知ってできるようにやらなくてはいけなくてね。」

と、奏一さんは仕方なく笑った。

それでやっぱりこれは彼が教師として仕組み、植え付けた感覚だったと気づいた。

...これはこれで酔わされ、我にかえる感覚に近い。

「え......う、嘘でしょ、これ演技だったの?」

「うん、ごめんね。」

「いえでも...さすがにここまで...ある意味自然すぎて納得しかけてた......。」

「痛々しいかな。

でも嫌でも、引き受けたからにはやらなくてはね。」

「い、いいんじゃないの......?

そんなことまで......そこまで無理しなくても......。」

「うん、そうかもしれないね。ありがとう。」

彼がもとは乗り気ではないと言いながら、いかに先生という仕事に対してストイックなのかを目の当たりにしてしまった。

「もしよろしければ、3度目の正直で、一緒に歌ってくれませんか。」

私が頷くと、彼はピアノを......。

その鍵盤に指を置き始めた瞬間から、もうたまらなかった。

ひとつの所作にも無駄がない......けれど、それも自然で優雅な演奏......。

さっきまでの相対効果もあるかもしれないけど、けっきょくは本当に私好みの惚れ惚れするような...。

これはこれ、でなんでこんなにもちが...あ。

うたが...もう...。

「......黎子?」

「......」

「黎子、大丈夫?」

もう、こんなに身体に毒なら、絶対色っぽさを狙ったきょくなんか...一緒にうたえないじゃない......。



彼は実際、歌をうたいたいわけではなかったはずだ。

それに彼女が、また今ごろになって自分の名前をたずねてきたのにはそれなりの意味があるとまでは気づいていた。

歌をうたって教えろと言ってくるのも。

確かにこんなことを繰り返せば、動揺するのはいつも彼のほう。

彼女のひとつひとつの言動がとても気になる。

だが、それはなかなか自分の感覚では理解できない。

言葉でかえしても、あんなにくだらないことを真面目に教えたって、彼女のこたえは彼にとっていつも奇妙なものである。

彼女は彼の目をよく見るが、彼だって彼女の目をよく見ている。

それがいちばん分かりやすいから。

たとえば、自分が仕組んだ表現に対してとはいえ、あんなに分かりやすく失望の目をされては、彼はたまったものではない。

実際そのあと正直な表現をした後には、彼女の目がハートだったことにはなぜか気づかず、よけいなことをしてしまったと反省した。

いつもこんな感じだ。

会うことを重ねるたびに身が焦がれるおもいが強くなる。

彼はその想いを、恋で生まれる欲求不満を、昇華する方法を知らなかった。

だから、じつは帰ればおとなげなどあったものではなく。

くるしい苦しいとよく暴れている。

確かに、彼女のためにするひとつひとつのことが、彼にとってかなりの苦痛であることは仕方ない。

たとえば、さいきん、調子が良いなんてそれは彼女の誤解だ。

じっさいは、今が季節の変わり目だからかもしれないが、彼は今までに例がないほど調子が悪い。

例えばふだんは気にも留めないことを気にする。

彼にとって、他の芸術家などどうでもいいはずなのに。

彼女が共演で関わってくると話は別だ、嫉妬で心が真っ黒に焦げそうである。

盗られたくないといつも嘆いている。

彼女にはその感情まで悟られると嫌われる、となぜか確信しているようなので、フラットな笑顔で接することしかできないようだが。

彼はそれこそ、曲なんかつくりたくないようだ。

つくってもあまりいいことはない。

なぜなら、芸術に寄り付く感情などかなり一時的なものであると知っているから。

特に音など、いくら綺麗でも繰り返されれば色褪せていくものである、と。

そもそも、彼女の期待にこたえられる自信など彼にはなくなりつつあった。

いまも、一生懸命に着飾ったものがかろうじて受け入れられている。

それは嬉しいが、それははたしていつまで続くものであるか。

本当の自分を教えたときに彼女はどうなるか。

こわくて夜も眠れない。

眠れないからまた歌をつくる。

でもそれも苦しい。

ひとりでに作られたものが、正解なのか今更ながらに分からなくなっているからだ。

「.........」

曲の中に異質な電子音が介入してくると思ったら、それは着信音だった。

「奏一さん、起きていたのね。」

「黎子さん......どうしたの」

「もしかしたら今日も曲を作っているんじゃないかと思ったの。

ちょっとまっててね。」

彼女がFの音を鳴らしてみせた。

それからその囁くような歌で主旋律が紡がれていく。

ひと通りきいたあとに彼が思わず放ったつぶやきは、

「どうして」

だった。

今までもずっと彼女に対して、じぶんにたいしてもそう頭を抱えていたのに。

「ふふ、こんなかんじかな。」

「...すごいよ、黎子さん

どうしてわかるの?」

「私も、たまにこうやって浮かんでくることがあるの。

だからじっさいは違っても、誰かが直してしまうより先に私がうたってあげようとおもって。」

「おどろいたよ、ぴったりだ...ありがとう。」

「やった、じつはちょっと緊張してたんだ。」

「いいや、きみが歌うのだからそれがいちばんいいんだ。

だとしても、ぴったり合うなら、それは俺の自信にもつながりますね。」

「じゃあ、やったね奏一さん。」


私がそう言ってあげると奏一さんは声をあげて笑った。

とても機嫌は良さそう。

「あら、そのうた気に入ったの?」

「うん、なんだか......。」

「奏一さん、やっぱりうた上手ね。

大きく表現するよりも、ちいさくうたうほうがむずかしいもの。」

「ありがとう...きみもだよ。とても歌が素敵で...。やっぱり、黎子さんと一緒にいると...、

俺も、歌をうたいたくなるんです......。」

わたしも私で笑ってしまった。

「えっと、ごめんなさい......

