第3話 女神様、本人登録をなさる
「レティシア」
回廊の陰から、若い神官のアーロンが声をかけてきた。
「例の未登録の娘だが、明日、お前のいた孤児院へ回せ」
「……お断りいたします」
レティシアの口元から、営業用の笑みが消えた。
「あそこには余裕がございません。院長先生は頼まれると断れない方です。見張りのために押し込むなど――」
「お前に判断を求めているわけではない」
「これは神殿の判断だ」
「神殿の、ですか」
「そうだ。……それとも、お前の横領を正式な帳簿に載せるか?」
レティシアの肩が、びくりと跳ねた。
「宿泊客から直接預かった布施。神殿勘定を通していない寄付金。孤児院へ流した物資代」
アーロンは淡々と並べる。
「台帳上は、立派な横領だ」
「……あれは、子どもたちの冬支度に」
「理由は聞いていない」
アーロンは、書類の不備を指摘するような顔で言った。
「台帳にどう残っているか。それだけが問題だ。院長は、不正な金を受け取った自分も同罪で咎められると知っているのか?」
レティシアの顔から血の気が引く。
正規の帳簿には載せられない布施。
冬を越せない子をひとりでも減らすため、頭を下げて集めてきた命綱。
それを、この男は首輪として使っている。
「……院長先生は、関係ありません」
「なら、お前が正しく処理しろ」
アーロンは一歩近づき、見下ろすように告げた。
「神殿の指示ではない。お前の判断で、あの娘を孤児院へ引き取った。そういう形にする」
「……」
「話は簡単だ。お前は今夜限りで宿泊係を外れる。明日から孤児院で、あの娘の世話係をしろ」
「監視役、ではなく?」
「言葉を選べ」
レティシアは屈辱に唇を噛み、深く頭を下げた。
「……承知、いたしました」
「話が早くて助かるよ」
アーロンはそれ以上なにも言わず、足音を響かせて立ち去った。
レティシアは薄暗い回廊で、ひとり俯く。
握りしめた拳の中で、爪が掌に食い込んでいた。
◆
翌朝。
ぐう、と腹が鳴った。
その音に合わせたように、扉が開く。
レティシアが朝食を運んできた。
焼きたてのパン。温かいスープ。
胃は正直に反応する。
だが、食べ終わればここを出される。
問題は何も解決していない。
『……レティシア』
「はい、アリア様」
『この世の理不尽を、一人で背負わされたような顔をしてますわ』
「そのようなことはございません。わたくしは常に平穏でございます」
レティシアの手が止まった。
「……本日から、わたくしは孤児院係へ移ることになりました」
『孤児院?』
「わたくしが育った場所です。院長先生に事情を話せば、ひとまずアリア様を置いてくださるかもしれません」
孤児院。だいぶ無理がある。
『わたくしが行けば、迷惑ではなくて?』
「迷惑です」
正直でよろしい。
「ですが、野宿されるよりはましです」
「ただ、食費も、冬着も、薬も足りておりません。その上、わたくしまで戻ることになります」
レティシアは、そこで小さく息を吐いた。
「機嫌が良くなる理由など、一つもございません」
厄介な俺と、都合の悪いレティシアを、まとめて孤児院へ押し込む。
腹が立つ。
『分かりました。わたくしも同行いたしますわ』
レティシアが目を見開く。
「ありがとうございます」
『誤解なさらないで。野宿よりましな方を選んだだけですわ』
『ちなみに、その不足している分を、わたくしが寄進することはできますの?』
「はい?」
『寄進ですわ。余所者のわたくしでも、手続きさえ踏めば受け取っていただけるのでしょう?』
「お気持ちはありがたく存じます。ですが、少しばかりいただいたところで、状況は大きく変わりません」
レティシアは困ったように眉を下げる。
『では、少しばかりでなければよろしいのね』
俺は黒い石へ指を置く。
『差し当たり、五十万刻ほどで』
レティシアの顔から血の気が引いた。
「……昨夜、罰として取られた額でございます」
『ええ。なら、今度は罰ではなく朝食に変えましょう』
勘定石に数字が浮かぶ。
【寄進額:500,000刻】
レティシアの喉が、小さく鳴った。
「足りるどころではございません。わたくしが一生かけても、手の届かない額でございます」
『では、そのように』
確定欄に触れようとして、指が止まる。
『……このまま渡せば、あなたがたを危険にさらしますか?』
レティシアの目が変わった。
「お待ちください。その刻、すぐには使えません」
『どういうことですの?』
「聖ラウラ孤児院は神殿の管理下にあります。突然そんな額が入れば、監査されます」
『寄進しただけで?』
「はい。昨日まで宿泊係だったわたくしが、今日から孤児院係へ移される。その直後に、正体不明のアリア様から大金が入る。神殿が見逃す理由がございません」
『では、使えないのですか?』
「使います。分けます」
レティシアは勘定石を握り直す。
