表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/13

第9話 捨てられた魔女たちを解放したら、大変なことになりました

正面の鉄門へ手をかける。


その瞬間、門を覆う術式じゅつしききしんだ。

僕という規格外の識別子しきべつしを、無理に読み込もうとしている。


薄い膜みたいなものが、ぱりんと割れる感触があった。


門は拍子抜けするほど、あっさり開いた。


「……アリア様の御前ごぜんでは、門など、門であることを許されないのですね」


「いや、今のは普通に封印ふういんが負けただけだろ」


ガレスが低く吐き捨てる。


「同じことでございます」


僕たちは、そのまま前庭へ足を踏み入れる。


一歩ごとに、泥が靴底をつかむような重さがあった。


正面の鉄門はびつき、前庭は雑草に埋もれている。

なのに、屋敷だけが妙にきれいだった。


白い石壁の汚れは薄い。

窓も割れていない。

扉も雨戸あまども、古びてはいるのに形を保っている。


正面の扉へ近づき、預かってきた鍵を取り出す。

鍵穴に差し込むと、奥まで滑るように入った。


かちり。


音が、冷たく響いた。


『……じょうは外れましたわね』


そう言って、取っ手を引く。


……びくともしない。


その時、胸元のネックレスがふっと熱を持つ。


『まあ……これは、いかなるきざしでしょうか?』


雫型しずくがたの石が淡く光り、視界に金の文字が重なる。


【複合奇跡干渉:継続中】

【供給元:アルテリア】

【干渉:時空/防御/増幅】


こくの残量表示が、減る。

尽きる。

そして、また満たされる。


何かが、この屋敷を生かし続けている。


いや、違う。


死なせないために、止め続けている。


『……これ、刻を消費し続けていますの?』


扉の脇にある窓へ寄り、中をのぞき込む。


見えない。


窓の向こうが、白くにごっていた。


指先で、そっと窓に触れる。


ぱきん。


小さな音がして、白く濁っていたもやが、指先の触れた場所から透けていく。

波紋はもんみたいに、白が広がって消えた。


見えなかったものが、急にはっきりする。


部屋の中には、四人の女たちがいた。


一人は、前へ踏み出し、両手を突き出したまま。

一人は、誰かをかばうように腕を広げたまま。

一人は、振り上げた腕に魔力の光をまとわせたまま。


そして部屋の奥では、一人が膝を抱え、しゃがみ込んでいた。


胸の奥で、何かが冷たく燃え上がった。


『……悪趣味あくしゅみですわね』


ガレスが窓越しに中を見て、息をむ。


「……まさか」


重く低かった彼の声が、見苦しいほどに裏返った。


「ベルタか……!? ベルタなのか!」


剣のつかを握り込む拳が、白くなるほど強張こわばっていた。


『ガレス、ご存じの方ですの?』


「ああ。俺が神殿にいた頃の仲間だ。魔女として異動したあと、死んだと聞かされた」


ガレスは窓に手をついたまま、目を離さない。


空き家のはずの屋敷。

そこに張られた、結界けっかいらしきもの。

中には、ただ事ではない女たち。


神殿の奥深くに隠蔽いんぺいされていた場所。

そんな場所を、あの男は平然と紹介してきた。


……ああ、そういうことか。


ずいぶん雑な試験をしてくれる。


『レティシア。以前、奇跡で刻が消費されるとお話しくださいましたわよね。では、奇跡は具体的にどのように起こるのかしら』


レティシアは困ったように目を伏せる。


「そこまでは……わたくしは存じません」


「……俺は少し知ってる」


ガレスが重い口を開いた。


「神殿には二種類の聖女がいる。祈祷きとうで新しい刻を生むやつと、刻を使って奇跡を起こすやつだ。神殿じゃ、後者を魔女って呼ぶ」


『魔女……』


その言葉が、目の前の光景と重なる。


『……妙ですわね。魔女が奇跡を使うのは、必要な時だけなのでしょう?』


「そうだ。常時食い続けるような代物しろものを、神殿が許すわけねえ」


『そうでしょうね』


僕はもう一度、減り続ける数字へ指を触れる。


【供給元:アルテリア】


『……供給元が直接、女神ですのね』


その下に、干渉状態が出てくる。


【時空干渉】内部時間を強制進行

【絶対防御】状態を固定

【奇跡増幅】出力の暴走


「何か、おわかりになったのですか?」


レティシアが不安げに尋ねる。


『進もうとする奇跡と、止めようとする奇跡がみ合っておりますのね』


壊れた歯車を、さらに力任せに回しているようなものだ。


