表現者への演奏家24
それから、彼に関してはぴっちり線を引かなければならないような感覚で、結局まともに会話はできなかった。
こんなこと、見越されているのかもしれない。
最初にちょっと、何かがあっただけで、それ以上はやはり彼の算段だったのかも。
…彼の音楽は相変わらず素晴らしかった。
演奏者の域をこえた作曲だった。
音楽の評価だって、ずっとあがりっぱなし。
私には釣り合わない。
今さらながらに、最初から分かりきっていたことを実感した。
さいしょからずっと…そうかもしれないけど。
彼には仕事しか居場所はない…?
控室から出たはいいものの、帰るのを渋っていると、
待合のソファでうたた寝をしてしまった。
私にしては、こんなことめずらしいのに。
頭でぴっちりと線を引かなければならない感覚。
ずっと、身体の芯をまっすぐに通して立ち、そのまま歩かなければならない意識。
それが崩れたわけでも、途切れたわけでもないのに。
むしろ、それがつよくなればなるほどに、目が開かなくなってしまう。
目が開かないけど、意識はあった。
おかげで。
そんな金縛りが少し解けたときに、自分にかけられていたものに気づく。
「…そういちさん」
「高遠さん…」
もうだいぶ遅い。
それでも、わたしは彼が仕事の部屋から出てくるのを廊下で待ってた。
こういうのを、先輩は止めてたんだと思うけれど。
先に仕掛けてきたのはこの人だ。
「これ、かえします。」
彼は黙ってそれをうけとった。
「どうしてよけいなことをするの。
わたしと別れたいんでしょ。」
「きみは彼女から、はなしをきいたんだね。」
「…はぁ…もうどれほど経つと思ってるんですか。」
「みっか…くらい?」
「…ひと月ですけど。」
「とてもは…しんじられないね。」
なに言ってるのこのひと。
なにか変だ…。
「一体どういうつもりなんですか。」
「いつもより…調子は良くないんだ。
きみにも仕事優先だって、言ったでしょ。」
「私に直接、そんなこと言いましたっけ。
先輩を使って言ったんじゃないですか、卑怯です。」
「たった今、いいましたけれど。」
こんなに悪びれもしないなんて。
彼は今、仕事のしすぎでおかしくなってるのかもしれない。
「あの…いいかげん、ちゃんと話しませんか。」
「いいかげんにするのは、きみだよ?」
「…話にならない。」
彼はそういうと少し黙って。
決意したように顔をあげると、
「俺は、諦めたくないんだ…自分の夢を」
と、言った。
「自分の夢ってなに…なんなの」
「きみには、わかるはずないね。」
「なんでそう決めつけるのよ」
「みんなにいっても、おなじだもの。」
彼はおもむろに、かばんを漁ると、なにかとりだし、
「のどもかわいたでしょ、おつかれさまにいかが?」
と…。
「いらない…」
「しっけい…でしたね。」
「なに…、どうしちゃったんですか、そういちさん…。」
「あなたこそ。
わすれものは、ない?」
「わすれもの…?」
「せ…いつもより、高かったでしょ。」
は…?背…?
「あ…今日のハイヒールは、あれ…借り物ですから。
わすれものじゃありません。」
「のこったものはあったはずだ。」
「のこったもの…?」
「た
め…
に、なったかな…それ、は…」
のこったものって…なんなのよ…
ためになるって…どういう…。
もう…こわい。
そもそも彼の奇妙な言動に意味なんてあるのだろうか…と。
彼にはじめて、恐怖をおぼえた。
あのあと、このひと月間。
いくらかきいたことは、
彼の頭がおかしいということ。
いつにもまして、最近そうだって…みんながいうから…。
今とても暗いし…、
わたしだって…そんな気になって…!
「もう…いいです。
わたしともうまともに話す気がないのなら、それまでです。
あなたの気持ちはよく分かりました、さようなら。」
ハイヒールなんかはいてないけど、わたしの足がカツカツと鳴りはじめた。
「ふたつめに」
「…え」
「ずっとつけてあるんだよ。」
やけにはっきりとしたこえだった。
それも、またあの鋭い目だった。
暗がりに…いつにもまして…。
う…いやだ…おそろしい…。
…。
黙ってその場を去った。
カツカツとはやく、とおくなっていく足音だけが、ひびいていた。




