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第10話 金線が顔まで這い上がる朝、彼女は祈る

金線きんせん侵食しんしょく


聖都アルテリアで、四人の特異魔女とくいまじょが解放された翌日。


ルーヴェル王国の西端。

ヴァルカ帝国と向かい合う国境砦こっきょうとりで


その神殿支部は、硬く乾いた白さに満ちていた。


ちりひとつ落ちていない石床。

空気に沈む、甘い香油こうゆの匂い。

高い窓から差し込む朝日が、回廊かいろうを照らし出す。


祈祷室きとうしつへ続く、その光の中で。

新米聖女リナが立ち尽くしていた。


「また……」


情けない声が漏れる。


祈祷衣きとういひもがほどけ、片側だけが長く垂れ下がっている。

焦って直そうとするほど、布地が引きつれ、形が崩れていく。


「リナ。手を貸しましょうか」


やわらかな声がした。


振り向くと、セラフィナが立っている。


砦の誰もが敬意を払う、ベテランの聖女。

声はいつも低く、手つきに乱れがない。


その首筋から手の甲にかけて、金色の細い線が走っている。

白い肌の下に、熱を持たない光が埋まっているようだった。


祈祷の鐘まで時間がない。


それでも、リナはそこから目を離せなかった。


「……セラフィナ様の金線、本当に綺麗です」


「女神様に、近づいているみたいで」


セラフィナの指が、祈祷衣の紐を結ぶ途中で止まる。


「ええ。きっと、もうすぐ抱いていただけるのでしょうね」


その声はやさしい。


けれど、触れた指先は石のように冷たかった。


◆ 沈黙の祈祷室


朝の祈祷が始まる少し前、セラフィナは一人、祈祷室へ向かう。


砦の兵たちは、金線の濃い聖女を見ると、自然に道を空ける。


敬意だった。


あるいは、明日には石像になる者への遠慮だった。


薄い靴底から、石床の冷気がい上がってくる。


けれど、指先の感覚だけが、昨日より遠い。


右手の薬指は、もう細かく曲がらない。

透き通った爪の根元まで、金線が届いている。


今日、自分は完全に石に変わるのかもしれない。


怖くない、と言えば嘘になる。

けれど、怖がってはいけない。


これまでに何人も見てきた。


祈りの最中に、指先から石の粉をこぼした者。

微笑んだまま、胸元まで白く固まった者。


誰もそれをのろいとは呼ばず、女神に抱かれたとたたえた。


だから、信じるしかなかった。


血肉ちにくを削って祈れば、こくが生まれる。

刻が生まれれば、国境で血を流す兵が助かる。

砦の結界けっかいが保たれる。

遠くの村まで、食料契約が届く。


自分の体が冷たい石に近づくことを、恨んではいけない。


祈祷室の扉の前で、足を止める。


いつもの儀式。


まぶたの裏に、不器用な青年の顔が浮かぶ。


面会日に、野の花を持ってきたあの人。

彼は今、どこで、どうしているだろう。


もし、あの手を取っていたなら。


小さな家で、朝を迎えていたかもしれない。

重い祈祷衣ではなく、普段着の袖をまくって、台所に立つ日があったかもしれない。


ありえない未来が、石になりかけた指先に、ほんの少し血を戻した。


けれど、すぐに消す。


そんな未来は、どこにもない。


重い音を立てて、扉が開く。


中央には、巨大な刻槽こくそう


透明な水晶の奥で、かすかな金色の光が脈を打つように揺れている。


聖女たちが、等間隔に並ぶ。


震える新米もいる。

すでに金線が顔まで這い上がった者もいる。


セラフィナは定位置の石床に膝をつく。

両手を胸の前で組み、深く額を伏せる。


今日が、最後でもいい。


そう思った。


そう思わなければ、膝が震えてしまう。


「女神アルテリアよ。我らの身を、器としてお使いください」


幾人もの祈りの声が、重い石の壁に反響する。


セラフィナは目を閉じる。


いつもなら、ここで痛みが来る。


骨の奥に熱が走り、血管を金の糸が這い回る。

恐ろしく、神聖な苦痛。

肉体のどこかが、女神の器へと作り替えられていく。


だが。


何も、起こらない。


熱が来ない。