白い髪の少女が、こちらを見ていた。


あの子だけが、止まっていない。


いや、違う。


たぶん、絶対防御の奇跡。

変化そのものをこばんでいるなら、あの子だけ動いている説明はつく。


『……あなた、おひとりで大変でしたわね』


少女の口元が揺れる。


声は届かない。

それでも、何を言ったかは分かった。


「アリア様」


レティシアの声に振り向く。

いつになく強い目で、彼女はこちらを見ていた。


「どうか」


それだけだった。


ああ。

この子はもう、黙って耐える側ではいない。


ガレスは窓に手をついたまま、ずっと目を離さない。


『ガレス』


「……何だ」


『ベルタは、あなたにとって大切な方ですの?』


ガレスはすぐには答えなかった。


けれど、窓の向こうから一度も目をらさないまま、低く言った。


「……そうだ」


重い、告白だった。


それで十分だった。


ただし、それだけではない。


供給元はアルテリア。

干渉は時空、防御、増幅。

止まった屋敷。

止まらなかった少女。

そして、女神の世界に落ちた僕。


つながりがないと考える方が、不自然だった。


この女たちは、僕がここに来た原因を知っているかもしれない。

あるいは、女神が消えた理由そのものかもしれない。


なら、話を聞く前に死なせるわけにはいかない。


『まだ、この方々のお話を聞いておりませんもの』


僕は、金色の文字列へ指を伸ばした。


『記録の都合で終わらされてよい命ではありませんわ』


最初に【絶対防御】へ触れた。


【絶対防御:保護対象】


瞬間、文字が赤く弾ける。


【書換拒否】

【現在の権限では実行できません】


一瞬だけ、屋敷の中の均衡きんこうが揺れた。


窓の向こうで、白い髪の少女が目を見開く。


口が動いた。


直後、止められていた三人の身体に、細い亀裂きれつのような光が走る。


肌ではない。

輪郭りんかくだ。


存在のふちが、がれかけている。


「何をした!」


ガレスが叫んだ。


僕は指を離した。


喉の奥に、鉄の味が広がる。


『……危ないところでしたわね』


レティシアが息を呑む。


「アリア様?」


『順番を間違えれば、中にいる方々ごと壊れますわ』


もう一度、窓の向こうを見る。


白い髪の少女は、こちらを見ていた。


助けを求める目ではない。

順番を間違えるなと、こちらをしかる目だった。


……面倒な子だ。


そして、必要な子だ。


『拒むのですね。……なら、まず権限の衝突しょうとつとして処理しますわ』


これは、やりたくない勝ち方だった。


僕は、残高の蛇口を開いた。


【認証要求:開始】


百億。

五百億。

さらに、けたを上げる。


数字が弾け飛ぶたび、ネックレスから金の光がき出した。


光は糸ではなく、洪水だった。


背骨を、高電圧の負荷ふかが走る。

女神の肉体が、処理に耐えきれず悲鳴を上げる。


『処理を明け渡しなさい』


最後の一押し。


ぱきん。


乾いた音がして、世界を覆っていた「ことわり」が砕けた。


【権限:初期化】


「……はあ、……はあ……っ」


膝が笑う。


立っているのがやっとだった。


「アリア様!」


傾いた体を、レティシアが横から支えた。

肩に回された手が震えている。


「ご無理をなさらないでくださいませ」


『……問題ございませんわ』


問題しかない。


指先は熱を帯びて震え、感覚が消えている。

喉の奥には、まだ鉄の味が残っていた。


僕は【供給元:アルテリア】へ触れる。


【供給元を変更しますか?】


迷う段階は、もう過ぎていた。


【供給元:UID-0】

【消費開始/保守権限を移譲します】


頬が濡れた。


『一時的に、わたくしへつなぎます』


唇が、勝手に続きを選ぶ。


『あなたがたの命を、わたくしのものにはいたしません』


アリアの目から、涙が落ちていた。


――違う。


僕は泣いていない。


それなのに、この体だけが、救いの形を悲しんでいる。


ネックレスが、強く光る。


網膜もうまくを焼くような、白い爆発。


この石は、女神の権限をこちらへ通す鍵だったのか。


僕は深く息を吸う。


さて、簡単なことばかりでもなさそうだ。


雑に止めたら、中身ごと壊れる。


コンソールに踊る警告は、そう告げていた。


薄氷うすごおりの上を歩くような緊張が、背筋を走る。


三つの力は、互いに噛み合っていた。


増幅ぞうふくが、奇跡を膨らませる。

