第7話 追放された元聖騎士を、こちらで拾います
院長室には、斜めの朝日が差している。
窓辺の光が机の端をなぞり、紅茶の香りが漂う。
部屋だけ見れば穏やかだ。
けれど、そこで交わされる言葉は少しも穏やかではなかった。
「現場を知っている方、ですか」
エリセ先生が、伏せ目がちにその言葉を繰り返す。
『力だけを誇る方は、求めておりません』
エリセ先生は少し考えてから、静かに言った。
「……一人だけ、おります。この孤児院の出身で、今も冒険者を続けている者が」
『お名前は?』
「ガレス・ヴァンロウ。三十八になります。腕は確かです」
エリセ先生は、そこでほんの少し言葉を切った。
「この孤児院で、最初に神殿へ上がった子でもあります。聖騎士見習いとして」
……この孤児院の一人目か。
優秀だったのだろう。
『今は?』
「……冒険者をしております」
『どうして、神殿を?』
エリセ先生は、すぐには答えない。
カップに添えた指先が止まる。
「それは……わたくしの口からは」
……訳ありか。
それ以上は聞かなかった。
『子どもたちを預けられる方ですの?』
エリセ先生は、すぐには頷かなかった。
「やさしい方ではありません」
そこで言葉を切る。
「けれど、弱い子を食い物にする方でもありません」
レティシアが静かに口を挟んだ。
「信用がないのではなく、避けられているのだと思います」
『避けられている?』
「神殿を出された方です。ギルドから見れば厄介で、クランから見れば火種です」
『つまり、腕ではなく札で弾かれているのですね』
「はい」
……なるほど。
クランにしてみれば、どちらからも睨まれる厄介の種か。
『今はどちらに?』
「南外れの荷馬車宿に。安い仕事の斡旋ばかりが集まる場所です」
エリセ先生が、静かに口を開いた。
「アリア様。ガレスは、決してやさしい子ではございません」
「でも、やさしくなかったからこそ、生き残れたのだと思います」
……やさしいだけでは足りない。
そんな言葉を、この人の口から聞くことになるとは。
『それでも、ここの子なのですね』
「ええ。いまでも」
残っていた紅茶を飲み干し、カップを置いた。
『なら、一度お会いしてみましょうか』
「……会いに、ですか」
『その方が、子どもたちの前に立てる人かどうか。直接、確かめたいのです』
エリセ先生は、少しだけ目を細めた。
「ありがとうございます、アリア様」
『まだ、礼を言われる段階ではありませんわ』
立ち上がった。
『会ってから決めます』
◆
荷馬車宿へ向かう道すがら、隣を歩くレティシアに目を向けた。
『レティシア』
「はい、アリア様」
『ガレスさんが神殿を追われた理由を、あなたは知っていますか』
レティシアは、すぐには答えなかった。
石畳を踏む靴音だけが、二人の間に残る。
「……詳しくは存じません」
『詳しくは、ですか』
レティシアは、しばらく石畳を見ていた。
「噂でしかございませんが、聖騎士時代に、守れなかった方がいたそうです」
『守れなかった?』
「死んだのか、消されたのか、罪を着せられたのか。そこまでは」
レティシアは、進む先へ目を向ける。
「ただ、ガレスさんは自分のために神殿と揉めた方ではないと思います」
ガレス・ヴァンロウ。
神殿を追われた元聖騎士。
孤児院の一人目。
そして、誰かのために怒ったかもしれない男。
『だから、エリセ先生は止めなかったのですね』
「おそらくは」
レティシアは小さく頷いた。
「あの方を測るべきなのは、神殿が貼った札ではなく、今、何を守ろうとしているかだと思います」
◆
街の南端まで来ると、白い石の街は急に終わった。
荷馬車宿の前では、乾ききらない泥が車輪の跡に溜まっている。
酒と汗と獣の匂いが、狭い通りの底に沈んでいる。
大神殿の香木の匂いとは違う。
ここでは、人が擦り減った匂いがする。
壁際にたむろしていた薄汚い三人組が、アリアとレティシアを見て、下卑た笑みを浮かべた。
視線は顔を通り過ぎる。
衣服の線をなぞり、最後に腰の勘定石で止まった。
獲物を見る目だった。
その奥に、ガレス・ヴァンロウはいる。
袖口のほつれた外套。
何度も研ぎ直され、細く痩せた安物の剣。
彼が口にしているのは、安酒だ。
見るからに、落ちぶれた冒険者だ。
けれど、こちらを見る目だけは濁っていない。
『……失礼。ガレス・ヴァンロウさん?』
「……誰だ」
低く、乾いた声だった。
『アリアと申しますわ。エリセ先生に、お名前を伺って参りましたの』
「エリセ先生に?」
濁っていた目に、わずかに光が差す。
次に、その視線はレティシアへ向いた。