「食料は市場で。薬は薬師から。布は布地として入れます」
指を一本ずつ折る。
「一括寄進にはしません。物資として、日を分けて、少しずつ届く形にします」
見事な分散処理だ。
『……不便ですわね』
「孤児院のためでございます。苦ではございません」
『分かりました。あなたに任せます』
「わたくしに、でございますか?」
『ええ。今すぐ動かす額、購入先、帳簿上の名目。現場を知るあなたに任せます』
レティシアは、ほんの少しだけ言葉を失った。
「……承りました」
レティシアの表情が変わる。
さっきまでの怯えた案内係ではない。完全に仕事の顔だ。
「まずは食料と薬を優先いたします。冬着と寝具は、布地と修繕道具を先に入れます。孤児院名義ではなく、複数の小口で処理します」
『徹底していますわね』
「生き残るためですので」
そう言って、レティシアは笑った。
「全部は変えられません」
彼女は黒い石を胸元で抱える。
「ですが、明日の朝食からは変えられます」
「アリア様。先ほどまで、わたくしの対応に非礼がございました。お詫び申し上げます」
『ええ、存じておりますわ。かなり、恐ろしかったですわね』
「容赦がございませんね」
レティシアは、初めて見る晴れやかな笑みのまま、背筋を伸ばし直した。
「訂正いたします。以後、アリア様を雑に扱う者は、わたくしが手続きの範囲内で、可能な限り不幸にいたします」
急に頼もしい。
そして、少し怖い。
『急に、ずいぶん頼もしくなりましたわね』
レティシアは少しだけ目を見開いた。
それから、静かに口元を上げる。
「全霊をかけて味方でございます。少なくとも、先ほどまでよりは、魂の底から確実に」
『……感謝いたしますわ』
「お礼を申し上げるのはこちらでございます」
レティシアは朝日を背にして笑っていた。
◆
朝食の皿が下げられたあと、机の上の勘定石を手に取った。
指先を置く。
――ピッ。
【利用者識別:UID-0】
UID-0。
普通の利用者に振る番号ではない。
「どうなさいましたか、アリア様」
『……少し、気になる表示がございますの』
レティシアには、この表示が見えていない。
その番号に、もう一度触れる。
――ピッ。
光が一段沈んだ。
【権限階層:未定義】
【神殿台帳:照会可能】
『神殿台帳、と表示されていますわ』
「……いま、なんと?」
レティシアの息が止まった。
「神殿台帳は、神殿が管理する中枢記録です。普通の勘定石から触れられるものではございません!」
俺はさらに奥へ指を滑らせる。
【管理権限の確認】
【本人認証サービス:新規ID発行】
出た。
『新規ID発行、ですって』
「アリア様!?」
レティシアの顔から、完全に血の気が引いた。
「ありえません。本人認証は、神殿台帳と照合して初めて通るものです!」
『でも、まだ神殿台帳は照会されていませんわね』
文字の上に指を置く。
通っても、弾かれても、検証にはなる。
どちらに転んでも検証になる。
俺は躊躇なく【新規ID発行】に触れた。
【氏名】
【身分区分】
【所属】
【本人照合】
入力フォームが並ぶ。
唇が、勝手に動いた。
『この世界に、誰かの居場所が用意されていないのなら』
違う。
そんなエモい話をしたいわけじゃない。
『まずは、わたくし自身の名から置きます』
やめろ。勝手に神託っぽくするな。
俺は内心で舌打ちしながら、入力欄へ触れた。
【氏名:アリア・ヴェリス】
【身分区分:仮登録住民】
【所属:なし】
最後に、本人照合。
指を置いた瞬間、勘定石が白く発光した。
【本人認証サービス:新規ID発行完了】
【発行者:アリア・ヴェリス】
【登録番号:AR-00-0001】
【状態:仮有効】
『……できてしまいましたわね』
「アリア様……」
レティシアの声が震えている。
「神殿の仕組みが、そのように通ってよいはずが……」
その時だった。
俺の視界にだけ、どぎつい赤い文字が走る。
【WARNING】
【監査通知:未照会IDの『最上位発行』を検知】
【緊急照会:神殿中枢へ通知】
『……あら』
「アリア様」
レティシアの声が低くなる。
「お逃げになりますか。調査が入れば、ただでは済みません」
『なぜ?』
赤い警告表示を見たまま、俺は答えた。
『わたくしは、生きるために必要な名前を置いただけです』
口にした途端、声がまた勝手に芝居がかった響きになる。
『逃げませんわ』
勘定石の上で、白い光がまだ揺れている。
『わたくしの手続きを、通らなかったことにはさせません』
レティシアが息を飲んだ。
俺はただ、欠陥だらけのクソシステムに腹を立てているだけだ。
名前がない。
だから取引できない。住めない。働けない。
そんな設計を、当たり前の顔で通しているのが気に食わない。
なのに、この女神の顔と声を通すと――
それはどうしようもなく、絶対者の『宣告』みたいに響いていた。