時間が、その膨張ぼうちょうを何百年分にも引き延ばす。

防御が、膨らみきった圧力を四人の内側に閉じ込める。


だから、からから外してはいけなかった。


先に熱を抜く。

次に時間を合わせる。

最後に、守る対象を変える。


順番は、それしかない。


僕は、一五〇兆の残高からさらに一千億を、システム全体の緩衝材かんしょうざいとして流し込んだ。


金の光が、不安定な回路の隙間へ染み込んでいく。


『まずは、膨らみすぎた出力を殺しますわ』


屋敷全体が、ぎちり、と嫌な音を立てる。


内側に溜まっていた圧力が、少しずつ抜けていく。


次は時間。


止めるのではない。

今に合わせる。


噛み合っていなかった歯車が、一本ずつ現在の秒針に噛み合っていく。


最後に、白い髪の少女を見る。


『守るのでしたら、屋敷などではなくてよ』


少女が目を見開く。


『守るべきは、あなたたちご自身ですわ』


ネックレスの光が、弾けた。


衝撃。


屋敷全体が、大きく息を吐いたように震える。


空間を覆っていた見えない膜が剥がれ落ち、肌に生ぬるい空気が触れた。


僕はそのまま、今度は拒まれなくなった取っ手へ手をかける。


扉を押し開いた。


冷えた空気の向こうで、白い髪の少女が僕を見ていた。



『少々手間取りましたけれど、もう案じるには及びませんわ』


その横を、ガレスが駆け抜ける。


「ベルタ!」


倒れかけたベルタの体を受け止め、喉の奥でかすれた声を漏らした。


「……ベルタ」


女たちの重いあえぎ。


静まり返っていた部屋に、音が一気に戻ってくる。


色。

音。

温度。


封印が解けてから、屋敷によどんでいた空気が、ようやく重い音を立てて流れ出した。


最初に声を出したのは、リーネだった。


白い髪。

びっくりするほど整った、きれいな顔。

けれど、その目だけはまっすぐこちらを見ていた。


「……止まった、のですね」


床に膝をつき、震える手で自分の胸元を押さえる。


「私たちは……まだ、壊れていないのですね」


震える両手が、胸の前で組まれる。


「ベルタ! おい、俺が分かるか」


ガレスの声は低かった。


怒鳴っているわけではない。

それなのに、喉が裂けそうな響きだった。


ベルタの睫毛まつげが、ぴくりと動く。


焦点が合わないまま、彼女はしばらく天井を見ていた。


やがて目の前の男を認識し、眉を寄せる。


「……ガレス?」


「そうだ」


「なんで、あんた……そんな年食った顔してるんだ」


ガレスは笑う。


笑ったのに、その目は赤かった。


「こっちは、お前が死んだって聞いてた」


ベルタの瞳に、ひどく疲れた色が沈んだ。


「……ああ。そう処理されたのか」


ガレスの口元がゆがむ。


けれど、それ以上は言わなかった。


その間にも、部屋のあちこちで小さなせきうめき声が上がる。


レティシアが一人ずつ確認に回る。


「こちらの方は意識があります。水を飲めますか?」


「……ここ、天国?」


「違いますわよ」


レティシアが答えると、黒髪の女がぼんやりした目でこちらを見た。


その近くでは、銀灰ぎんかいの短髪の女が、自分の指先、足元、扉、窓、最後に僕へと視線を移していた。


彼女の輪郭は、部屋の空気から少し浮いている。

目を離せば、すぐに忘れてしまいそうな薄さだった。


彼女の視線が、床の隅で止まる。


けれど、その一瞬だけ、何かを見失ったような顔をした。


やがて何も言わず、視線を戻す。


その時、黒髪の女が外を見た。


「……夕方?」


「火をつけられたのは、昼前だったのに」

「帰る。私、神殿に帰る」


恐怖が、彼女の足をガタガタと震わせていた。


けれど、外へ出た瞬間、彼女の足は止まる。


変わり果てた風景。


……最悪だな。


助け出したのに、次の行き先がない。


本当に、嫌な話だった。


そのまま外に立たせておくわけにもいかず、僕たちはいったん屋敷の中へ戻る。


少なくとも、座って話せる場所は必要だ。


入ったのは、旧詰所きゅうつめしょの応接室だった。


ほこりの匂い。

古い木の匂い。


四人は互いに少しずつ距離を置いて座る。


その中で、リーネだけが正面に座った。


「……お話しします。私たちが、どうして捨てられたのかを」


「神殿にとって、私たちは『できそこない』でした。自分しかいやせない。自分しか守れない。それは、神殿にとって価値のない奇跡でした。……邪悪じゃあくな、寄生虫きせいちゅうなのだと」


