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第3話 女神様、本人登録をなさる

「レティシア」


回廊の陰から、若い神官のアーロンが声をかけてきた。


「例の未登録の娘だが、明日、お前のいた孤児院へ回せ」

「……お断りいたします」


レティシアの口元から、営業用の笑みが消えた。


「あそこには余裕がございません。院長先生は頼まれると断れない方です。見張りのために押し込むなど――」

「お前に判断を求めているわけではない」


「これは神殿の判断だ」

「神殿の、ですか」

「そうだ。……それとも、お前の横領を正式な帳簿に載せるか?」


レティシアの肩が、びくりと跳ねた。


「宿泊客から直接預かった布施。神殿勘定を通していない寄付金。孤児院へ流した物資代」


アーロンは淡々と並べる。


「台帳上は、立派な横領だ」

「……あれは、子どもたちの冬支度に」

「理由は聞いていない」


アーロンは、書類の不備を指摘するような顔で言った。


「台帳にどう残っているか。それだけが問題だ。院長は、不正な金を受け取った自分も同罪でとがめられると知っているのか?」


レティシアの顔から血の気が引く。


正規の帳簿には載せられない布施。

冬を越せない子をひとりでも減らすため、頭を下げて集めてきた命綱。

それを、この男は首輪として使っている。


「……院長先生は、関係ありません」

「なら、お前が正しく処理しろ」


アーロンは一歩近づき、見下ろすように告げた。


「神殿の指示ではない。お前の判断で、あの娘を孤児院へ引き取った。そういう形にする」

「……」

「話は簡単だ。お前は今夜限りで宿泊係を外れる。明日から孤児院で、あの娘の世話係をしろ」

「監視役、ではなく?」

「言葉を選べ」


レティシアは屈辱に唇をみ、深く頭を下げた。


「……承知、いたしました」

「話が早くて助かるよ」


アーロンはそれ以上なにも言わず、足音を響かせて立ち去った。


レティシアは薄暗い回廊で、ひとりうつむく。

握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。



翌朝。

ぐう、と腹が鳴った。


その音に合わせたように、扉が開く。

レティシアが朝食を運んできた。


焼きたてのパン。温かいスープ。


胃は正直に反応する。

だが、食べ終わればここを出される。

問題は何も解決していない。


『……レティシア』


「はい、アリア様」


『この世の理不尽を、一人で背負わされたような顔をしてますわ』


「そのようなことはございません。わたくしは常に平穏でございます」


レティシアの手が止まった。


「……本日から、わたくしは孤児院係へ移ることになりました」


『孤児院?』


「わたくしが育った場所です。院長先生に事情を話せば、ひとまずアリア様を置いてくださるかもしれません」


孤児院。だいぶ無理がある。


『わたくしが行けば、迷惑ではなくて?』


「迷惑です」


正直でよろしい。


「ですが、野宿されるよりはましです」


「ただ、食費も、冬着も、薬も足りておりません。その上、わたくしまで戻ることになります」


レティシアは、そこで小さく息を吐いた。


「機嫌が良くなる理由など、一つもございません」


厄介な俺と、都合の悪いレティシアを、まとめて孤児院へ押し込む。


腹が立つ。


『分かりました。わたくしも同行いたしますわ』


レティシアが目を見開く。


「ありがとうございます」


『誤解なさらないで。野宿よりましな方を選んだだけですわ』


『ちなみに、その不足している分を、わたくしが寄進することはできますの?』


「はい?」


『寄進ですわ。余所者のわたくしでも、手続きさえ踏めば受け取っていただけるのでしょう?』


「お気持ちはありがたく存じます。ですが、少しばかりいただいたところで、状況は大きく変わりません」


レティシアは困ったように眉を下げる。


『では、少しばかりでなければよろしいのね』


俺は黒い石へ指を置く。


『差し当たり、五十万刻ほどで』


レティシアの顔から血の気が引いた。


「……昨夜、罰として取られた額でございます」


『ええ。なら、今度は罰ではなく朝食に変えましょう』


勘定石に数字が浮かぶ。


【寄進額:500,000刻】


レティシアの喉が、小さく鳴った。


「足りるどころではございません。わたくしが一生かけても、手の届かない額でございます」


『では、そのように』


確定欄に触れようとして、指が止まる。


『……このまま渡せば、あなたがたを危険にさらしますか?』


レティシアの目が変わった。


「お待ちください。その刻、すぐには使えません」


『どういうことですの?』


「聖ラウラ孤児院は神殿の管理下にあります。突然そんな額が入れば、監査されます」


『寄進しただけで?』


「はい。昨日まで宿泊係だったわたくしが、今日から孤児院係へ移される。その直後に、正体不明のアリア様から大金が入る。神殿が見逃す理由がございません」


『では、使えないのですか?』


「使います。分けます」


レティシアは勘定石を握り直す。


