第12話 寝台が祭壇へ代わる朝
目を開ける。
天井が滲む。
白い漆喰。木の梁。窓辺で揺れる薄い布。
孤児院の、見慣れた部屋だ。
「……起きましたか」
すぐ横から、レティシアの声がした。
顔を向けようとして、首の奥に熱が沈んでいることに気づいた。
体が重い。指先に力が入らない。
喉の内側は、焼いた紙みたいに乾いていた。
『……お水を、いただけるかしら』
出てきた声だけは、持ち主の不調を知らない。
どこまでも澄んでいる。
腹が立つほど、女神の声だ。
レティシアが水差しを取り、口元へ運んでくれる。
水が喉を落ちるだけで、胸の奥に張っていたものが少しほどけた。
レティシアの報告は、いつもより早い。
昨夜の熱。エリセ先生の診断。深い疲労。
つまり、権限に対して、この体が弱すぎるのだ。
無理をすれば、次は本当に動けなくなる。
『……課題ね』
「はい?」
『いえ。こちらの話ですわ』
レティシアが眉を寄せる。
濡らした布が額に置かれた。
手つきが妙に丁寧で、少しだけ怖い。
近くで見ると、レティシアの頬が赤い。
……この子も熱があるのだろうか。
そう思ったけれど、布を替える指先はやけに正確だ。たぶん、熱ではない。
枕元には、ノノがいた。
椅子に座り、じっとこちらを見ている。
獣耳が、緊張でぴんと立っていた。
そこへ、エリセ先生と、花瓶を抱えたミリが入ってきた。
庭の隅で摘んだという、白と黄色の花。
礼を言うと、ミリの顔がぱっと明るくなる。
ユイトが果物の籠を置いていく。
扉の影では、ライの尻尾がゆらゆら揺れていた。
部屋には入ってこない。
『ライも、ありがとう。そこにいてくれるのね』
尻尾が跳ねる。
扉の外で、床を踏み直す音がした。たぶん、姿勢を正した。
心配されるのは苦手だ。
こういうのは、困る。本当に、困る。
けれど、昨日目を覚ました者たちに比べれば、僕の困りごとなど小さい。
四人の魔女のうち、孤児院に残ったのはリーネとベルタだけ。
他の二人は、レティシアが手配した宿へ移っている。
それぞれ、失われた二十年を確かめに行くのだという。
家族。故郷。名前。
残っているもの。消えたもの。
どれも、僕が代わりに見ていいものではない。
隣の部屋から、ガレスとベルタの話し声が聞こえる。
二十年の空白を埋める、短く途切れた会話。
やがて扉が開き、二人が入ってきた。
ベルタの目は赤い。
けれど、背筋は昨日よりずっと強く伸びている。
後ろでは、ガレスが腕を組んでいた。
不機嫌そうな顔のまま、短く吐き捨てる。
「……世話になった」
感謝としては、あまりに無骨だ。
ベルタは、もう床を見ていない。
赤い目のまま、自分の足で立っている。
それで十分だった。
「アリア様」
静かな声がする。
部屋の隅にいたリーネが、寝台の横へ来た。
「離れません」
リーネは、こちらの手を取る。
指先がひんやりしている。
でも、握る力は意志の分だけ重い。
「一度、間に合いませんでした。だから、次は間に合わせます」
それは祈りではなかった。
自分に課した罰みたいな声だった。
「私が触れていれば、すべての攻撃は通りません」
「本当か? そんな奇跡、聞いたことねえぞ」
ガレスが即座に疑う。
しかし、リーネは譲らない。
アリアの手を握ったまま、ガレスを見上げる。
「私が触れていれば、通りません」
「……なら、試す」
ガレスが腰の剣に手をかけた。
「抜かねえ。鞘だけだ」
「寝込んでいる方に剣を向ける必要はありません」
レティシアの声が冷える。
ガレスは剣を鞘ごと外し、一歩踏み込む。
鞘の先が、アリアの前で止まる。
空気が鳴った。
透明な膜が、目の前で弾ける。
ガレスの手首が、ビリッと痺れたように跳ね返された。
「……チッ。通らねえな」
「確認できたなら、今すぐ下がってください。二度目は、私が許しません」
レティシアの目が据わっている。
ベルタだけが、少し笑った。
「相変わらず、やることが雑だな、ガレス」
熱とは別の頭痛がする。
ガレスは悪びれもせず、剣を腰へ戻した。
リーネは何事もなかったように、アリアの手を握り直す。
透明な膜は消えているはずなのに、指先だけはまだ冷たい。
