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第11話 なぜ彼は、神話になることを拒んだのか

創始者鍵ジェネシス・キー


湿らせた布の感触。

薬草を煮る匂い。

廊下を走る子どもの足音。

リーネの冷たい指。


それらが、少しずつ遠のいていく。


最後まで残ったのは、金色の文字だった。


【供給元:零番ゼロ

創始者鍵ジェネシス・キー照合:完了】


その文字を見た瞬間、俺の意識は異世界の寝台を離れた。


落ちた先は、二十年以上前の病室。


姉貴――サトコは、ベッドの上にいた。


頬はそげ、唇の端が割れている。


「ゆうき」


俺は顔を上げた。


「何?」


サトコが、枕元の棚を指す。


そこには、一通の茶封筒が置かれていた。


「消えない日記を作りたかった」


封筒の中身は、日記帳と呼ぶにはあまりに無機質だった。


数式。

仕様案。

検証メモ。

断片的なコード。


そして、赤い線で塗りつぶされた失敗の跡。


当時の俺には、その半分も理解できない。


それほどサトコは天才だった。


「今は、それより休んで」


声が少し強くなる。


怒っていたわけじゃない。

怖かったのだ。


「明日、もう一度確認なんだよね」


「ああ。先生も、順番が来れば元気になれるって言ってた」


サトコは安心したように目を閉じる。


「なら、だいじょうぶだね」


「ああ。大丈夫」


俺はそう言った。


言ってしまった。


サトコは、乾いた唇を少し開く。


「消えないやつが、ほしかっただけなんだ。紙もデータも、誰かが書き直しちゃうでしょ」


「神様でも消せない日記帳に、書きたかった。……私がここにいるよ、って」


残したかったのは、未完成のコードなのか。

自分がここにいたという証なのか。


その時の俺には、分からなかった。


「それ、ゆうきに」


声は、ほとんど息だった。


最後に、もう一度だけ唇が動く。


「ゆうきに」


それだけだった。


守ってくれとも、完成させてくれとも言わない。


ただ、渡した。



病院から白い封筒が届いたのは、葬儀から三週間後だった。


謝罪文。

内部監査報告。

再発防止策。


どれも、人ひとりが死んだ理由を入れるには薄すぎた。


受付、完了。

検査、完了。

待機登録、完了。

定期確認、完了。


紙の上では、すべてが「正常なプロセス」として閉じられている。


だからこそ、一か所だけ古い日付のまま残っている欄が、異物に見えた。


適合条件コード。


そこだけが、前回検査の日付のままだった。


サトコは待機者として登録されていた。


だが、一部の内容だけが更新されていない。


臓器が見つかった日、最終照合で不整合が出る。

確認が必要と判断される。

その間に、臓器は次の候補者へ回った。


誰も悪意を持っていない。


だから余計に、たちが悪い。


サトコは、名簿の上では生きていた。


けれど、救われる順番からは機械的に弾き出された。


俺は報告書を机に置いた。


「大丈夫だ」と、俺は言った。


俺も、主治医も、病院も、このシステムを信じた。


その結果だけが、サトコの死だった。


机の端には、茶封筒がある。


消えない日記帳の作りかけ。


サトコは、非の打ち所のない外面ツラをした台帳に殺された。


そのサトコが、台帳を遺した。


笑えない冗談だった。



和解金が振り込まれたのは、その少し後だった。


画面に残ったのは、金額だけ。


人ひとりの命が、ただの数字になっていた。


俺は、その金をすべて機材へ変えた。


サーバー。

電源。

回線。

冷却装置。

記録媒体。


口座の数字が減るたびに、命についた値札が、熱と光と処理能力へ変わっていく。


気分は最悪だった。


それでも止めなかった。


最初の記録ブロックを刻んだ夜、俺の指は震えていた。


病室で細くなった指。

「大丈夫だ」と言ってしまった自分の声。

間に合わなかった順番。


人は間違える。


画面は、正しい顔をして嘘をつく。


だから、誰か一人が訂正できてしまう記録を、真実と呼んではいけない。


俺は、創始者鍵ジェネシス・キーを作成した。


サトコを待機状態のまま死なせた世界への異議。


自分への罰。


そして、冷徹な整合性に隠れて人を殺すバグへの、呪い。


実行キーを押す。


画面に、最初の記録が刻まれた。


戻せないものが、ひとつ増えた。


その記録こそが、サトコに対してできる最も冷たい裏切りで、最も近い祈りだった。



創始者鍵。

創始者資産。


サトコの死に対して支払われた金から生まれた価値。


それは俺の金ではない。


それが今、この世界ではこくに変わっている。


その刻で、俺は奇跡を動かした。

魔女を救った。

女神の仕組みに穴を開けてしまった。


魔女たちは、台帳の上では死んでいた。


あの子たちもまた、「不備のない記録」の中で、先に殺されていた。


――ゆうきに。


遅すぎる返事を、記憶の底へ落とす。


(分かった)


(今度は、見落とさない)


俺は、ゆっくりと目を開ける。


※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件、ならびに特定の暗号通貨やその創始者とは一切関係ありません。また、作中の医療描写は物語上の演出であり、実在の医療制度とは異なる場合があります。

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