第6話 孤児院の子どもたちとクランを作ります
翌朝、目が覚めた瞬間、耳に飛び込んできたのは、生活の音だった。
台所で鍋の蓋が鳴る。
廊下を子どもたちが走る。
遠くで笑い声が弾けて、それを誰かがやさしくたしなめる。
ただ、神殿で買ったワンピースには、まだ慣れない。
防御力が低い。
たぶん、精神的に。
助かったのは間違いない。
院長先生もレティシアも、僕のような正体不明の異物を拒まずに受け入れてくれた。
でも、だからこそだ。
……いつまでも、この温かさに浸かり続けているわけにはいかない。
廊下へ出ると、ちょうどレティシアが向こうから歩いてきた。
朝の光の中でも、彼女の姿勢は相変わらずきれいだ。
目の下に薄い影。
歩幅も昨日より狭い。
睡眠不足。
ここで倒れられると、計算が狂う。
『おはよう、レティシア。……昨日より少し、寝不足のようだけれど?』
「……気のせいでございます、アリア様」
『そう。わたくしの勘違いならいいのだけれど……。あまり根を詰めないでくださいね』
ぴたりと、レティシアの足が止まった。
直立不動のまま、肩が小刻みに震え始める。
「ありがとうございます、アリア様。わたくし、今のお言葉だけで、いくらでも耐えられます」
胸の前で両手を固く組み、陶酔しきった甘い吐息が漏れる。
彼女の周囲だけ、むわっと湿度の高い熱が漂っている。
それは困る。
耐えられる前提で動かれても困る。
そもそも僕が言ったのは、倒れられたら計画に支障が出る、というだけの話だ。
けれど彼女の瞳は、もう完全に別の意味を受け取っている。
ここで訂正すれば、慈愛深い女神ではなく、ただの計算高い上司になる。
いや、会社勤めをしたことはない。
けれど、たぶん嫌な上司とはこういうものだ。
僕は何も言えず、女神らしい微笑みだけを残して、歩く速度をわずかに上げた。
◆
食堂の扉を開けた瞬間、熱気と匂いに圧倒された。
漂ってきたのは、昨日までの質素な焦げたパンの匂いではなかった。
じっくりと煮込まれた根菜。
空腹をまっすぐ刺激してくる、力強いシチューの香りだ。
『……あら?』
並んでいる食事を見て、思わず足を止めた。
木皿の上には、湯気を上げる厚切りのパン。
肉の端切れが入った具沢山のスープ。
隅には、一口サイズのチーズまで添えられている。
子どもたちは、それを信じられないものみたいに見つめていた。
いつもならすぐ食べ始めるはずなのに、今日は誰も動けない。
顔を見合わせたまま、スプーンを握って固まっている。
『……レティシア。朝から随分と、趣向を凝らしたのね?』
「いいえ。成長期の子どもに必要な栄養を考えれば、ようやく最低限でございます」
レティシアは澄ました顔で言った。
けれど、目の奥だけはどこか誇らしげに緩んでいる。
その時、調理場から大きな布巾を肩にかけた女性が、小走りでやってきた。
「あんたが、アリア様かい!」
彼女はアリアの手を取り、節くれだった大きな手でぎゅっと握りしめた。
「あたしゃ、ここの台所を預かってるマーサだ。……あんたのおかげだよ。今朝、数年ぶりに肉屋の親父を叩き起こして、一番良い肉を仕入れてこれたんだ」
「……食べる前に『これ、本当に食べていいの?』なんて聞いてきたんだ。……本当に、助かったよ」
マーサの言葉を合図にしたように、食堂にスプーンが木皿を叩く音が爆発した。
歓声ではない。
誰も喋らない。
ただ、一心不乱に肉を噛みちぎる。
パンをスープに浸し、喉の奥へ押し込んでいる。
隣の皿をうかがう余裕すらない。
必死で生々しい食事の音だけが響いていた。
……やめてほしい。
食費に回したのはレティシアだ。
肉を仕入れたのはマーサだ。
食事を作ったのも僕ではない。
なのに、なぜ最終的な感謝の矛先がこちらへ向くのか。