「……で。孤児院が何の用だ」
『クランを作りたいのです』
「孤児院が作れるわけないだろ。寝言は寝てから言え」
壁際で、三人組の一人が小さく笑った。
「聞いたか。ガレス先生、今度はクランの相談役だとよ」
ガレスは反応しなかった。
その沈黙だけで、慣れているのが分かった。
理想論から入っても無駄だ。
アリアは向かいに腰を下ろす。
椅子が、ぎ、と鳴った。
『まず、ひとつ伺いたいのです。どうしてこの国では、個人で勝手に仕事を受けて生きるのが難しいのかしら』
「……どこまで分かってて聞いてやがる」
『教えてくだされば、その酒よりはましなものを奢れるかもしれませんわ』
木杯の中身を見て、ガレスが鼻で笑った。
「高くつくぞ」
『必要な話なら、お支払いします』
ガレスは木杯を持ち上げ、ひと口だけ流し込んだ。
「責任の所在を証明できねえ奴に、ギルドはまともな仕事を流さねえ。武装した無所属なんざ、ギルドから見りゃ面倒の種だ」
『個人で立つ前に、個人として認められていないのですね』
「そうだ。だから結局、どこかの下に入るしかなくなる」
「下に入れてもらえりゃ上等だろ」
三人組の一人が、また笑った。
「借りたもんも返せねえ奴は、下働きにもならねえ」
ガレスの指が、木杯の縁で止まった。
アリアはそちらを見ない。
今は、ガレス自身の口で説明させる。
『では、ギルドは何ですの?』
「市場だ。クランは現場だ」
短い答えだった。
「仕事を並べるのがギルド。責任を持って引き受けるのがクラン。失敗した時に誰が尻を拭くかで、流れる仕事が変わる」
『孤児は、そこに入りにくいのですね』
「入りにくいどころか、最初から席が弱い」
『どういう意味?』
「保証が薄い。金も後ろ盾もねえ。未成年や孤児は、結局、下働きに流れる」
『孤児でも、冒険者ランクは上げられるのかしら』
「上げられる。ただし条件つきだ」
本人登録。
所属先。
保証人。
依頼実績。
違約の責任先。
ガレスが並べたものは、どれも才能の話ではない。
剣が強いとか、頭がいいとか、そういう話に行く前に、入口で止まる。
『実力が足りないから止まるわけではないのですね』
「そうだ」
横目でレティシアを見る。
彼女は顔を伏せたまま、じっと黙っている。
神殿奉公。
既存クランの下働き。
ギルド外の非登録労働。
どれも、上へ行く道というより、擦り減っていく順番に聞こえる。
『クランを作るなら、いちばん重いのは何ですの?』
「供託金だ。登録料じゃねえ。担保だ」
ガレスは吐き捨てるように言った。
「信用を、金で肉付けするんだよ。嫌な仕組みだがな」
「担保ねえ」
壁際の男が、今度ははっきりと近づいてきた。
「じゃあ先生、自分の担保の話もしろよ」
ガレスの顔から表情が消えた。
『担保?』
「おい、ガレス。ずいぶん上客を捕まえてるじゃねえか」
男は卓の横に立ち、アリアの勘定石を見下ろした。
「昼から余裕だな。払うもん、先に払ってもらおうか」
「……やめろ」
ガレスの声が低くなる。
「その話は関係ねえ」
「関係あるだろ。払えねえなら、次は孤児院の院長ババアのところに行くしかねえなあ?」
その瞬間、ガレスの喉の奥で、殺しきれない怒りが低く震えた。
「……あそこは関係ない」
「じゃあ払えよ。できねえんだろ?」
ガレスは拳を握りしめ、黙り込む。
隣で、レティシアの肩がぴくりと震えた。
今にも飛びかかりそうな気配がある。
アリアは男を見上げた。
『おいくらかしら?』
「……利子込みで十万刻だ」
「十万!?」
ガレスが声を上げた。
「そんなに借りてねえ! 元は一万だったはずだ!」
「元本は一万だ。そこは間違ってねえ」
男は書面を指で叩いた。
「だが、延滞更新料、保証継続料、回収手数料。全部、ここに書いてある」
ガレスの顔が歪む。
「そんな説明、受けてねえ」
「読めなかったのは、こっちの責任じゃねえな」
男が突き出した書面には、街の公定金利を無視した数字が並んでいる。
事務手数料。
更新料。
保証継続料。
そんな名目の数字が、雑に積み上がっていた。
『何に使ったの』
「……討伐に失敗して、大怪我をした。半年、仕事ができなかった。その治療費で……一万刻、借りたんだ」
『ずいぶんきれいに盛ったのですね』
「文句があるか」
『ありますわ。でも、いまはあなたたちの顔をこれ以上見たくありませんの』
男の勘定石へ指先を伸ばす前に、書面へ目を落とした。
『完済証明を。今ここで』
「あ?」
『口約束で人を縛る方々に、口約束で払う趣味はございません』
