第87話 絶えた花の鼓動
「わ、割れた……!」
掌の上で、胡桃のような小さな種に一筋の細い亀裂が走る。
小刻みに震える種の表面に走ったひびが、じわじわと枝分かれして、やがて殻全体を覆い始めた。その隙間から、白い何かが顔を出す。
か細く儚げに光を帯びて、まるで星の欠片が内側から押し出されてくるようだった。淡い翠色の光が殻の隙間から零れ落ち、小さな種が鼓動のように、こくん、こくん、と規則正しく脈打ち始める。
「さ、咲いたぁ……!?」
「う、動いてる……!」
私は息をすることも忘れ、その小さな命を見つめる。エリオット様も目を丸くしながら身を乗り出した。
(星冠がついに、現代に蘇る……!)
白いものは光の粒子を零しながら少しずつ、少しずつ、掌の上に姿を現し始めた。二本の細い芽がゆっくりと顔を覗かせる。嬉しさで胸がいっぱいになり、こんな時なのにはしゃぎそうになる。
――だけど。
芽は植物らしく伸びていかなかった。
「えっ……?」
最初は芽のように見えたそれに、みるみる彩が加わっていく。純白から翡翠色へ、加えて金の縁取りが装飾のように覆い始めた。
「こ、これは……何なの?」
透き通る薄い膜が幾重にも広がり、まるでステンドグラスが命を持ったように光彩を放ちながら、一対の羽の形を成していった。あまりの神々しさに顔が引きつってしまう。
「え、えっ、えっ? なんで羽……? これって植物の種じゃないの……!?」
「……蛹から蝶が生まれているようだね」
エリオット様が息を呑んで呟いた。まさに蝶の羽化だ。殻の中から現れた小さな存在は、光を零しながらゆっくりと羽を広げていく。
「こ、これは、どう見ても蝶ですよね……? 只の蝶じゃないけど……」
美しい羽に見惚れてしまう。
「……アイリス、体の部分を見て」
「えっ?」
指摘されて改めて目を凝らす。殻の割れ目からゆっくりと這い出していた羽の下の小さな体が——人の、女性の形をしていた。親指ほどの大きさの。
腰まで届く翠の髪、金色の瞳、半透明の肌。翡翠色と金の羽を持つその存在は、光の軌跡を零しながらゆっくりと掌の上に立ち上がり、ぱちりと目を開けた。
「このこ、まさか……妖精……!?」
思わずそう呟いた、その瞬間だった。
〖——ロマンスの香りがする〗
「わっ!?」
びくりと肩が跳ね上がる。音ではなかった、声でもなかった。頭の中に直接、鈴を転がしたような愛らしい声が直接響いてきた。
「念話……!?」
エリオット様も驚いた声を上げる。
小さな少女は眠そうに大きく伸びをすると、ゆっくりと翡翠色の羽をはためかせ掌から飛び立った。翠色の光の尾を引きながら宙をくるりと回る。まるで春風そのものが姿を持ったような、美しく神秘的な光景。
その間に最初は親指ほどだった体が、あっという間に掌ほどに大きくなっていく。
そしてふわりと、私の顔の真正面で止まった。翠色のちっちゃな瞳が、まっすぐにこちらを覗き込んでくる。ジーっと透かされるように見られた。
〖キミだね。アタシに美味しい魔力を届け続けてた娘は〗
「え……あ……は、はい」
〖《花の帳》……すごく珍しい才能ねぇ。植物への愛が魔力に滲み出てるの。最高に美味しくって毎日が夢見心地だったわ〗
妖精は私の周りをくるくると飛びながら、光の尾を引いてきらきらと軌跡を残した。
〖アイリスっていうんだ……うふふ、可愛い娘ねぇ〗
「あ、あの……あなたは?」
「妖精、ということでよろしいでしょうか?」
呆然としている私の前に、警戒するようにエリオット様が一歩出た。
妖精——誰でも知ってる、高い知性を持つ珍しい種族。絵本にもよく登場する。
善性と悪性の妖精がいて、いずれも高い知能を持ち言語で意思疎通が可能だって言われてる。善性の妖精は人に友好的で力を貸すこともあるけど、悪性の妖精は災いを呼びイタズラや危害を加えることもあり、魔物と呼ばれることさえある。
〖まぁ、この姿を見ればそう思うよねぇ〗
「……というと?」
妖精はエリオット様をちらりと一瞥し、それからまた私の方へ向き直った。
〖アタシは世界樹〗
「は?」
ぽかんとしてしまう私達。……世界樹って一つしか思い浮かばない。まさか、神話のあれ?
〖アタシは世界樹に宿る意思——地を司る精霊王の端末。妖精の姿は仮初のもの。ちょっと動きやすい格好してるだけ〗
「ゆ、世界樹……!?」
「世界樹って……創世の神話に出てくる、あの?」
私達の声が裏返った。
〖うん、それそれ♪〗
まるで「今日は晴れてるね」とでも言うような軽い調子で言わないで欲しい!
(ほ、本当なの……?)
世界樹——子供の頃に誰もが読むお伽噺、この世界の創世神話に現れる存在。多分、この王国だけじゃなくって、世界中で読まれている物語。
太古の時代、創世の女神が最初に植えた一本の樹。その樹から森が生まれて、草花が生まれて、果実が実って、この世界は緑で満たされた。この世界のあらゆる緑の始まりが世界樹——それが神話の一説。
「あ、あの……この種は、星冠の種ではなかったのでしょうか? あなたの……種だったのですか?」
〖うーん? どっちもかな〗
「えっ?」
〖この世界にある全ての植物は、元を辿ればぜーんぶアタシが創り出したもの。種はアタシの一部から生まれた子供みたいなもの。だから星冠の種でもあるし、アタシの一部でもあるし、宿ることができる依代でもある——そういうこと〗
さらりととんでもないことを言う妖精に、頭が追いつかない。翡翠色の羽をぱたぱたと動かしながら、得意げにえへんと胸を張っている。その仕草はなんとも可愛らしい。
〖アイリスのマナ、とっても美味しいわ。植物への愛がそのまま魔力になってる感じ、アタシ大好きよ。あと、さっきのヤキモチな魔力は堪らなかったわぁ、思わず来ちゃった♪〗
「は、はああ!?」
ヤキモチなんて妬いてないもん!……いや、今はそれどころじゃない!!
〖昔仲が良かった人間と似た魔力なのよぉ。この国の建国王に——わぷっ!?〗
再び身軽にくるりと宙返りをして、私の目の前で止まった妖精を両手でそっと包み込んで、捕まえる。
「お、お願い!!」
小さな体が手のひらの中でばたばたとする感触があった。でも逃がさない。
「女王陛下を助けたいんです! 毒で苦しんでいるの! 解毒剤を作るために、星冠を蘇らせてください!」
「陛下の状態は一刻を争ってるんだ、力を貸してくれないか?」
〖……ふぅん?〗
必死に叫ぶ私達の声に 妖精が、ぴたりと動きを止めた。
掌の隙間から、緑色の瞳がこちらをじっと覗いている。さっきまでの軽い雰囲気とは少し違う、何かを見定めるような目だった。
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