第11話 なぜ彼は、神話になることを拒んだのか
◆創始者鍵
湿らせた布の感触。
薬草を煮る匂い。
廊下を走る子どもの足音。
リーネの冷たい指。
それらが、少しずつ遠のいていく。
最後まで残ったのは、金色の文字だった。
【供給元:零番】
【創始者鍵照合:完了】
その文字を見た瞬間、俺の意識は異世界の寝台を離れた。
落ちた先は、二十年以上前の病室。
姉貴――サトコは、ベッドの上にいた。
頬はそげ、唇の端が割れている。
「ゆうき」
俺は顔を上げた。
「何?」
サトコが、枕元の棚を指す。
そこには、一通の茶封筒が置かれていた。
「消えない日記を作りたかった」
封筒の中身は、日記帳と呼ぶにはあまりに無機質だった。
数式。
仕様案。
検証メモ。
断片的なコード。
そして、赤い線で塗りつぶされた失敗の跡。
当時の俺には、その半分も理解できない。
それほどサトコは天才だった。
「今は、それより休んで」
声が少し強くなる。
怒っていたわけじゃない。
怖かったのだ。
「明日、もう一度確認なんだよね」
「ああ。先生も、順番が来れば元気になれるって言ってた」
サトコは安心したように目を閉じる。
「なら、だいじょうぶだね」
「ああ。大丈夫」
俺はそう言った。
言ってしまった。
サトコは、乾いた唇を少し開く。
「消えないやつが、ほしかっただけなんだ。紙もデータも、誰かが書き直しちゃうでしょ」
「神様でも消せない日記帳に、書きたかった。……私がここにいるよ、って」
残したかったのは、未完成のコードなのか。
自分がここにいたという証なのか。
その時の俺には、分からなかった。
「それ、ゆうきに」
声は、ほとんど息だった。
最後に、もう一度だけ唇が動く。
「ゆうきに」
それだけだった。
守ってくれとも、完成させてくれとも言わない。
ただ、渡した。
◆
病院から白い封筒が届いたのは、葬儀から三週間後だった。
謝罪文。
内部監査報告。
再発防止策。
どれも、人ひとりが死んだ理由を入れるには薄すぎた。
受付、完了。
検査、完了。
待機登録、完了。
定期確認、完了。
紙の上では、すべてが「正常なプロセス」として閉じられている。
だからこそ、一か所だけ古い日付のまま残っている欄が、異物に見えた。
適合条件コード。
そこだけが、前回検査の日付のままだった。
サトコは待機者として登録されていた。
だが、一部の内容だけが更新されていない。
臓器が見つかった日、最終照合で不整合が出る。
確認が必要と判断される。
その間に、臓器は次の候補者へ回った。
誰も悪意を持っていない。
だから余計に、たちが悪い。
サトコは、名簿の上では生きていた。
けれど、救われる順番からは機械的に弾き出された。
俺は報告書を机に置いた。
「大丈夫だ」と、俺は言った。
俺も、主治医も、病院も、このシステムを信じた。
その結果だけが、サトコの死だった。
机の端には、茶封筒がある。
消えない日記帳の作りかけ。
サトコは、非の打ち所のない外面をした台帳に殺された。
そのサトコが、台帳を遺した。
笑えない冗談だった。
◆
和解金が振り込まれたのは、その少し後だった。
画面に残ったのは、金額だけ。
人ひとりの命が、ただの数字になっていた。
俺は、その金をすべて機材へ変えた。
サーバー。
電源。
回線。
冷却装置。
記録媒体。
口座の数字が減るたびに、命についた値札が、熱と光と処理能力へ変わっていく。
気分は最悪だった。
それでも止めなかった。
最初の記録を刻んだ夜、俺の指は震えていた。
病室で細くなった指。
「大丈夫だ」と言ってしまった自分の声。
間に合わなかった順番。
人は間違える。
画面は、正しい顔をして嘘をつく。
だから、誰か一人が訂正できてしまう記録を、真実と呼んではいけない。
俺は、創始者鍵を作成した。
サトコを待機状態のまま死なせた世界への異議。
自分への罰。
そして、冷徹な整合性に隠れて人を殺すバグへの、呪い。
実行キーを押す。
画面に、最初の記録が刻まれた。
戻せないものが、ひとつ増えた。
その記録こそが、サトコに対してできる最も冷たい裏切りで、最も近い祈りだった。
◆
創始者鍵。
創始者資産。
サトコの死に対して支払われた金から生まれた価値。
それは俺の金ではない。
それが今、この世界では刻に変わっている。
その刻で、俺は奇跡を動かした。
魔女を救った。
女神の仕組みに穴を開けてしまった。
魔女たちは、台帳の上では死んでいた。
あの子たちもまた、「不備のない記録」の中で、先に殺されていた。
――ゆうきに。
遅すぎる返事を、記憶の底へ落とす。
(分かった)
(今度は、見落とさない)
俺は、ゆっくりと目を開ける。
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件、ならびに特定の暗号通貨やその創始者とは一切関係ありません。また、作中の医療描写は物語上の演出であり、実在の医療制度とは異なる場合があります。




