第5話 不正神官を落としたら、筆頭司祭に目をつけられました
◆ 大神殿 早朝
朝の光が、司祭の執務室を静かに染めていた。
ローヴェンは、笑いをこらえていた。
「ローヴェン。これほどの額を寄進に回してよいのか」
「はい、司祭様。すべては神のために」
ローヴェンは、穏やかに微笑んだ。
罰納金。
本人台帳の照会料。
神殿勘定への寄進。
名目はいくらでも作れる。
これまでも、そうしてきた。
台帳に残る文字さえ整えてしまえば、金は清くなる。
机の勘定石へ指を添える。
――ピッ。
【使用可能残高:一時凍結中】
【理由:監査照会中】
【対象取引:500,000刻】
笑みが、頬に貼りついたまま動かなくなった。
「……差し止め、だと?」
司祭の声が低くなる。
「説明しろ。なぜ貴殿の口座が凍結されている」
「わ、わたくしにも――」
喉が詰まる。
ローヴェンは、司祭へ向き直った。
「これは、神殿への攻撃です」
「何者かが神殿勘定に干渉したのです。私の口座は、その巻き添えを受けただけでございます。神殿の資金処理に、外部から手を入れた者が――」
その時、記録係が駆け込んできた。
「本人台帳への異常干渉を検知。加えて、ローヴェン神官の個人口座に対し、正規手順を経ない強制介入が実行されています」
部屋が、しんと静まった。
「昨日の石室侵入案件に伴う罰納五十万刻……それが神殿勘定ではなく、当該口座へ着金しております。記録上は寄進へと偽装されていますが……」
司祭の目が細くなる。
「横領か」
「違います!」
ローヴェンは叫んだ。
「私は神殿のために処理したのです! 寄進として、正しく――」
「黙りなさい」
ローヴェンは口を閉じた。
まだだ。
まだ終わっていない。
神殿への攻撃にすればいい。
外部干渉にすればいい。
台帳が荒らされたのなら、問題は自分ではない。
問題は、神殿の権威に触れた何者かだ。
記録係は、さらに青ざめた顔で続ける。
「それだけではありません。本人台帳に、異常照会の痕跡があります」
石板に文字が浮かぶ。
【異常照会記録:本人台帳更新】
【識別:UID-0】
【登録番号:AR-00-0001】
【氏名:アリア・ヴェリス】
【状態:有効】
記録係が、ようやく肺に溜まっていた息を吐き出す。
誰も声を出せなかった。
「識別:UID-0……そんな項目はありません。少なくとも、現存する台帳記録には一件も」
扉が開いた。
入ってきたのは、筆頭司祭アルヴェリウス・グラディウスだった。
「状況を」
記録係が石板を差し出す。
アルヴェリウスは表示を見下ろした。
ほんのわずかに、目が細まる。
「……UID-0、ですか」
司祭が息をのむ。
「ご存じなのですか」
アルヴェリウスは答えなかった。
ただ、勘定石に触れ、表示を一瞥する。
【対象取引:500,000刻】
【処理名目:寄進】
【実着金先:ローヴェン神官個人口座】
ローヴェンの不正着金には、目を止めない。
見るべきものは、そこではない。
そう言わんばかりに、アルヴェリウスは石板へ視線を戻した。
【識別:UID-0】
「差し止めも、不正着金も、ただの結果です。問題は、そこに触れたものがいること。しかも、神殿の台帳へ正面から手を入れている」
記録係が、震えた声を出した。
「何者かの侵入、でしょうか」
「いいえ」
アルヴェリウスは静かに言った。
「これは侵入ではありません。競合です」
その一言で、空気が冷えた。
「我々だけが触れられると思っていた場所に、別の誰かが手を入れた。ただそれだけです」
アルヴェリウスは石板を閉じた。
「本人台帳の更新履歴、差し止め処理、昨日の石室案件の関係者をすべて洗い直しなさい」
「は、はい!」
「特に、アリア・ヴェリス」
その名が落ちた瞬間、ローヴェンの背筋が冷えた。
あの娘。
石室で見下ろしていたはずの娘。
本人登録すら持たない、ただの侵入者だったはずの娘。
その名を、筆頭司祭が見ている。
「筆頭司祭様、私は……私は神殿の神官です。神殿のために、あの娘を――」
そこで、アルヴェリウスの視線がローヴェンへ向いた。
ローヴェンは、その目を見た瞬間、自分がもう切り捨てられていると悟った。
「ローヴェン神官」
「は、はい」
「あなたにはまだ聞くことがあります。石室の侵入者について、知っていることをすべて話してもらいます」
「筆頭司祭様! 私はただ、あの娘が――」
「黙りなさい」
短い一言だった。
護衛が左右から腕を掴む。
「お、お待ちください! 私は神殿のために! 神殿の権威を守るために――!」