リーネが、怖いほどまっすぐ見つめてくる。こちらの居心地の悪さなど、少しも気にしていない。
たぶん、アリアの顔は微笑んでいる。
神殿の壁画に描かれる女神みたいに、静かで、優しく、逃げ場のない顔で。
やめてほしい。
本当に、やめてほしい。
部屋の空気が、少しずつ見舞いの場に戻っていく。
その時、玄関の方で職員の声がした。来客らしい。
レティシアが部屋を出て、しばらくして戻ってくる。表情が固い。
「昨日の不動産屋の方が、お見えです。どうしても、アリア様に直接お伝えしたいことがあると」
昨日の頑なな態度を思い出す。
あの男は、こちらと深く関わりたがる顔ではなかった。
『……通してください』
不動産屋の男は帽子を握りしめ、青い顔で汗を拭いながら告げた。
「昨日の一件目の物件……古い商会倉庫ですが、お貸しできます。条件は当初の通りで構いません」
男は、こちらの返事も待たずに頭を下げ、逃げるように部屋を出ていく。
扉が閉まる。
しばらく、誰も口を開かない。
昨日は、あれほど身元や近隣への説明を理由に渋っていたのに。
『……ガレス』
「分かってる。俺が見てくる。契約書も、店の様子も、周りの連中もな」
「私も行く」
ベルタが言うと、ガレスが横目で見る。
「休んでなくていいのか」
「二十年寝た。もういい」
それは休んだことになるのか。ならない気がする。
『署名はしないでください。相手が急かしても、その場で決めないで』
「分かってる」
本当に分かっている顔ではなかった。
ベルタが「私が見ておく」と小さく笑う。
それなら、少しだけ信用できる。
二人が出ていくと、部屋の空気がまた静かになった。
借りられるかもしれない。でも、まだ決まっていない。
それでも、本当に借りられるなら、そこを維持する人手が要る。
『レティシア。ユイト、ミリ、ライの三人を呼んでくださる? ……下働きとしてではありませんわ。この場所を回す者として、話をします』
しばらくして、扉が控えめに叩かれる。
ユイトは緊張した顔で背筋を伸ばし、ミリは不安そうにこちらを見る。
ライは無言のまま、二人の少し前に立っていた。
『新しい拠点を作ります。名目は、冒険者のクラン。そこを回すには、剣より先に帳簿と食事と見張りが要ります』
寝台の上から、三人を見る。
『ユイト、あなたには帳簿を。数字をごまかさない才能を貸してほしい。ミリ、あなたには暮らしの管理を。誰が何を必要としているか、あなたの目で見てほしい。ライ、あなたには護衛の見習いを。扉の外の異変に、誰よりも早く気づいてほしい』
条件を提示する。
給金、寝床、食事、教育。危険な仕事はさせないこと。
『これは、対等な雇用契約です。哀れみで呼ぶのではありません。自分の足で立つために、拠点の中に、それぞれの場所を持ちなさい』
ユイトが、ミリが、ライが、順に膝をつく。
「……帳簿なら、ごまかしません」
「食事と寝床は、私が見ます」
ライは深く頭を下げ、「お受けします」とだけ言った。
ただの見習い雇用のはずだった。
なのに、空気が変わる。
見舞いの花も、果物の籠も、急に祭壇の供物みたいに見えた。
違う。これは採用だ。祈りじゃない。
そう思うほど、三人の伏せた頭が、祈りの形に近づいていく。
「私も!」
布団の横で、ノノが立ち上がる。
『今すぐ正式な仲間にはできません。でも、大きくなった時、自分で選べるように席は用意します。条件付きですわ』
「はい!」
ノノまでが膝をつき、頭を下げる。
喉が、勝手に動いた。
『頭を上げなさい』
思ったより、強い声だった。
アリアの声は、伏せた頭をそのままにはしなかった。
『これは施しではありません。祈りでもありません。契約は、目を伏せて結ぶものではありません』
唇が、勝手に続きを選ぶ。
『顔を上げて、断れる者として聞きなさい』
ユイトが、はっと顔を上げる。
ミリの肩が震えた。
ライの耳がぴくりと動く。
部屋の空気が、わずかに揺れた。
レティシアまで姿勢を正し、エリセ先生は祈るような顔をしている。
何をしている。
いつから僕は、そんなことを気にするようになった?