感謝の経路がおかしい。
レティシアはいつもの無表情を崩さない。
だが、その視線は、がっつく子どもたちから離れない。
最初に会った時のような刺々《とげとげ》しさは、完全に消えていた。
……なるほどね。
この子も、この光景が見たかったんだ。
ふと視線を落とすと、少し離れた席で、狼のような耳を持った少年が、小さな幼児の口に甲斐甲斐しくスープを運んでいる。
鋭い瞳の印象とは裏腹に、その手つきは驚くほど慎重で、優しい。
『レティシア、あの子は?』
「ライです。……間もなく、受紋の期限である十六を迎えます」
『十六……』
昨日聞いた、残酷な数字だ。
神殿に選ばれるか。
それとも、外へ放り出されるか。
近くの椅子の背に置いた指に、力が入った。
レティシアがこちらを見る。
「アリア様?」
たぶん、今の顔から何かが消えたのだ。
『……何でもありませんわ』
そう答えてから、ようやく指をゆるめる。
椅子の背が、かすかに軋んでいた。
本来なら、もう奉公先が決まっていてもおかしくない年だ。
それなのに、彼はいまもこの孤児院にいる。
◆
朝食のあと、外へ出た。
この場所に何が足りないのか、自分の目で見たかったからだ。
中庭に出ると、ノノがすぐこちらを見つけた。
昨日と同じだ。
犬耳をぴんと立てて駆けてきて、そのまま当然みたいに服の裾を掴む。
『おはよう、ノノ。今日も元気ね』
頭を撫でてやると、短い尻尾がぱたぱたと振られる。
朝から機嫌がいい。
ほんとうに、分かりやすい子だ。
中庭を見回して、レティシアを探した。
歩き出すと、ノノも当たり前みたいに隣についてくる。
建物の脇、小さな作業台が置かれた場所で、ようやくレティシアを見つけた。
彼女は十五歳くらいの少年と話している。
「……冬服を先に手配すべきです。寝具は繕えばまだ使えますが、薬だけは切らせません」
低い声だ。
でも内容は、子どもの会話ではない。
寄付が入ったからといって浮かれていない。
必要なものを、必要な順に並べている。
「アリア様。どうされました?」
『何か手伝えることはありませんか? ただ座っているのも落ち着かなくて』
レティシアが少し意外そうに瞬きをした。
その横で、少年も短く会釈する。
丁寧だ。
ただ、目の奥にはまだ警戒が残っている。
なるほど。
この年で、ちゃんと外の人間を疑えるのか。
そのくらい警戒してくれる方が、むしろ僕は安心できる。
「こちら、ユイトです。この院の帳簿や日々のやりくりを任せております」
『……あら。もう立派な会計係の顔をしていらっしゃいますわね』
ユイトの目が、ほんの少しだけ揺れた。
褒められ慣れていないのかもしれない。
でも、すぐに無表情へ戻る。
「……足りないものを数えているだけです」
『それができる方は、意外と少ないものですわよ』
ユイトは少しだけ目を伏せた。
「アリア様、もし手伝ってくださるのでしたら、洗濯場の方へ行っていただけますか。あちらも常に人手が足りませんので」
『ええ、分かりました。わたくしにできることなら何なりと』
ノノの小さな手の感触を感じながら、レティシアに教えられた方へ向かった。
◆
洗濯場に行くと、ミリという少女がいた。
近づくと、彼女の犬耳がぴくりと動く。
服の裾を握っていたノノも、つられるように耳を立てた。
「ミリです。アリアさん、ですよね。よろしく」
『ええ、よろしく。ミリ』
「ノノ、そこにいると濡れちゃうよ」
ミリが言うと、ノノは裾を握ったまま、後ろへ下がった。
離れる気はないらしい。
ミリは小さく笑った。
けれど、その手は止まらない。
濡れた布を絞る指先は、冷たい水で赤くなっている。
『わたくしにお手伝いできることはあるかしら?』
「じゃあ、これをすすいでもらってもいいですか」