誰も答えない。
ローヴェンは司祭を見る。
司祭は目を逸らした。
記録係を見る。
記録係は石板を抱え、ローヴェンから距離を取っている。
昨日まで、自分は台帳の内側にいた。
名前を記す側。
金を動かす側。
他人の身分を握る側。
神殿の仕組みに守られ、その穴を使い、台帳の文字で人を黙らせてきた。
その台帳が今、ローヴェンを外へ押し出している。
アルヴェリウスが、勘定石に指を置いた。
それだけだった。
【神官権限:一時停止】
【本人台帳照会権:剥奪】
【神殿勘定接続:遮断】
勘定石に浮かんだ文字を見て、ローヴェンの膝から力が抜けた。
「そんな……」
声にならない声が漏れる。
護衛が、容赦なく腕を引く。
「私は、まだ……まだ神官で……!」
扉の向こうへ引きずられていく。
閉まる直前、ローヴェンは見た。
アルヴェリウスはもう、自分を見ていなかった。
彼が見ていたのは、石板だった。
【識別:UID-0】
【登録番号:AR-00-0001】
【氏名:アリア・ヴェリス】
「……アリア・ヴェリス」
その名を、確認するようにつぶやいた。
その文字を見つめる目には、恐れも混乱もなかった。
ただ、待っていたものがようやく来た時のような、静かな緊張だけがあった。
◆
大神殿をあとにした朝は、拍子抜けするほど静かだった。
引き止めもなければ、背中に刺さる視線もない。
ただ、そのまま事務的に門の外へ放り出された。
静かすぎて、逆に薄気味悪い。
『……何かありましたの?』
そう問いかけると、レティシアが低い声で答えた。
「ついさきほど、ローヴェン神官が拘束されたらしいです。今日から取り調べが始まるそうで」
昨日の今日で、もう詰んだか。
坂を下りるにつれて、街の顔つきが少しずつ変わっていく。
大神殿の近くは、眩しいほどの白い石造りと、整った庭園ばかりだった。
けれど、そこから離れるにつれて道幅は狭まる。
建物の色も、くすんだ灰色に沈んでいく。
壁の漆喰は剥がれ、石畳の隙間にはしぶとい雑草が芽吹いている。
鼻をつくのは、生活排水の湿った匂い。
どこかから漂う、安っぽい煙の匂い。
タワマンの最上階では、まず吸うことのなかった生活の匂いだ。
『……あちらですの?』
「はい。聖ラウラ孤児院でございます」
ここが、今日からの居場所らしい。
門をくぐる。
最初に見えるのは、土が踏み固められた中庭だ。
物干し台には、何度も洗い直された子ども服が並んでいる。
どこか懐かしい匂いがした。
野菜を煮込んだ、スープの匂い。
そこでは、子どもたちが元気に駆け回っている。
けれど、すぐにおかしいとわかった。
どの子も、年のわりに少し小さい。
服は真っ白になるまで洗われている。
けれど、継ぎ当てだらけの布地の薄さが、ここにある欠乏を無言で訴えていた。
隅では、年長らしい子が下の子の手を引いている。
あの子たちには、まだ早すぎる気がした。
「レティシア姉ちゃん!」
小さな影が駆け寄ってきて、目の前でぴたりと足を止めた。
五、六歳くらいの女の子。
ふわふわした犬耳がぴくぴく動いて、小さな尻尾が忙しなく振られている。
「おかえりなさい!」
「ノノ、ただいま戻りました。お利口さんにしていましたか」
レティシアの声が、わずかに柔らかく弾む。
その子――ノノは、アリアを見上げると、ぽかんと口を開けて固まった。
「……聖女様」
そう言った次の瞬間、ノノが服のあたりでくんくんと鼻を鳴らした。
そして、そのまま腰にぎゅうっと抱きつく。
『あら……? ちょっと、落ち着いてくださる?』
小さい体の体温が、勢いよくぶつかってくる。
人に抱きつかれること自体、僕の生活にはほとんどなかった。
処理に困る。
戸惑うアリアをよそに、ノノは服に顔を埋めて離れない。
『……どうしたのかしら、この子』
「珍しいことでございます。人見知りが激しい子なのですが……」
レティシアはそこで、ノノへ静かに言った。
「ノノ。アリア様は聖女様ではありませんよ」
『……あら』
少しだけ安心しかけた。
「女神様――……の、ようなお方です!」
何を言ってるんだ、この子。
聖女も女神も、肩書きが重すぎる。
『……レティシア。訂正の方向が、ずいぶん大胆ですわ』
「失礼いたしました。ノノには、まだ難しかったかと」
難しいのは、たぶんそこじゃない。
そっと頭を撫でた。
耳のつけ根がぴくっと動いて、尻尾の振りがさらに大きくなる。
『こちらの孤児院には、獣人の子らも身を寄せているのですね』
「人族が十二人。獣人の血を引く子が三人でございます」