てつくような沈黙。


「私たちは、魔女と呼ばれました」


リーネは、自分の手を見る。


「けれど、聖女のように刻を受ける性質もありました。祈らなくても、世界の刻を食べてしまう」


「しかも、私たちの奇跡は、自分のためにしか使えなかった」


誰も動かなかった。


「神殿は言いました。これは奇跡ではない。寄生虫だ、と」


誰も反論しない。


彼女たちの瞳には、光のない暗い色が溜まっていた。


「四人がそろった日、扉の向こうで鍵が閉まる音がしました。何度も叫びました。でも、足音は遠ざかるだけで。……そのあと、隙間から油の匂いがして――」


「火がつきました」


ガレスの奥歯が鳴る音が聞こえた。


怒りが、空気をぴりぴりと震わせていた。


「私は、みんなを守ろうとしました。でも、覚えているのはそこまでです。気づいたら、全部止まっていました。神殿が、時間を止めていったのだと思います」


神殿は、ただ閉じて放置した。


冷酷れいこく廃棄はいき

そうとしか見えなかった。


でも、今それを言って何になる。


僕は表情を整える。


外面だけは、慈悲深じひぶかく。


『……よく、耐えましたわね』


その一言で、リーネの顔がくしゃりと崩れた。


少しの間、静かに泣いていた。


だが、次の瞬間――。


「っ……!」


リーネが胸を押さえる。


ベルタが膝をつき、ミレイユが喉を詰まらせた。


【供給停止中】

【生命維持領域への影響を確認】


……やらかした。


女神のフリをしている場合じゃない。


完全に停止事故だ。


冷や汗が背中を伝った。


「アリア様!?」


レティシアの声が裏返る。


ガレスがベルタを抱えたまま、こちらを睨んだ。


「おい、何をした」


無言で、虚空こくうへ指を走らせる。


【供給再開 / 出力制限:安全域】


リーネの呼吸が戻る。

ベルタの肩の震えが止まる。

ミレイユが呆然ぼうぜんとこちらを見上げた。


「……今、何を」


ミレイユの声が掠れる。


僕は平然とした顔を作る。


冷や汗はあとでぬぐえばいい。


『戻しましたわ。少し、止めすぎましたの』


「戻した……私たちの、奇跡を?」


その中で、リーネだけが震える声で言った。


「……アリア様。ひとつ、お聞きしてもよろしいでしょうか」


『何かしら』


「いま私たちに流れている刻は……」


僕は少しだけ目を細める。


誤魔化ごまかしてもいい。

それでも、この子はたぶん、もう数字で見ている。


『ええ。供給元は、わたくしですわ』


あっさり答えると、納得と恐怖が混ざったような沈黙が部屋を包んだ。


「止めてください」


部屋の空気が揺れた。


リーネは膝の上で手を握りしめたまま、はっきりと言った。


「私たち四人の奇跡が一年続けば、七千二百万刻を超えます」


声は震えていた。


けれど、数字だけは震えなかった。


「七十二万人が、一月生きられる刻です」


誰も口を開けなかった。


「私たちを生かすために、それだけの刻を燃やすのなら」


リーネは顔を上げる。


助けられたばかりの目で、まっすぐ僕を見た。


「その刻で救えたはずの誰かが、死にます」


胸の奥が、冷えた。


正しい。


この子は正しい。


『それでも、今ここで止めることはできませんわ』


僕は言った。


『切れば、あなたたちは死にます。さきほど、それは確認しました』


「ですが……!」


今切れば死ぬ。