刻槽の光が増えない。


セラフィナは目を開く。


祈祷室に並ぶ聖女たちも、顔を上げている。

誰もが、自分の身に何が起きているのか分からない顔をしていた。


やがて、刻槽の水晶の表面に、無機質むきしつな文字が浮かび上がる。


【新規刻生成:失敗】

【祈祷接続:応答なし】

【供給元:ー】

【刻槽増加量:0】


その文字を見た瞬間、セラフィナの背筋が冷える。


「もう一度です!」


神官長の声が飛ぶ。


「祈りが乱れています! 姿勢を正し、雑念を捨てなさい!」


聖女たちは慌てて目を閉じ、もう一度祈る。


けれど、何も起こらない。


一滴の刻すら、生まれない。


隣の聖女が床に崩れる。


後列で、リナが悲鳴を上げる。


セラフィナは、倒れた者を支えようとして手を伸ばした。


助かった。


一瞬、そう思った自分に、胸の奥が激しくうずいた。


では、自分は今日まで、何のために命を削ってきたのか。


これまでに石になったあの優しい子たちは、何のために笑って砕けていったのか。


祈祷室に、誰かのすすり泣きが落ちた。


◆ 刻の瓶


祈祷室に落ちた異常は、すぐに数字へ変換された。


会計官オルドは、勘定石かんじょうせきに浮かぶ数値を三度見直す。


間違いであってほしかった。


目をこすっても、勘定石に浮かぶ数字は変わらない。


【砦備蓄刻:18,420,000】

【新規生成:0】

【消費:治癒/結界/伝令、制限運用中】

【警告:現行制限下における防衛奇跡維持可能日数:180日】

【警告:戦闘強度上昇時、維持可能日数は大幅に短縮】


刻はある。


消えたわけではない。

敵に奪われたわけでもない。

砦の備蓄槽びちくそうには、まだ十分な量の刻が残っている。


問題は、一滴も増えないことだった。


いつもなら、朝と夕に神殿支部から祈祷の鐘が鳴る。

聖女たちが身を削って祈り、刻槽が満ちる。

その一部が、砦へ流れ込む。


治癒だけではない。


夜の結界。

王都への伝令。

補給契約。

食料庫の維持。


数字の上では、それらが同じ速度で備蓄を削っていた。


これまでは、井戸だと思っていた。


めば、また満ちる。

そういうものだと、誰も疑わなかった。


いまは、ただの水瓶だ。


減った分は、二度と戻らない。


オルドの喉が、嫌な音を立てる。


今、この瞬間も、救護室では負傷兵が増え続けている。


ルーヴェル王国とヴァルカ帝国の国境では、小競り合いが珍しくない。


今日もすでに、毒矢を受けた兵が三人。

結界際で呪詛じゅそに焼かれた兵が一人。


救護室へ運ばれてきた。


いつもなら、治癒奇跡に刻を流し込めば、肉は盛り上がり、傷はふさがる。


だが今は違う。


その奇跡を一回使うごとに、限られた備蓄が確実に削られていく。


オルドは、震える指で報告板へ数字を刻み込む。


「……増えない数字は、嫌いだ」


誰に言うでもない声だった。


数字は嘘をつかない。


だからこそ、彼はこの仕事が嫌いだった。



その数字は、朝のうちに司令室へ運ばれた。


ルーヴェル王国西方軍司令官、ダリウス・ローガン。


彼は報告を最後まで聞き終えると、神官長へ視線を向けた。


「神域の、一時的な不調、か」


神官長の法衣ほうえの襟元に汗がにじんでいる。


「は、はい。大神殿からの正式な通達を待つべきかと……」


「その正式な通達とやらが来るまでに、救護所の負傷兵はどうする」


「それは……重傷者を優先し、軽傷者は薬草などの通常治療に回すしか……」


「結界は」


「夜間のみの維持に切り替えれば、数か月は持ちこたえられます」


「伝令は」


「王都向けを最優先にするべきです」


ダリウスは、机上に広げられた地図へ視線を落とす。


ルーヴェル王国西端の国境砦。

険しい山脈の向こうには、ヴァルカ帝国の前線基地がある。


ここが崩れれば、帝国の騎兵が低地へなだれ込む。


神殿の祈りが止まった。


そんな理由で、軍の機能を落とすわけにはいかない。


「女神が沈黙したのではない」


ダリウスは低い声で言う。


