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物心ついたことには既に、孤児たちが集められた施設にいた。
生活はお世辞にも裕福とはいえず、本来無邪気なはずの子供たちの心は荒み、またその世話をする大人たちの心も貧しかった。
いや、そういう大人に世話をされていたから、そういう子供になったのだろうか。それとも物質的な貧困そのものが原因だったのだろうか。
なんにしても、そこはキラにとって居心地のいい環境ではなかった。
自分に少々変わったところがあるのは自覚していた。
天気の移り変わりを知らせる風の歌声や、動物たちの話し声。まだ人の目覚めぬ静かな朝によくよく耳を澄ませば、草花の小さな囁き声さえ聞こえた。
キラにとっては当たり前のことが、けれど他の人間にとっては当たり前どころか、普通でさえなかった。
同じ施設の孤児たちからも遠巻きにされ、大人たちからは奇異の目で見つめられる。
幼かった彼女が、自分が異常なのだと認識するのに時間はかからなかった。
不幸中の幸いと言えるのは、彼女を害すればそのおかしな力で復讐されるのではないかと周りが不気味がりすぎ、直接的な攻撃はされなかったことだろうか。
もっとも、たとえ陰湿な嫌がらせにあおうとも、キラがそれに屈することはなかっただろう。
そのころから既に、キラは幼いなりに聡明だったのだ。
助けてくれる者も徒党を組んでくれる者もいなかったせいで、余計に知恵を巡らせる必要があったとも言える。
例えば、たまに施設を訪れる大人たち。
子供ができなかった主に富裕層の大人が、施設の孤児を引き取って育ててくれるのだという。
だから子供たちは、総じてやってくる外部の大人に対して愛想がよかった。媚を売っていたと言ってもいい。とにかく気に入られたいという思いが透けて見えていた。
それも無理はなかっただろう。引き取り手が現れれば、今とは比べ物にならない贅沢な生活が送れるのだ。少なくとも、夜風が吹きぬける粗末な寝室で震えることも、食べ物がなくて木の根を齧ることもなくなるに違いないのだ。
けれど、キラは冷静だった。
人間の醜い部分ばかりを見ていた彼女だからこそ、甘い夢にすがりつくことなく現実を直視出来た。
彼女は気付いていた。
やってくる大人たちの中には、子供が欲しいと望むには少々年齢が若過ぎたり、あるいは老い過ぎたりしている者がいることを。
自分の子供になる者を決めるというのに、子供たちを見るその目があまりにも冷静で事務的だったり、あるいはおかしなほどの熱を宿していたりすることを。
誰かが引き取られていなくなると、その次の日の食事が僅かばかり豪華になることを。
その陰で世話をしてくれる大人たちが、手元にある金銭を数えながら、次は誰が売れるだろうかと話していることを。
だからキラは、知らない大人がやってくると、そっとどこかに隠れてやりすごしていた。
時折話相手の小鳥や鼠がひどく騒ぐ相手がいて、大抵それはキラが嫌な印象を受ける人物と一致していた。そういう人物の時は、特に目をつけられないように気を使った。
キラが男のような言動をしだしたのも、この頃からだった。
施設にいる子供の男女比は同じくらいだったが、もらわれていく確率は女子の方が高いように感じられたからだ。
確証はなかったが、とりあえず出来る事はなんでもやっておきたかったのだ。
どうして外部の大人たちが子供を欲しがるのか、わからないことも多かったが、キラはこう思っていた。
一体どうして、ここを出た先の生活が、今よりも悪くないものであると確信できるというのか。
あるいは、本当に外の世界で幸せになった者もいるのかもしれない。
けれどその割には、成長し立派になった姿を再びこの施設にあらわした者は、誰一人としていないのだ。
一人、また一人と見知った顔がいなくなっていく中で、どうすればいいのかキラはずっと考えていた。
逃げ回っていても、いずれはキラの順番が来る。
それは予想ではなく確信だった。
そもそも、キラのような厄介者をいつまでも施設においておく利点はないのである。
何かここにいるだけの価値がなければ、キラは遠からずここを去ることになるだろう。そうして連れて行かれた先の条件が他の子供より良い物であるとは、キラには到底思えなかった。
キラは自分のいる施設のことが好きなわけではなかった。
けれど、彼女には他に行くところもなかったのだ。
そんな折り、仲の良かった小鳥が怪我をした。
どうやら大きな鳥に襲われたらしい。
薬は高価で、貴重な品だ。人間相手にだって渋るのに、動物相手になど大人たちが分けてくれるはずもない。
どうしようもなくて、キラはただ小鳥の傷の上にそっと手を置いた。
自分が怪我をしたとき、そうするといくらか痛みが和らいだような気がしていたからだ。
するとどうだろう。
傷にあてられたキラの手が、淡い緑の光を放ったのだ。
驚いたキラが声も上げられずに呆然としていると、苦しげ呻いていた小鳥の声が、徐々に穏やかになっていく。
光が消えて手を離すと、そこには既に傷はなかった。
小鳥はつい先ほどまで動けなかったのが嘘のように、キラの手の上で元気に跳ねた。
『ありがとう。おかげでもう痛くない』
