表現者への演奏家10
「すみません」
「俺は何も問題ない。
昨日は多忙だったようだけど、影響はなかった?」
「はい、昨日は影響ありません。」
私は心持ちが悪かった。
それでもわたしはここへ来た。
彼は私に呼応するように目を見つめる。
やがて。
「今日は準備運動なしね。」
といった。
私は頷く。
「歌は、少しだけなら。」
「...でもいまは、俺のピアノはよくないね。」
「いいえ、そんなことは。」
「いますわっているのもつらそうだ。」
「いいえ...。」
「黎子さん、きてくれてありがとう。
ここでは、謝ることなんて何もないんだよ。」
「自己管理が...悪かっただけです。」
彼は、かたんと向き合っていた椅子から腰を外して、目の前で視線の位置を変えた。
私が若干彼をみおろすようなかたちになる。
そうすると、目を合わせるのもキツい。
「いつもおもい?」
「いいえ...」
「ごはん、ちゃんとたべれた?」
「はい...。」
「じぶんのからだは、だいじにしてくださいね。」
「はい。」
すると、かれはおもむろに...、わたしの耳に手をあてはじめた。
まずは、ひだりみみ。
それから...みぎみみも。
...なぜ。
まだかるくあてているのでこえがきこえる。
ささやきが。
「そとはびっくりするね」
「...。」
思えば、いつにも増して穏やかな声で語りかけてくる。
「...。」
落ち着く。
...安心する。
滲む視界のそとに、彼の笑顔が見えた。
...これが、ほしかった。
ううん...。
どうしてるのかなって。
それしか、かんがえてなかった。
「あ、ありがとうございます...」
...うまくさいごまでいえなかった。
もういちど、いいたい...。
でも、彼はじゅうぶんだといった。
では、せめて。
すこしだけ、がんばりたい。
わたしは、彼の手にじぶんの手を重ねた。
「奏一さんの音をください。」
「よろこんで。」
かれは...こんなときのために。
わたしへ、曲をつくっていたようだ。
かれが...わたしのために。
わたしは、か細い声で繰り返す。
どうしてもうたいたくて。
こんな声でも。
無茶をするなととめられはしなかった。
でも...。
悔しさは拭えない。
こうなることもわかっていたうえで、私は彼の前に赴いたのだ。
自分が所詮弱いことを考えると、それが抗えないことだと考えるとつらくなる。
彼には、この気持ちがわかるだろうか。
この...つらさが。
結局は、「彼」に理解されないこのつらさが。
...でも、
彼は不思議なことに、私の耳に手を当てたのだ。
私が何に不調になっているかも気づいた。
そう...、いつも生理になると、音がとても鋭い刃物に変わるのだ。
刺されてさされて、しんでしまうような感覚すらある。
それに、においも...。
あ...。
おもえば、これも配慮されている。
とても...やさしいにおい...?
この手の人は身なりを気にするから、それに私であってでも、自分の化粧や香水のような匂いに時折むせかえることがあるのに。
彼の匂いはとても落ち着く。
照明だっていつもより落としてあることにも気づいた。
なぜ...こんなにも理解しようとしてくれるのだろう。
地道に重なっていく彼の優しさに、ついに私は耐えられなくなった。
我慢の限界をむかえた。
...いいかげんに、してください...
いつかいったでしょ...
理不尽の反対は理不尽。
優しい大人は、結局は理不尽と同じなのだと。
「...ぅ...うう...」
しゃくりあげるような嗚咽がとまらなくなる。
あなたは結局、わたしをこうやって泣かせるだけです。
別に泣きたくなんてなかった。
しかもこんな風に。
彼がだいすきだと言ったのは、私の歌声。
彼が好むのは私の笑顔。
あなたもほんきで子どもの端くれであったのならわかるはずだ。
自分の醜態など、晒すものかと。
そのために、じぶんはわたしをつくりばなしで騙そうとしたくせに。
結局はそれが、見せ物の正体なのだ。
だから、わたしは。
思いきり声をあげて、笑ってみせた。
あはは、と。
それこそ醜く目もあてられないかもしれない。
でも今私にできることはこれくらいしか...。
...あ、
...あ、う...、
うさぎの...目...だ...。
今のわたしにとてもとてもそれは...。
「...え...」
泣いたのは、彼のほうだった。
とてもうそのように、綺麗な雫が花のように散っていったのを確かに見たのだ。
あとはなにも残らない。
そういった、潔い良い泣き方だった。
これであれば、俯いたり拭ったりして隠す必要はないから...?
「いっしょにかえろう。」
彼はそう言った。
いつもならばちゃんと断っていたはずだ。
でも今の私には、そんな気力もない。
後から、薬をちゃんと飲んで止めておけばよかったと後悔した。
そうすれば、こんなことにはならなかったのに。
このせかいで生きると本気で決めたのだ。
私なりに、覚悟を。
そう...もとより、
いくら私が好きなひとが...
彼で、あったとしても...。
女として生きていく気など...私には...ない。
「...。」
...。
え...。
なぜ...?
いまさらわたしは、なぜ...。
どうして、そんなことがよぎったの...?
彼が、一瞬その顔で私を咎めようとしたから?
それとも、さいごにひとつだけ、
ピアノの音が、鳴ったからだろうか。