『あなたの言葉は、正しい』


唇が、勝手に続きを選ぶ。


『その刻で救えたはずの誰かがいる。わたくしは、それを忘れてはなりません』


『けれど、今ここであなたたちを死なせることも、わたくしにはできません』


リーネの顔が、痛みに歪む。


違う。


僕は、そんな立派なことを言うつもりじゃなかった。


今は止められない。

だから続ける。


それだけだ。


なのに、口から出るアリアの声は、続けることの罪まで抱えようとしていた。


『わたくしは、これから考えます』


喉が、一度だけ詰まる。


僕の言葉ではない。

でも、嘘でもなかった。


『あなたたちが、わたくしの刻に繋がれたままではなく、自分の足で立てる道を』


リーネが顔を上げた。


『……考えますわ。必ず』


「アリア様。私たちは……これから、どうすればよいのでしょうか」


その問いに、今度は僕の本音が先に出た。


『好きにすればよろしいのではなくて?』


「……好きに?」


『ええ。眠りたければ眠りなさいな。食べたければ食べるといいわ。怒るのも、泣くのも、お好きになさいな。ようやく動けるようになったのですもの』


困惑が広がる。


許可なしに生きろと言われて、どうしていいか分からない顔。


リーネが、泣きそうな顔で言った。


「私たちは、死んだことになっています」


リーネの声は、あまりに静かだった。


「本人登録も消されました。神殿の記録では、私たちはもう存在していません」


その瞬間、アリアの表情が消えた。


完全に。


まばたきも、呼吸も、わずかな揺れも消える。


レティシアが息を呑んだ。


「アリア様……?」


死んだことになっている。


目の前で息をしている人間を、台帳の中で先に殺す。


死亡。

処分済み。

記録なし。

供給対象外。


この世界は、それを奇跡より簡単にやる。


『……そう』


声は静かだった。


リーネの肩が、わずかに震えた。


『では、記録を探します』


「記録を……?」


『ええ。消された痕跡を。あなた方が、誰に、いつ、どの権限で死んだことにされたのか』


アリアは、リーネを見ている。


『消しませんわ』


「消さない……?」


『ええ。残します。その上で、生きている記録を重ねます』


部屋の中で、誰も動けなかった。


ネックレスに指を滑らせる。


【本人認証サービス:新規ID発行】

【発行者:アリア・ヴェリス】

【神殿台帳:未照会】


『お名前を伺ってもよろしくて?』


「……リーネ・ヴァイスハイム」


その姓を口にした瞬間、彼女の顔が曇った。


「もし、お許しいただけるなら。アリア様のうじを、いただけませんか」


周りの女たちも、すがるように頷いている。


氏。


たぶん、この世界では思ったより重い。

たぶん、かなり重い。


それを今、要求されている。


普通に困る。


この世界の氏の重さを、僕は知らない。


勢いで配れるわけが――。


「では、ヴェリスでございますね」


レティシアが、さらっと爆弾を落とした。


四人が一斉に僕を見る。


……。


「皆さま、これほどにお困りですのに」


レティシアは真顔だった。


「仮の氏としては、最も安全かと」


少し間を置いて、頬が赤くなる。


「……わたくしも、いずれ検討したい程度には」


『一体、あなたは何を言い出しますの』


頬を染めるレティシアを二度見する。


ファンクラブか何かと勘違いしてないか?