何がなんだかわからないキラに、小鳥が感謝の言葉を述べた。
キラの中で、一つの確信が生まれる。
「俺が、やったのか……?」
『そうですよ』
彼女の呟きに答える声があった。
頭に響くようなそれが、人の声ではないことは瞬時にわかった。
ふわりと彼女の視界に舞い降りた、一つの存在。
綺麗。
その姿を見た瞬間のキラの感想は、その一言に尽きた。
波打つ長い白の髪。銀灰色の瞳。
ひらひらと布が舞う構造がよくわからない服も白色だったが、それよりも肌の方が抜ける様に白かった。そのせいか唇の赤がことさら鮮やかに思える。
そして何より、その背に生えた純白の翼。
キラは随分前に読んだ、古びた絵本の中の存在を思い出した。
「天使……?」
怜悧な美貌は、けれどどこか優しげな微笑みを浮かべてキラを見ていた。
ずささっというすごい音を立てながら、キラは茂みから転がり出た。
施設からそれほど離れていない森の中。ちょっとした段差を滑り落ちたのだ。
大人にしてみれば大したことない高さでも、小さなキラの身長の倍はあっただろうから、擦り傷一つで済んだのは僥倖と言えただろう。
その右手には、落ちる間も決して手放さなかった薬草が握られていた。
「痛い……」
すり剥けた膝を抱えて、キラは出てきそうな涙をこらえた。
癒しの能力は、自分自身には使うことが出来ない。
他人の傷はすぐに治せるのに、自分の傷は薬を塗って自然に治すしかないのだ。
そのため半分必要に駆られて、そして半分は純粋な好奇心から、キラは治療に必要な知識を学び、薬に必要な草花を集めているのだった。
それでもそれらを教授してくれる存在がいるだけ、キラは恵まれているのだろう。
「でも、なんだかとっても理不尽」
自分の力なのだから、自分のために使うことができればいいのに。
純白の翼を広げ空中に浮かぶ人外は、そうふてくされるキラを苦笑しながら見守っていた。
「『大丈夫ですか?』」
「!?」
記憶の中とは違う声に、キラははっとした。
ユリウスが心配そうにこちらを見ている。
そこでキラは、自分がセージュ国の第2王子の寝室にいることを思いだした。
今日の診察が一通り終わって、どうにもぼんやりとしていたらしい。
「キラ、もしかして疲れているんじゃありませんか?」
「いえ、少し気を散らしていただけです。体調に問題はありませんから、どうぞご心配なさらず」
キラがユリウスを診るようになって、五日が経った。
たった五日ではあったが、その間のユリウスの変化は劇的だった。
まだ歩きまわることはできなかったが、一日のうち体を起していられる時間がぐっと増えた。
顔色もそれまでよりずっと良くなり、未だ病人であるという印象は拭えぬものの、死に瀕した者特有のどこかひやりとした雰囲気は打ち払われていた。
これにはユリウス本人ばかりでなく、その親であるセージュ王と王妃、それに王室付きの医師たちも大層驚いた。
王と王妃はキラを呼び出して褒め称え、医師たちも一体どのような治療を施したのかキラを質問攻めにした。
そのせいでここのところキラは治療の他に、何かと忙しい日々を送ることになっていたのだ。
もっとも、自室から出る事が出来ず、そんなキラの状況を知らないユリウスは別の心配をしたようだった。
「やはりキラが使う、その気功術というのは、使うと疲れるものなのですか?」
気功術とは自分の中に流れるエネルギー、つまり気を相手の体内に送り込み、相手の身体機能を活性化させるものである。
キラは普通の治療の他に、その気功術を用いていると王や医師たちに説明していた。
気は誰もが持っているものなので、魔法や癒しの能力のように使い手を選ぶことはない。才能ではなく技術なのである。
かなり遠方の国で用いられているものらしく、セージュ国ではまったくと言っていいほど知られてはいなかった。
よって医師たちのキラへの質問がいやでも増したわけだが、そもそも気という概念がいまいち呑み込めていないようなので、キラがどれだけその方法を説明しようとも習得することは出来ないだろう。
キラにしてみても、大地や風に流れる気が昔から当たり前に見えていたため、今更どのようなものか説明しろなどと言われてもとても困る。頭でごちゃごちゃ考えるな、感じろ、としか言えないのだった。
説明しても納得してもらえないことが多いため普段はこっそり使うのだが、一国の王子相手の治療ではそれも出来ない。
よって施術対象であるユリウスにも簡単な説明はしてあったのだが、やはり未知の技術に対する不安はあったのだろう。
この場合それはユリウス本人ではなく、使い手のキラの身を案じることへ繋がっているようだったが。
そんなどこか特権階級らしくないユリウスの様子に、キラは自然と微笑んだ。
「そうですね。自分の気を相手に送り込むので、確かに少しは疲れます。ですが一休みすればすぐに回復する程度なので、体にはほとんど影響はありませんよ」
「それなら、いいのですが……」
「そんなに心配なさらずとも、俺が倒れたら殿下まで大変ですからね。自分の体調大事に、ほどほどにやっていますからご安心を」
そうキラが悪戯っぽく言って茶目っ気たっぷりにウインクすれば、それまで不安そうにしていたユリウスも釣られたようにクスリと笑った。