『獣人の血を引く子?』
レティシアは、ノノの耳を見た。
ノノは意味も分からず、こちらの服に顔を埋めている。
尻尾だけが、機嫌よく左右に揺れていた。
「獣人の里なら、親を亡くした子は誰かが拾います。血縁でなくとも、群れの子として」
『では、なぜこの子はここに?』
「半分、ですから」
レティシアの声が、少しだけ乾いた。
「人の側からも、獣人の側からも、都合の悪い子になることがございます」
腕の中のノノを見る。
話の内容なんて分かっていないのか、ノノは服に顔を埋めたまま、機嫌よく尻尾を揺らしていた。
こんなに機嫌よくくっついているのに、嫌われて追い出される子なのか。
『……そうなのですね』
「はい」
ノノの頭をもう一度撫でる。
すると、ぎゅっと服を掴む指先に少しだけ力がこもった。
この子、たぶん匂いで何か決めたんだと思う。
僕には分からない基準で、勝手に「この人は大丈夫」にしたらしい。
ずいぶん甘い判定だ。
ちょっとかわいいけど。
その時、奥の扉が静かに開いた。
若すぎず、けれど年配というほどでもない。
三十代くらいに見える女性だった。
明るい茶の髪を後ろでゆるくまとめている。
やさしい顔立ちに、やさしい声がぴたりと似合っていた。
「おかえりなさい、レティシア」
アリアに気づき、彼女は一瞬だけ目を見開く。
けれどすぐに、穏やかな笑みに戻った。
「こちらが、お話の方ですね」
レティシアが姿勢を正した。
「はい、院長先生」
『初めまして。アリア・ヴェリスと申しますわ。……心ばかりの品ですが、お菓子を。皆さんで召し上がってくださる?』
会釈して、神殿で手に入れた紙包みを差し出した。
院長は、それを宝物みたいに両手で受け取った。
「ありがとうございます。子供たち、きっと喜びますわ」
その瞬間、彼女の瞳に浮かんだ感謝の光が、あまりに純粋で、視線を逸らした。
「聖ラウラ孤児院の院長、エリセでございます。ようこそ」
『「ようこそ」ですって? ふふ、押しかけたのはわたくしの方ですのに、恐縮してしまいますわ』
「ええ。でも、来てくださった以上は歓迎いたします」
さらっと言う。
この人は、無理だと分かっていても、かわいそうな相手を中へ入れてしまいそうだ。
危うい。
たぶん、放っておくと真っ先に損をするタイプだ。
案内されて足を踏み入れた建物は、廊下こそ古びている。
けれど、どこまでも磨き抜かれていた。
壁際には繕い途中の服が置かれている。
棚には、端切れが丁寧に畳まれていた。
奥の部屋から、子どもたちがこちらをうかがっている。
小さい子。
年長の子。
きれいにはしている。
でも、肘や裾の擦り切れまでは隠せない。
視線の種類もいろいろだった。
警戒の強い目。
ただ珍しそうに見てくる目。
大人が一人増えるって、こういうことなんだ。
寝床とか食事とか、そういう話だけじゃない。
この人は安全か。
奪う側か。
そんなの、子どもが見なくちゃいけないのか。
さすがに重すぎる。
◆
小さな部屋に通された。
使い込まれた机と椅子。
窓辺には一輪の花。
レティシアは、院長の隣に座った。
「粗茶ですが」
差し出された茶を受け取る。
『ありがとうございます』
「院長先生」
レティシアが静かに、けれど居住まいを正して口を開いた。
「事情を詳しく申し上げることはできませんが、アリア・ヴェリス様は……さる高貴なお方とだけ、お含みおきください」
「まあ」
院長は微笑んだまま頷いた。
「でしたら、無理に伺うのはやめておきます」
エリセ先生は、困ったように笑った。
「ここへ来る子は、言いたくないことを抱えている子ばかりですから。話せるようになってからで、十分です」
「ただ」
「隠しても仕方のないことです。……この院には、余裕がございません」
「子供たちを優先していますので、大人の方には、どうしても不便をおかけします」
その時。
レティシアが院長の耳元に顔を寄せ、そっと囁いた。
院長の目が、こぼれそうなほど大きく見開かれる。
両手を胸の前に組み、ゆっくりとアリアを見る。
その瞳が揺れ、うっすらと涙が滲んだ。
「……アルテリア様、感謝いたします……」
絞り出すようなつぶやき。
でも、それで十分だった。
……そうか。
あのおやじ神官には出世のための金で、ここでは子どもたちの食事や冬支度になる。
同じ金なのに、使い道が違いすぎて、妙に落ち着かなかった。
『……あの』
言いかけて、少しだけ視線をそらす。
『掃除でも、洗濯でも、手の足りないことがあれば、わたくしにもお任せくださいませ』