布を受け取り、水桶の中で軽く揺すった。
そこまではよかった。
問題は、絞る時だった。
男だった頃の感覚で力を入れているのに、白い指は布に負けている。
手首が細い。
肩が軽い。
体の芯が、思っていた場所にない。
ミリが横から、何も言わずに布を受け取った。
ぎゅ、と水が落ちる。
「慣れです」
……前の体なら、この程度の布に負けるはずがなかった。
『ずいぶん使い込まれているのね』
「はい。でも、前よりは少し楽になります。アリアさんが来てくれたので」
『わたくしが?』
「寄進のこと、聞きました。ありがとうございます」
ミリは視線を落としたまま続けた。
「もうすぐ私、孤児院を出るんです。ユイトと、ライも一緒に」
手が止まった。
水桶の表面が揺れて、朝の光が砕けた。
裾を握るノノの指に、少しだけ力が入る。
「その前に、アリアさんに会えてよかったです。……残る子たちが、少しずつでも幸せになりそうだから」
ミリの視線が、ちらりとノノへ落ちる。
ノノは話の意味をどこまで分かっているのか、黙ったまま後ろに隠れている。
でも、ミリの声が少しだけ変わったのは分かったらしい。
耳がぺたんと伏せている。
……自分の心配じゃないのか。
この子は、自分が出た後のことを見ている。
残される、小さい子たちの方を。
『ここを出た後は、どうするおつもりなの?』
「たぶん、前にここを出た人を頼ります」
『前に出た人?』
「はい。冒険者になった人が何人かいるので」
迷いのない答えだった。
何度も自分の中で繰り返してきた、生き残り方なのだろう。
『その人たちのところで働くの?』
「働けたら、ですけど」
ミリは布を絞って、物干し台の方へ目を向けた。
「最初はクランの下働きだと思います。洗い物とか、荷物の整理とか、食事の支度とか。そういうのから」
クラン。
聞き慣れない言葉を、頭の中で転がす。
『それで、やっていけるのかしら?』
ミリは少しだけ首を傾げた。
「やっていく、というより……そうするしかない、というのが本当のところです」
ノノが、裾を引いた。
「ミリ、いなくなるの?」
小さな声だった。
ミリの手が止まる。
それから、無理に明るい顔を作った。
「すぐじゃないよ。まだいる」
「ほんと?」
「ほんと。だから、洗濯物、ちゃんと畳めるようになっておいてね」
「……うん」
ノノは返事をした。
けれど、裾を握る手は離れない。
……この子なら、どこへ行っても雑用はきっちりこなすだろう。
だからこそ、胸の奥が冷たく重くなる。
最初から「使い潰せる手」として数えられているみたいで。
『そう……』
「はい」
『ユイトもライも、一緒に出るの?』
ミリが少しだけ、困ったように笑った。
「そうなると思います。……ほかに、思いつかなくて」
その時、中庭の向こうで小さな歓声が上がった。
見ると、ライが小さい子を二人まとめて抱え上げている。
無表情なのに、腕はまったくぶれない。
ノノも顔を上げた。
「ライ兄ちゃん、すごい」
声が少し明るくなる。
本当に、子どもの気持ちは忙しい。
何だ、あの子。
無口な護衛役というより、完全に避難所扱いされている。
『ライは、人気者なのね』
「小さい子には、ですけど。……大人には、怖がられることもあります」
強そうな見た目。
無口。
狼の血。
それだけで、大人は勝手に脅威だと思うのだろう。
でも子どもたちは違う。
ただ安心して、あの大きな体に寄りかかっている。
『ミリ。ユイトは帳面、ライは護る役。……そんな感じで合っているかしら?』
「……だいたい、そんな感じです」
「ミリは?」
聞いたのはノノだった。
ミリが少し目を丸くする。
「私?」
「ミリは、ごはん。あと、おふとん。あと、髪」
ノノは自分の髪をつまんだ。