「誰かが、意図的に女神の声を握ったのだ」


神官長の顔から血の気が引いた。


「将軍! それはいくらなんでも、大神殿への不敬ふけいですぞ!」


「不敬で兵は死なん。だが、判断の遅れで兵は死ぬ」


ダリウスは立ち上がる。


「治癒は重傷者のみに制限。結界は夜間のみ。伝令は王都を最優先。神殿の勘定石をすべて軍の監視下に置け」


神官長が息を呑む。


「せ、聖女たちを疑うのですか!」


「我が国の聖女ではない。私は、神殿が隠してきた仕組みそのものを疑っている」


ダリウスは窓辺に歩み寄り、外を見る。


砦の城壁の向こうに、白い神殿支部の尖塔せんとうが立っている。

そのさらに遠く、この世界の中央には、アルテリア聖座国の大神殿がある。


大神殿には軍がない。


だが、どの国の王も膝を折る。


剣を向ければ、こちらが悪になる。


だが、もし大神殿が刻を止めたのなら。


あるいは、制御できなくなったのなら。


不可侵ふかしんに刃を入れる理由が生まれる。


「内側の者へつなげ」


控えていた副官が顔を上げる。


「大神殿の密偵みってい、ですか」


「そうだ」


「何を調べさせますか」


「直近三日の異常記録。全神官の本人台帳。筆頭司祭アルヴェリウスの動向。ほこりひとつ残さず拾い上げろ」


「聖都アルテリアに、踏み込むおつもりですか」


ダリウスは、地図の上にあるアルテリア聖座国の印へ指を置く。


「踏み込むには、世界中が納得する理由が要る」


副官は頭を下げる。


「それと」


ダリウスの声が、さらに低くなる。


「第三封印庫の状態を確認しろ」


神官長の唇が震える。


「ま、まさか、獣骸じゅうがいを……!」


その名が出た瞬間、副官の肩にも力が入る。


獣骸の魔女。


死んだ獣を兵に変える。

国境の土に埋められたむくろが、もう一度戦場に立つ。


味方の馬も、敵の軍犬も、区別はない。


それを奇跡と呼べる者は、この部屋にはいなかった。


「まだ起こさん。だが、いつでも鎖を外せるようにしておけ」


神官長が、震える声で言った。


「そこまで危ぶまれるなら、今すぐ国境へ出せばよいのでは……」


「獣骸は、敵だけを選ばん」


神官長の顔色が変わる。


「それに、いまは刻が増えん。獣骸を起こせば、備蓄は一気に削れる。治癒も、結界も、伝令も、そのぶん細る」


ダリウスは地図の上、国境線を指でなぞった。


「切り札とは、最初に抜く札ではない」


「抜いたあと、戦場そのものが戻らなくなる札だ」


「では、いつ……」


「帝国が越境した時だ」


ダリウスの声は冷たかった。


「その時だけ、こちらは怪物を起こす理由を得る」


◆ 眠れる切り札


ダリウスの命令は、神殿支部ではなく、ルーヴェル王国軍の奥へ届いた。


第三封印庫は、砦の地下深くにはない。


厳重に区画された、王国軍の管理領域。

そのさらに奥にある。


神殿支部の地下聖堂とは違う、無機質な空間。


分厚い鋼鉄こうてつの扉。

物理と魔術が絡み合った三重の鍵。

国王印と軍印が刻み込まれた封鎖石。


その奥に、たったひとつの部屋がある。


そこは、牢獄ではない。


最高級のきぬが敷かれた寝具。

温度を保つ結界。

磨かれた銀の水差し。

花の香りを含んだ空気。


人を閉じ込めるには、あまりに丁寧な部屋だった。


だからこそ、誰も牢獄とは呼ばなかった。


そして、眠る少女のそばには、淡い青色の光を放つ大きな石が据えられている。


少女は、深い眠りに落ちている。


光を吸ったまま返さない、長い黒髪。

整いすぎて、祈りの場に置かれた像のような顔だった。


眠っているだけなのに、彼女のそばに立つ兵は無意識に肩へ力を入れていた。


彼女の右手首には、鈍く光る細い金属環きんぞくかんがはめられている。


その環から、青い光の帯が、隣の石へ脈打つように伸びていた。


石の表面に、無機質な文字が浮かぶ。


【戦闘特化魔女:休眠中】

【識別名:獣骸の魔女】

【骸兵接続:封鎖中】

【維持供給元:ルーヴェル王国備蓄刻】

【出力安定率:92%】

【再起動準備:可能】


専属医は淡々と数値を確認する。