「食料は市場で。薬は薬師から。布は布地として入れます」


指を一本ずつ折る。


「一括寄進にはしません。物資として、日を分けて、少しずつ届く形にします」


見事な分散処理だ。


『……不便ですわね』


「孤児院のためでございます。苦ではございません」


『分かりました。あなたに任せます』


「わたくしに、でございますか?」


『ええ。今すぐ動かす額、購入先、帳簿上の名目。現場を知るあなたに任せます』


レティシアは、ほんの少しだけ言葉を失った。


「……承りました」


レティシアの表情が変わる。

さっきまでの怯えた案内係ではない。完全に仕事の顔だ。


「まずは食料と薬を優先いたします。冬着と寝具は、布地と修繕道具を先に入れます。孤児院名義ではなく、複数の小口で処理します」


『徹底していますわね』


「生き残るためですので」


そう言って、レティシアは笑った。


「全部は変えられません」


彼女は黒い石を胸元で抱える。


「ですが、明日の朝食からは変えられます」


「アリア様。先ほどまで、わたくしの対応に非礼がございました。お詫び申し上げます」


『ええ、存じておりますわ。かなり、恐ろしかったですわね』


「容赦がございませんね」


レティシアは、初めて見る晴れやかな笑みのまま、背筋を伸ばし直した。


「訂正いたします。以後、アリア様を雑に扱う者は、わたくしが手続きの範囲内で、可能な限り不幸にいたします」


急に頼もしい。

そして、少し怖い。


『急に、ずいぶん頼もしくなりましたわね』


レティシアは少しだけ目を見開いた。

それから、静かに口元を上げる。


「全霊をかけて味方でございます。少なくとも、先ほどまでよりは、魂の底から確実に」


『……感謝いたしますわ』


「お礼を申し上げるのはこちらでございます」


レティシアは朝日を背にして笑っていた。





朝食の皿が下げられたあと、机の上の勘定石を手に取った。


指先を置く。


――ピッ。


【利用者識別:UID-0】


UID-0。

普通の利用者に振る番号ではない。


「どうなさいましたか、アリア様」


『……少し、気になる表示がございますの』


レティシアには、この表示が見えていない。


その番号に、もう一度触れる。


――ピッ。


光が一段沈んだ。


【権限階層:未定義】

【神殿台帳:照会可能】


『神殿台帳、と表示されていますわ』


「……いま、なんと?」


レティシアの息が止まった。


「神殿台帳は、神殿が管理する中枢記録です。普通の勘定石から触れられるものではございません!」


俺はさらに奥へ指を滑らせる。


【管理権限の確認】

【本人認証サービス:新規ID発行】


出た。


『新規ID発行、ですって』


「アリア様!?」


レティシアの顔から、完全に血の気が引いた。


「ありえません。本人認証は、神殿台帳と照合して初めて通るものです!」


『でも、まだ神殿台帳は照会されていませんわね』


文字の上に指を置く。

通っても、弾かれても、検証にはなる。


どちらに転んでも検証テストになる。


俺は躊躇なく【新規ID発行】に触れた。


【氏名】

【身分区分】

【所属】

【本人照合】


入力フォームが並ぶ。


唇が、勝手に動いた。


『この世界に、誰かの居場所が用意されていないのなら』


違う。

そんなエモい話をしたいわけじゃない。


『まずは、わたくし自身の名から置きます』


やめろ。勝手に神託っぽくするな。

俺は内心で舌打ちしながら、入力欄へ触れた。


【氏名:アリア・ヴェリス】

【身分区分:仮登録住民】

【所属:なし】


最後に、本人照合。

指を置いた瞬間、勘定石が白く発光した。


【本人認証サービス:新規ID発行完了】

【発行者:アリア・ヴェリス】

【登録番号:AR-00-0001】

【状態:仮有効】


『……できてしまいましたわね』


「アリア様……」


レティシアの声が震えている。


「神殿の仕組みが、そのように通ってよいはずが……」


その時だった。

俺の視界にだけ、どぎつい赤い文字が走る。


【WARNING】

【監査通知:未照会IDの『最上位発行』を検知】

【緊急照会:神殿中枢へ通知】


『……あら』


「アリア様」


レティシアの声が低くなる。


「お逃げになりますか。調査が入れば、ただでは済みません」


『なぜ?』


赤い警告表示を見たまま、俺は答えた。


『わたくしは、生きるために必要な名前を置いただけです』


口にした途端、声がまた勝手に芝居がかった響きになる。


『逃げませんわ』


勘定石の上で、白い光がまだ揺れている。


『わたくしの手続きを、通らなかったことにはさせません』


レティシアが息を飲んだ。


俺はただ、欠陥だらけのクソシステムに腹を立てているだけだ。


名前がない。

だから取引できない。住めない。働けない。


そんな設計を、当たり前の顔で通しているのが気に食わない。

なのに、この女神の顔と声を通すと――

それはどうしようもなく、絶対者の『宣告』みたいに響いていた。

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