祈らせないために言ったはずなのに。
その言葉まで、神託みたいに受け取られている。
昼過ぎ。
玄関の方で男の声がした。廊下を走る足音が近づいてくる。
「アリア様!」
顔を白くしたミリだった。
息を切らし、両手を胸の前で握りしめている。
「神殿の聖騎士団が来ています。門の前に、白い鎧の人たちがいて……」
ミリの声が震える。
「院長先生と、レティシアさんを呼べって……帰ってくださいって言える感じじゃなくて……」
レティシアの表情が消えた。
その時、僕の手を握るリーネの指が、痛いほど強く食い込んだ。
彼女の目に、静かで暗い「殺意」が宿るのを、僕は見逃さなかった。
玄関の方で、鎧の金具が鳴った。
◆ 幕間:守護の魔女の独白
アリア様。
お可哀想に、熱が私の手のひらを焼いている。
壊れ物のような細い指。
吸い付くような、柔らかい手のひら。
少しでも力を込めれば、このまま砕けてしまいそうだった。
この方は、それほどまでに脆い。
眠るアリア様の横顔を見る。
女神。
そう呼ぶには、あまりに体温が危うい。
けれど、女神であるかどうかなど、私にはもう関係なかった。
この方は、私たち四人を永遠に続く地獄から連れ戻した。
ならば、次は私の番だ。
手を握る。
その瞬間、私の内側から奇跡が広がる。
薄く、冷たく、透明な膜が、アリア様の指先へ染み込んでいく。
私は、この力をずっと呪いだと思っていた。
あの日。
馬車の中で母が叫んだ。
父が私の前へ身を投げ出した。
獣の爪。砕ける車輪。飛び散る血の熱さ。
私は怖かった。怖くて、石のように動けなかった。
その恐怖が、私だけを守った。
届かない。
私は、無傷だった。
血の海の中で、自分だけが白く輝く人形のように立っていた。
私だけが生き残った。
私が、二人を殺した。
この手が伸びなかった。
この口が叫ばなかった。
この体が、自分だけを守った。
その冷たさが、今も私の芯に凍りついている。
あの時、恐怖ではなく、怒りがあればよかった。
奪うものへの怒り。
踏みにじるものへの怒り。
私から大切なものを奪おうとするすべてへの、焼けるような怒り。
私は、もう恐怖を許さない。
震えるだけだった自分も。
守られるだけだった自分も。
二度と認めない。
今度は、間に合う。
傷つけるもの。奪おうとするもの。
女神として飾り、利用し、食い物にしようとする者。
すべて、私が止める。
すべて、怒りの中へ沈める。
相手が神殿でも。王国でも。民衆でも。救われた者でも。
たとえ、それが同じ魔女であろうと。
アリア様が逃げたいと言っても、守る。
離せと言っても、その腕を掴んで離さない。
私を必要ないと言われても、私はその言葉ごと、あなたを奇跡の中に閉じ込める。
この方は、自分がどれほど脆いか分かっていない。
自分の善意が、どれほど簡単に食い潰されるかを知らない。
だから、私が怒る。
私が、この方の代わりに世界を拒む。
祈りではない。
これは誓約だ。
いいえ。
もっと醜い、私だけの救い。
透明な防御の奇跡が、握った手の先で厚みを増していく。
静かに。音もなく。誰にも気づかれないまま。
奇跡の内側だけ、空気が薄くなる。
外の音が遠ざかる。
世界が、アリア様から一枚ずつ剥がれていく。
それでいい。
余計なものは、届かなくていい。
この方は、何も知らなくていい。
怒りは、私が持つ。
恐怖は、私が殺す。
敵意は、私が受ける。
アリア様は、ただ生きていればいい。
この手の中で。
二度と、離さない。
本作はすでに第30話まで予約投稿済みです。
今後、**「毎朝 8:00」**に自動アップデート(更新)が行われます。
誰にも届かない周波数ではなく、皆様の元へ届く物語になりますように。
ぜひ、お楽しみください。