「ミリ、上手」
ミリは少しだけ黙って、それから困ったように笑った。
「……だそうです」
『そうなのね』
ユイトは数えられる。
ミリは暮らしを回せる。
ライは護れる。
……これを、ただの下働きで流すにはもったいなさすぎる。
『ごめんなさい、ミリ。少しレティシアと話してくるわ』
「えっ、あ、はい?」
『少し、気になることができてしまったの』
ミリは不思議そうにしながらも、小さく頷いた。
ノノがこちらを見上げる。
「アリア様、どこ行くの?」
『この場所を、守れる形にする相談よ』
「ミリも?」
『ええ。ミリも、ユイトも、ライも。もちろん、ノノも』
ノノはよく分かっていない顔のまま、でも満足そうに尻尾を振った。
その小さな尻尾を見て、腹が決まった。
◆
レティシアは、中庭の片隅で冬用の布地を仕分けていた。
『レティシア。わたくしでも、クランを持つことはできるかしら?』
「……いま、何とおっしゃいましたか」
『代表になりたいわけではないの。この子たちが身を寄せられる器を、こちらで用意したいのよ』
「……表には立たず、クランそのものをお持ちになる、と」
『ええ』
「冒険者として前に立つおつもりは」
『ございません。死にたくありませんもの』
レティシアは、目に見えてほっとした。
たぶん、そこだけはすぐに納得した。
『有力なクランに入ったところで、あの子たちが都合よく使われるだけなら、報われないでしょう。雑事や危ない務めに回されて、最後には使い潰されてしまう。でしたら、受け止める側を、こちらで持てばよいのだと思うの』
「理屈としては可能でございます」
レティシアは、すぐに指を折り始めた。
「代表者。活動目的。供託金。拠点。会計責任者。構成員」
一つずつ、現実が机の上に並べられていく。
「どれも要りますわ」
『ええ。そのくらいは要るでしょうね』
「アリア様が全額出資するとしても、表に立つ人間は別に立てるべきかと」
口元に小さく笑みが浮かんだ。
『そこは、わたくしも同じことを考えていたわ。欲しいのは代表の椅子じゃない。この器を守るための持ち分と、決める権限よ』
言葉にした瞬間、妙にしっくりきた。
善意で見守るより、最初から持っていた方が早い。
『現場の采配は、慣れた方にお任せすればいいわ。でも、簡単に潰れない形を作る責任は、お金を出す側が引き受けるべきでしょう?』
そこまで言って、ようやく腹が決まった。
「……非常に、アリア様らしいお考えでございますね」
『そうね。よい意味として処理しておくわ』
その場しのぎの金だけじゃ足りない。
神殿の外で詰まない拠点が要る。
中庭では、ライたちが幼い子の面倒を見ている。
彼らは強い。
だが、表舞台に立つにはまだ若すぎる。
『前に立てる大人を、一人探さないといけないわね』
「あてはございますか?」
『まだないわ。けれど、足りないものは見えたもの。あとは順に埋めていけばよろしいだけよ』
「……お止めしても、無駄でございますね」
『ええ。たぶん、そうね』
そこだけは、二人の意見が一致した。
もう一度、中庭を見た。
彼らが「神殿の余りもの」だって?
笑わせないでほしい。
外から集めるものは、まだある。
でも、土台になるものなら、もう半分ここにある。
僕がやるのは、あの子たちの逃げ道を作ること。
ついでに、自分の逃げ込む場所も確保することだ。
唇の端が持ち上がる。
穏やかに決めたつもりなのに、レティシアの表情を見る限り、ずいぶん物騒に映っているらしい。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
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