少女の寝顔には目を向けない。


ただ、右手首から伸びる不気味な光だけを見る。


「状態は安定」


傍らの兵が、羊皮紙に記録する。


「将軍命令が下った。再起動の準備状態を維持しろ。起動自体は保留だ」


「承知しました」


兵の声が少し硬くなる。


重い扉が閉じる。


部屋は再び、静かになる。


少女は眠っている。


危険すぎるがゆえに国に囲われ、国に選ばれた魔女。


ヴァルカ帝国を焼くための、ルーヴェル王国の切り札。


誰も、この眠りを守ることを愛情とは呼ばない。


ただ、維持と呼んだ。


◆ 世界のきし


アルテリア聖座国の大神殿。


作戦会議室では、朝から通信石が鳴りやまない。


東方支部。

ルーヴェル王国西方国境砦支部。

南方港湾支部。

北方山岳支部。

各国王都の直属神殿。

最前線の軍属神殿。

聖地巡礼都市。


世界中から届く報告は、どれも同じ場所で詰まっていた。


全聖女の祈祷失敗。

刻槽増加量、ゼロ。

治癒奇跡の不発。

軍用奇跡の起動遅延。

大規模契約更新処理の停止。


さらに悪い報告も混じる。


一部支部における、軍による神官の通信制限。

聖女の移動禁止命令。

備蓄刻の軍管理化。


司祭たちは、通信石の前で立ったり座ったりを繰り返している。


「一時的な神域の不安定と発表すべきです!」


「末端の聖女たちの不信心ではないのか!」


「各国へ通達を!」


「責任範囲を明確にしなければ、神殿の権威が……!」


言葉ばかりが飛ぶ。


誰も、原因には触れない。


触れた瞬間、足元が抜けると分かっている。


筆頭司祭アルヴェリウス・グラディウスは、その中央で口を閉ざしていた。


赤。

青。

金。


各国の緊急符号が、白い法衣の上をちらちらと汚していく。


やがて、アルヴェリウスが口を開いた。


「聖女の不信心ではありません」


大きな声ではない。


それでも、会議室の熱が引く。


「今朝、世界中の聖女が同時に信仰を失った。そう発表するおつもりですか?」


誰も答えない。


通信石は、まだ鳴っている。


報告に見える。


だが、違う。


各国は探っている。


大神殿が何を知り、何を隠し、何を失ったのか。

それを、通信の文面で測っている。


アルテリア聖座国は、すべての国から宗教的な宗主として仰がれている。


だが、王も軍も税も、それぞれの国が握る。


彼らは信徒であって、臣下ではない。


大神殿には、自前の大軍がない。


護衛はいる。

聖堂騎士もいる。

門は厚く、防壁も高い。


だが、それは国家の正規軍を退ける力ではない。


大神殿を守ってきたものは、石壁ではない。


女神の座へ剣を向けてはならない。


世界中の国が、そう信じている。


その薄い合意だけが、聖域を聖域にしていた。


どこか一国でも、そのたがを外す。


他国も続く。


刻槽を押さえられる。

聖女を連れ出される。

本人台帳も、祈祷術式も、神託記録も奪われる。


それはもう、神殿への不敬ではない。


戦利品の分配だ。


アルヴェリウスの舌の上で、言葉が冷えていく。


それだけは、何としても避けなければならない。


「各国には、大神殿の意志による供給停止ではなく、神域全体における原因不明の接続不安定と伝えなさい」


老司祭の一人が、戸惑ったように顔を上げる。


「そ、それは嘘になりませんか?」


「嘘ではありません」


アルヴェリウスは言う。


「すべてを言わないだけです」


「しかし、本当の原因は……」


「原因の断定は不要です。大神殿が原因を断定した瞬間、各国はそれを理由に自国の正当性を主張し、軍を動かします」


「では、我々はどうすればよいのですか!」


「時間を稼ぎます」


会議室が沈む。


アルヴェリウスは続ける。


「加えて、現在交戦中の国へ、ただちに使節団を出しなさい。休戦勧告です」


今度の沈黙は、少し質が違った。


「休戦……でございますか」


「祈りの猶予ゆうよを求めるのです」


アルヴェリウスは、通信石の光を見たまま答えた。