『十万刻を受け取った時点で、ガレス・ヴァンロウへの債権は消滅。以後、本人および孤児院関係者へ、この件で接触しない。そう記録してください』
男の顔が、不快そうに歪む。
「面倒な女だな」
『証跡の残らない支払いはいたしません』
男が舌打ちし、しぶしぶ書面へ追記する。
レティシアが差し出した記録石に、その文面が薄く刻まれる。
それを確認してから、男の勘定石へ指先を伸ばした。
触れた瞬間、短い決済音が鳴る。
『十万刻。これで不足はありませんわね?』
男は鼻で笑いながら、自分の勘定石を見る。
次の瞬間、笑みが固まった。
十万刻。
それが、目の前の女の指先ひとつで動いた。
勘定石を持つ手が震える。
強欲だけが、まだ顔に残っていた。
「……ぴったりだ」
だが、男はすぐには引かなかった。
底知れない恐怖を感じながらも、目の前の金への強欲が勝る。
男の視線が、アリアの顔から腰の勘定石へ落ちる。
「ずいぶん持ってるじゃねえか。なら、もう少し――」
男が手を伸ばしかけた瞬間、ガレスの椅子が床を削った。
ガレスが、立つ。
酔いの色は、もう目にない。
痩せた剣の柄に指をかけ、半身でアリアの前へ出る。
「次にその手を出したら、肘から先は置いていけ」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だから余計に、宿の奥の空気が冷えた。
ガレスの放つ温度のない殺気に、男の喉がヒュッと鳴った。
金づるを見る目が、ようやく相手を間違えた目に変わる。
リーダー格の男は唇を歪めたが、足は一歩も前に出ない。
「……ちっ。行くぞ」
三人は舌打ちしながら去っていった。
静まり返った卓の前で、ガレスが絞り出すように言った。
「……何の真似だ。あんな連中にまともに払う必要なんてねえ」
『まともに払ったつもりはありません。記録つきで、あなたへの請求権を潰しただけです』
「は?」
『その十万刻は、わたくしからあなたへの無利子貸付。債権者を、あの方々からわたくしに移したのです』
男たちが残した完済証明を指先で押さえた。
『その代わり――』
そこで、唇が勝手に止まった。
『……いいえ。その代わり、ではありません』
何を言っている?
僕は、そういう条件で話を進めるつもりだった。
十万刻を立て替えた。
債権者を移した。
なら、こちらが雇う。
筋は通っている。
けれど、アリアの声は、そこに別の意味を許さなかった。
『あなたが望むなら、仕事の話をしましょう』
『断っても、この完済は取り消しません』
ガレスの目が細くなった。
「……綺麗な首輪だな」
『首輪?』
「借金取りの縄を、今度はあんたが握る。利子がねえだけで、俺の首はあんたの手の中だ」
『断っても取り消さない、と申し上げましたわ』
「だからだ。縄を持ってる側が、いつでも緩められるって顔をしてやがる」
『……そう見えるなら、契約に一つ足しますわ』
「何をだ」
『あなたが、わたくしの命令を拒める権利を』
ガレスの表情が、わずかに変わる。
「俺が、あんたを疑う権利もだ」
『もちろんですわ』
レティシアがようやく顔を上げ、三人が消えた扉へ冷たい視線を向けた。
「……あの三人、明日には帳簿の角にでも足を取られて、まとめて顔から転べばよろしいのに」
その一言で、張りつめていた空気が少しだけ抜けた。
ガレスは深く息を吐き、苛立たしげに頭を掻いた。
「あんたを信用したわけじゃねえ」
『ええ。それで結構ですわ』
ガレスはアリアを睨みつける。
だが、その指先はもう、安酒の杯ではなく剣の柄を探している。
「条件を出せ。護衛でも、雑用でも、必要ならやってやる」
『でしたら、刻誓契約で条件を記録しましょう』
「は?」
『貸付額、報酬、拒否できる命令、契約解除の条件。必要なものは全部、明文化します』
レティシアが、そこで前へ出た。
「契約石なら、まだ使えます。簡易なものですが、十分かと」
『用意がいいこと』
「アリア様は、どうせここまで言い出すと存じておりましたので」
『結構ですわ』
立ち上がった。
『では、明日のお時間を空けておいてくださる?』
「……何をする気だ」
『クランの拠点にする物件探しですわ。決まっているでしょう?』
そのまま出口へ向かった。
宿の外に出ると、夕暮れの赤い光が、ひび割れた石畳を染めていた。
金を積めば、場所くらいは見つかる。
その時の僕は、まだそう思っていた。
けれど、違った。
この街では、金の前に、名前で弾かれるものがあるらしい。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。