どうして笑っているの...?」

「だって......。

なんでそんなに緊張してるのよ」

「いや、それは...いいえ、緊張なんて...。」

「最近ずっとそんな調子だもの。

わたしといるとすごく緊張してるでしょう。

悪いとは全く思わないけど、すごくおかしいわ。」

「たしかに、そうかもしれません...」

「私に言いたいことがあるのなら言ってごらんなさい。」

夜のテンションで調子にのってしまっているのはわかっている。

でも、この機会に彼から何か引き出せるかもしれない。

「黎子さん。」

「なあに?奏一さん。」

そこで、不意に。

彼は私に告白をしてくれた。

私は、今日の演奏で彼の気持ちに確信があったけど。

彼は、私のことが好きすぎてつらい、と。

「わたしもつらいわ、奏一さん。

だから電話したのよ。」

「...いいえ、そんな...。

今の言い方はひとりよがりなものでした。

でも、楽になれました。ありがとう。」

「奏一さんに好きって言われて、うれしくないひとなんかいないと思うけど。」

「え...」

「あなたも素敵よ。

私も、つらくなってしまうくらいに奏一さんが好きなの。」

彼の良いところはこういうところだ。

そう。

彼は本当に緊張しているけれど、おかげで私は緊張することもなくこんなことが言えてしまう。

それほどにかわいらしいひと。

「つらいんですか...?」

また変なところに反応するので笑ってしまうけど。

「ううん...ありがとう、うれしいよ。」

と彼は言い直していた。

「そういえば、奏一さんこの前、月にのぼったうさぎの話をしたでしょう?」

「はい。」

「まるでそのうさぎを目の前でみたことがあるかのような話し方だったから、演技も得意なのかと感心したのよ。」

「いえ......。」

「どこまでが算段で、どこからがあなたの本質なのかって考えたわ。

私だって、あんなに残酷なつくり話であっても、あなたのことを知ることができるのならば理解したいと思うもの。」

「......あのとき、きみを、なかせてしまったの......?」

「だって、とてもいい話だから。

愛するひとを、全力で守ったお話。」

よくある綺麗事でも、彼がそのみみ(くち)で語った話は全くの別物。

重み(かるさ)がちがう。

「いいえ...あれは本当につくりばなし。

全くの別人のお話.......。」

「全く別の人の話を、あなたはつくることができるの?」

「本があるわけではないけれど。見つけたんだ。

それもこうして曲を作っているとき。誰かの存在を見つけることが、たまにあって...。」

「それって、どんなひとなの?」

「俺と同じくらいの男の子でね。

幼い頃からずっと、うさぎになって業火に焼かれる夢を見させられていたんだ。

彼にはそれしかなかったから、もういつだっていいって......それこそが自分の生きている意味なのだと悟っていた。

愛するひとが、あらわれるまでは。」

...どうして。

あのとき彼は、その子の気持ちをあんなにも分かってあげられてることを、こちらにみせてきたのだろうか。

それこそあれが演技だっただなんて本当に信じられないのだ。

「俺は、芸術のことなんて本当はぜんぜん理解できない。

それほどにどうでもいいことだと思っていたし、いくら努力をしても、ときには失望や嫌厭されるもの...それなら芸術なんてものは大した意味などないことだろうとおもうよ。」

「ええ。」

「でも......。

その子のことを知っていくとね...たしかにそうだ、当たり前だと思うんだよ。

だって、俺はその子のことが知りたかっただけなんだから。

それでいて......俺は、実はいぜんから夢がなかったわけじゃないんだって気づいたんだ。」

「奏一さんの夢ってなんなの?」

「......綺麗な月を、彼にみてもらうことだよ。」

彼は、たとえば......こういうことだといった。


「黎子さん、月が綺麗ですね。」


かれの、言いたいことが分かった。

おもえば「彼(その子)」は月が綺麗だと言ったことはなかった。

そのひとに、自分のきもちを伝えることはできなかったのだ......。


「......黎子?」

「......」

「黎子、大丈夫?」


何度か呼びとめられた。

それでも、彼の私にたいするその言い方をどうにかしなければ、私はつらくなってしまって、立ち直れる気がしなかった。

なんで...そんなにしあわせを噛みしめたような言い方をするのだろう。

こんなのぜったい、全くの別人の演技をしている奏一さんじゃない。

対してわたしは...何不自由なく恵まれた毎日を過ごしていただけだ。

言いたいことが分かっても、それを本当の意味で理解できるわけではないんだ......。

それが悔しくもあったのに、今は彼の純粋な想いに涙しなければならないなんて......。

「......また、きみを、なかせてしまったの......?」

「うん......でもこんど、また......おはなし、を.......」

「......」


「......みらい、さん......?」

「......おとちゃん」


なぜか、ふたりでそう呼び合った。

その彼の呼び声に、本当に....。

はじめて、「懐かしさ」を感じたのだった。

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