「女神の神域が不安定な今、軍用奇跡を燃やし続けることは望ましくありません。そう伝えなさい」


「ですが、そのような神託は――」


「断片はございます」


アルヴェリウスは、そこで初めて顔を上げる。


「完全な言葉ではない。ですが、各国が剣をさやへ戻す理由にはなります」


老司祭が唇を震わせた。


「神殿が、戦争を止めると?」


「止めるのではありません」


アルヴェリウスの声は静かだった。


「退く名分を渡すのです。どの国も、刻を失いたくない。けれど、自分から退けば弱腰と見られる。ならば、女神への恭順きょうじゅんという形にすればよい」


誰も答えない。


「敗北ではなく、祈りのための停止。撤退ではなく、聖なる猶予。各国がそう呼べるなら、兵は一度止まります」


通信石が、また震えた。


「交戦中の国境支部には、休戦交渉の場を整えさせなさい。通信を制限されている支部には、聖堂騎士を伴わせる。表向きは祈祷確認。実際には、軍が支部を完全に押さえる前に、こちらの口を残すためです」


「そこまで、急ぐ必要が……」


「あります」


アルヴェリウスは短くさえぎる。


「戦争が続けば、刻は燃えます。刻が燃えれば、各国は大神殿に原因を求める。原因を求める軍は、最後にはここへ来る」


会議室が沈む。


「その前に、止められる戦は止めます」


司祭たちは、互いに顔を見合わせる。


神殿が戦争を止める。


そんな大それた話ではない。


ただ、各国が退ける言葉を先に置く。


それだけだ。


それだけのために、神託という名を使う。


「現場の聖女への責任転嫁せきにんてんかは一切禁止。支部への処罰通達も禁止する。各国には、手持ちの備蓄刻の節約を強く促しなさい。人命に関わる治癒と最低限の防衛のみを優先するように」


「各国が従わなければ?」


「従わない国から、刻を失います」


アルヴェリウスは迷わない。


「そして、刻を失った国は、大神殿か隣国へ手を伸ばす。そうなる前に、全員へ同じ言葉を渡します」


通信石が震える。


今度は、誰もすぐには手を伸ばさない。


「……アリア・ヴェリスの件は?」


その名が落ちた瞬間、会議室の空気が変わる。


アルヴェリウスは、すぐには答えない。


透き通るような白い顔。

首に巻かれた金の首飾り。

UID-0の刻印。

解き放たれた四人の特異魔女。

そして、今朝の世界的な祈祷停止。


断片が、頭の中で静かにつながる。


神託。

零番ぜろばん

四つのくさび

女神の外より来たる者。

聖女は祈れど、器は満たされず。


偶然と呼ぶには、重なりすぎている。


「絶対に漏らすな」


短く告げる。


「今は、まだ」


「しかし、各国がすでにアリア・ヴェリスの名を掴んでいた場合は……」


「その場合でも、こちらからは認めません」


アルヴェリウスは、通信石の群れを見下ろす。


「彼女が何者であるかは、まだ神殿が定義していない。定義していないものを、各国に奪わせるわけにはいきません」


老司祭が息を呑む。


「保護、でございますか」


「ええ」


アルヴェリウスはうなずく。


「保護です」


その言葉だけが、ひどく薄く聞こえた。


だが、この場の誰も、それを指摘しない。


「アリア・ヴェリスに関する記録は、筆頭司祭権限で封鎖します。旧詰所、四人の特異魔女、UID-0、首飾り。関連する照会はすべて私の元へ回しなさい」


「承知しました」


「それから、ローヴェン神官の件も外へ漏らさないように。腐敗の処理は内部で済ませる。今、神殿の台帳が揺らいでいると知られる方が危険です」


「はい」


「各国支部には、聖女を責めるなと重ねて伝えなさい。聖女が疑われれば、各国は自国の聖女を囲い込みます。移動を止め、通信を切り、最後には神殿支部を軍の倉庫に変える」


司祭たちの顔から、血の気が引いていく。


アルヴェリウスは、その反応を待たない。


「祈祷失敗は、聖女の罪ではない。神域全体の接続不安定である。交戦中の国には、流血を慎むよう神託の断片が示されたと伝える。各国には備蓄刻の節約を促す。現場を責めるな。原因を断定するな。アリア・ヴェリスを漏らすな」