一瞬、部屋が静かになる。
「まあ……そのようなお立場の方に」
『立場で腹は膨れませんわ』
言ってから、自分でも少し驚いた。
『……ただ座っているだけでは、落ち着かないのです』
院長は一瞬、言葉を探すように口を閉じた。
その横で、レティシアがわずかに目を伏せる。
「……アリア様が、そうお望みであれば」
静かに添えられた一言。
それで、院長はゆっくりと息を吐いた。
「このような高貴なお方が、わざわざ同じ場所で、同じように暮らそうとなさるなんて……」
外では、子供たちの歓声が上がっている。
「お菓子だって!」
たったひと包みで、場がやわらぐ。
レティシアは、少しだけ満足そうな顔をしていた。
それがアリアに向けたものなのか、院長に向けたものなのかは、よく分からない。
『……レティシア』
「はい」
『……助かりましたわ、レティシア』
「はい?」
『出会ったばかりのわたくしを、ここまで運んでくださったでしょう。あなたがいなければ、たぶん初日で詰んでおりました』
レティシアが、一瞬だけ目を瞬かせた。
『あなたは、通せる方ですわ』
「……通せる?」
『わたくしが雑に出した善意を、子どもたちの朝食まで運べる。そういう方は、貴重です』
珍しく、レティシアが言葉に詰まった。
目を伏せた横顔が、ほんの少しだけ照れたように見える。
その隣で、院長がふっと微笑んだ。
「あらあら。この子は、この孤児院から神殿へ奉公に上がれた三人目の子なんです」
『三人目?』
「はい。わたくしが二人目で、レティシアが三人目なんです」
院長は、湯呑をそっと置いた。
ほんのわずかに、言葉を選ぶ沈黙があった。
「孤児院の子は、十六になりますと、神殿奉公の選考を受けます」
『選考に通れば、本人登録ができる?』
「はい。神殿が後見となりますので」
そこで、ようやく形が見えた。
この世界では、生きるための入口を神殿が握っている。
『落ちれば?』
院長は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、答えはほとんど見えた。
「受紋の儀を受ける道が、遠くなります」
『本人登録も、後見も、奉公先もないまま外へ出るのですね』
院長は否定しなかった。
なるほど。
救済に見せかけて、出口の鍵を配っている。
『……まるで、身分そのものを人質に取られているようですわね。控えめに言っても、最悪の仕組みですわ』
口に出してから、少しだけ言い過ぎたかと思った。
けれど院長は咎めるでもなく、困ったように微笑んだだけだった。
「ええ……ただ、実際には皆が上がれるわけではございません」
その声が、ほんの少しだけ沈む。
「レティシアは本当によく頑張ったのです。この子は、ちゃんと見ていただけましたから」
「でも、ほとんどの子は面接で落とされます」
今度はレティシアが、静かに引き取った。
選ばれた側のはずなのに、レティシアの指先は膝の上で白くなるほど握られていた。
思わず、二人の顔を見た。
『……では、そこから零れ落ちた子たちは、どうなってしまうの?』
院長の指先が、膝の上でそっと重なる。
「孤児院には、いつまでも置いてはおけません」
「ですから、外へ出ます」
その言い方が、やけに静かだった。
『……それで、生きていけますの?』
院長は、否定しなかった。
「それでも皆、なんとかなるって笑って出ていくんです」
その一言で、部屋が少し静かになった。
湯呑の中を見た。
茶はもう、少しぬるくなっていた。
ここの孤児たちは、貧しいから詰んでいるのではない。
本人登録。
後見。
奉公先。
保証人。
出口に必要な鍵を、最初から取り上げられている。
なら、問題は善意ではなく設計だ。
入口を握っている側が、出口まで選んでいる。
だったら直す場所は、はっきりしている。
出口がないなら、出口を作る。
鍵がないなら、鍵を作る。
『不足しているものは、順番に整えていきたいわ。レティシア、手配をお願いしてもよろしいかしら?』
「はい。承知いたしました」
『ありがとう』
口元に、薄く笑みを乗せる。
『では次は、この子たちが外へ出ても詰まない鍵を、こちらで用意いたしましょう』
そのつもりで動かしただけなのに、女神の顔でやると、妙に宣戦布告めいて見えた。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
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