僕は深く息を吐いた。


仮だ、と念を押すつもりだった。


『この名は、庇護ひごではありません』


唇が、勝手に言葉を選ぶ。


『あなたがたが、あなたがた自身の名を取り戻すまでの仮の橋です』


『わたくしのものになるための名ではありません』


全員が神妙な顔で頷いた。


……まるで伝わっていない。


徒労感とろうかんが肩にのしかかった。


『では、リーネ・ヴェリスとして登録いたしますわ』


ネックレスに指を添え、視界に浮かぶ金の文字を確定させる。


雫石からこぼれた光が、リーネの輪郭をそっとなぞる。


それは祝福というより、署名に近かった。


【本人認証IDの発行が完了しました:AR-00-0002】


神殿が消した名ではなく、彼女自身が選んだ名に、新しい認証印が結びついていく。


続いて、残る三人の名が一つずつ登録されていった。


透明だった彼女たちの存在が、ようやく社会へ接続するための輪郭を帯びる。


『ベルタ・ヴェリス』

『セレス・ヴェリス』

『ミレイユ・ヴェリス』


【本人認証IDの発行が完了しました:AR-00-0005】


金の光が四人を順に撫でていく。


リーネが口元を押さえ、ミレイユが泣きながらセレスにしがみつく。


ベルタは目を閉じて、長く息を吐いた。


……駄目だ。


完全に、名付け親みたいな空気になっている。


居心地の悪さが限界に達した。


「本当に、神殿の台帳を通さずに、私たちの身分を……作ったのですか」


ベルタの声がかすれる。


『身分ではございませんわ。本人認証です』


僕は、淡々と答えた。

淡々と答えられていること自体が、もうおかしかった。

舌の感覚が薄い。

指先の震えは、袖の中で隠しているだけだ。


『神殿があなた方を認めた、という記録ではありません。宿を取り、食事を手配し、報酬を受け取る時に、あなた方があなた方であると示すための入口です』


四人が、言葉を失う。


『神殿の台帳を奪うつもりはございません。奪えば、管理者の名が変わるだけですもの』


全員が、深く、深く頭を下げる。


重い。


『大げさですわ。ですから、恩に着る必要もございません』


『選択肢は三つ用意しますわ。クランに来る。別の町で暮らす。身分だけ整えて、好きな場所へ行く。どれでも構いません』


『今すぐお決めになれとは申しませんわ。まずは宿です。倒れるのも、泣くのも、悩むのも、寝床を確保してからで十分でしょう』


リーネが少し遅れて「はい」と頭を下げる。


レティシアは横で、祈るような顔をしていた。


……やめて。

本当にやめて。


きびすを返す。


『今夜だけは、黙ってついていらっしゃいな。野宿などという不格好な真似は許しませんわ』


声だけは、いつも通り優雅に出た。


声だけは。


足裏の感覚が、少し遠い。

背中に冷たい汗が張りついている。

それでもアリアの顔は、たぶん慈悲深く微笑んでいた。

本当に不便な顔だ。


少し遅れて、四つの足音が床を叩く。


僕の背中に、確かな重みを持った生が続いた。


認証に百億。

押し切るために五百億。

緩衝材として一千億。


屋敷一つの封印を剥がすだけで、千六百億刻。


数字だけなら、誤差だった。


その刻で救えたはずの誰かがいる。


リーネの声が、まだ耳の奥に残っていた。


その瞬間。


視界の端で、金色の文字が瞬いた。


【新規刻生成:停止】

【刻取引網:暫定稼働】

【代替供給元:UID-0】


……は?


足が止まる。


待て。


指先が、勝手に宙の文字へ伸びる。


表示を閉じる。


閉じない。


【通常取引維持費:0.03刻/件】

【処理件数:10,284,119,442件/日】

【一日推定消費:308,523,583刻】


パンを買う。

宿を取る。

薬を受け取る。


そのための、ただの決済維持費。


さらに下の行が開いた。


【注意:本数値は通常取引のみ】

【奇跡発動/治療契約/生命維持契約/軍事刻誓は含まれません】


喉が詰まった。


通常取引だけで、これだ。


その下に、もう一つ表示が出る。


【代替供給を停止しますか?】

【停止時影響:広域取引停止】

【治療契約:一部失効】

【生命維持領域:影響不明】


切れない。


知らない誰かの命綱が、いま僕の残高にぶら下がっている。


女神の蛇口が閉じている。


そして今、僕が開いた蛇口に、この世界の取引がぶら下がっている。


いま、これを切ればこの世界は止まる。


理解した瞬間、膝から力が抜けた。


レティシアの声が、遠くで弾ける。


「アリア様!」


違う。

まだ倒れるな。

せめて、供給だけは維持しろ。


そう思ったのに、指先がもう動かなかった。


視界の端で、金色の文字だけが冷たく瞬いている。


【代替供給元:UID-0】

【暫定稼働中】


そこで、意識が落ちた。

ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。

<(_ _)>


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