そこで、彼は言葉を切った。


「以上です」


誰も、すぐには動けない。


「動きなさい」


その一言で、司祭たちはようやく散り始める。


通信石を取る者。

石板へ命令を書き込む者。

使節団の名簿を呼び出す者。

聖堂騎士への伝令を走らせる者。


会議室に音が戻る。


だが、そこに安心はない。


壊れた仕組みを直したのではない。

どこから隠すかを決めただけだ。


アルヴェリウスは、長卓の端に残された通信石へ目を落とす。


まだ震えている。


世界は沈黙したのではない。


ただ、大神殿が返せる答えだけが、ひとつも残っていなかった。


◆ 欠けた神託


会議が終わると、アルヴェリウスは一人で地下へ下りた。


神託記録室は、大神殿の地下深く、冷え切った最奥にある。


立ち入りを許される者は限られている。


記録を管理する係でさえ、全文を見ることは許されない。

ただ文字を写し取るだけの役目を求められる場所だ。


アルヴェリウスは、螺旋らせん状の階段を下りていく。


壁に灯る魔力光が、彼の影を石畳に落とす。


重厚な石扉の前で、自らの勘定石をくぼみに触れさせる。


【筆頭司祭権限:確認】

【神託記録室:開錠】


地鳴りのような音を立てて、扉が開く。


乾いた空気の満ちる室内には、古い石板が並んでいる。


そこに記されているのは、完全な文章ではない。


女神の声は、いつも完全な文章では届かない。


欠けた断片。

途切れた警告。

前後を失った名。


人はそれを拾い集め、都合よく繋ぎ合わせ、神託と呼ぶ。


アルヴェリウスは歩みを進め、最も奥に安置された石板の前に立つ。


そこには、近年、彼が誰の目にも触れさせなかった記録が刻み込まれている。


【聖女は祈れど、器は満たされず】

【四つの楔が解かれる時、新たな道が開かれる】

【零番、女神の外より来たる】

【零番が動かねば、世界は焼ける】


零番。


アルヴェリウスは、その文字を見つめる。


アリア・ヴェリス。


彼女は、世界を救う女神の使徒なのか。


それとも、何百年も続いた女神のシステムそのものを破壊する火種なのか。


四つの楔。


そして今朝、現実のものとなった新たな刻の沈黙。


ただの偶然と呼ぶには、線がそろいすぎている。


それでも、彼はまだ断定できない。


断定すれば、大神殿は彼女に対して動くしかなくなる。


一度大神殿が動けば、疑心暗鬼ぎしんあんきに陥った国々も、神殿の兵も、そして彼女自身も、もう止まらない。


アルヴェリウスは、冷えた指先で石板の文字をなぞる。


「あなたが、この事態を開く鍵なのか。それとも、すべてを焼き尽くす火種なのか」


声は、石の部屋に沈む。


軍はない。

国々は待たない。

聖女は祈っても、もう刻を生まない。

解かれた魔女は、国々にとって喉から手が出るほど欲しい兵器になる。


アルヴェリウスは目を閉じる。


もう何年も、女神の温かな声は聞こえていない。


「そして、あなたがどちらであったとしても……」


ゆっくりと目を開く。


薄暗い石板の中で、零番の文字だけが冷たく光っていた。


「国々はもう、待ってはくれない」



この日、世界のどこかで女神の喉がふさがった。


だが、人の営みは止まらない。


兵は傷つき、腹は減り、国は機会を逃さない。


祈る者。

数える者。

奪う者。

とらわれる者。


誰も、自分の足跡が同じ記録へ集まっているとは思っていない。


それでも、すべての足跡は同じ場所へ向かっていた。


アルテリア聖座国。


女神の名で、世界の刻を束ねてきた場所。


女神の声は途切れた。


ならば、その空白を、誰の名で埋めるのか。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

<(_ _)>


引き続き、よろしくお願いいたします。

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