第86話 微睡みの星
もう、四日目の陽が昇ってしまった。
医務室の扉を開けた瞬間、私は息を呑んだ。
一晩中、交代で医者と薬師が看病しながら、回復師は途切れなく魔法が幾重にも重ね掛けされいた。けれど、昨日よりも、陛下の顔色が悪くなっていた。
頬の血色はほとんど消え、白を通り越して薄く紫がかった色が肌に滲んでいる。唇は乾いて荒れており、苦しそうな呼吸のたびに胸が細かく波打っていた。
「……っ、ごほっ……!」
咳き込むたびに白い布が赤く染まり、侍女たちは震える手で新しい布へ取り替えていく。
侍女が濡れた布で額を拭いている間にも、陛下は小さく嗚咽を漏らし、喉の奥から弱々しい声が漏れた。シリウスお兄様がベッドの傍に座り、陛下の手を両手で包んだまま、悲痛な表情をしていた。
(残された猶予はあと三日……)
胸の奥が冷たく締まる感覚がして、私は扉をそっと閉めた。廊下に出ても、その光景が頭から離れてくれなかった。
中央塔を包む空気は、昨日までとは比べものにならないほど張り詰めていた。
◇◇◇
「エリオットー!」
……また来た。張り詰めた空気を場違いな声が壊す。
「ねえ、ちょっとくらいいいでしょ! 珍しいお菓子が届いてるのよ!」
「ああもう、邪魔しないで! 僕は忙しいんだ!」
またカトレイア殿下が来ていた。昨日の登場以降、第三王女殿下は懲りることなく何度も何度もこの部屋に現れていた。
午前中に一度、昼過ぎにもう一度、夕方にまた——まるで自分が断られた事実を認めることができないように、その都度新しい口実を引っ提げて戻ってくるのだ。
エリオット様はその度に毅然と断り続けているが、さすがに三日も続くと彼の返答の温度が一段と下がってきていた。
「殿下、同じことを何度も申し上げるのは本意ではありません」
終いにはそう強く言い放ち、そのまま視線を素材に戻し無視を始めた。
それでも彼女は止まらない。お茶会から始まり、庭の散歩、珍しい音楽の演奏会、そして今日はお菓子。創意工夫と情熱だけは認めてしまいそうになる。
私はといえば、植物素材の目録を確認しながら、内心ではひどくもやもやしていた。カトレイア殿下がエリオット様を好いているのは端から見ていてもよく分かる。
見ていると何とも言えない気持ちになってくる。でも、王族を相手に私が注意できるはずもない。
(今はそれどころではないのに……)
そんな強い苛立ちは消えなかった。それが王女の場と時をわきまえない姿勢のせいなのか、自分の無力さへの苛立ちなのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からなかった。
「貴女は今、姉上が一刻の猶予もない命の危機に瀕している事をご存知ですよね?」
エリオット様が素材から手を離さずに、静かに言った。
「その姉上を救おうとしている人間の時間を、奪いにいらっしゃっているという自覚はおありですか?」
「そんなの知らないわ! 医者がどうにかすればいいのよ! それより私はエリオットに興味があるの! それとこれとは別の話でしょう!?」
(は、はぁ……? の、呑気によくそんなこと言えるね……!)
掌の上で、相変わらず沈黙を続ける星冠の種を指先でころころと転がしながら、ちらりと殿下の方へ視線を向けてしまう。
金色の巻き髪が揺らしながら、真っ直ぐにエリオット様だけを見ている紫紺の瞳。あれほど堂々と、真正面から好意を向けられるのは——ある意味、すごいことかもしれない。アウローラ女王陛下やヴィオレッタ殿下もそうだけど、王族の人達は情熱的だ。
(……って、何考えてるのよ、私は!)
慌てて視線を種に戻す。今はそんなことを考えている場合じゃない。
《花の帳》から可能性のある素材は全部リストアップし、手配も済んでいる。エリオット様のお手伝いするか、星冠の種に『芽吹き』を試み続けるか——今の私にできることは、それだけだった。
祈るように目を閉じ、種に魔力を集中させる。
「『芽吹き』——お願い星冠……咲いて!」
光の粒子が手のひらを包む。柔らかく、温かく、種を優しく撫でるように魔力が流れていく。
でも——相変わらずの沈黙。
「……」
三日間、ずっとこうだ。どれだけ魔力を込めても、どれだけ丁寧に語りかけても、種はただ静かに転がっているだけで、何も返してこない。焦りが胸の中でじわじわと広がっていく。
「この私がエリオットの妻になって差し上げてもよくってよ! 光栄に思いなさい!」
「——はあああぁ!? 冗談じゃない、御免こうむります!」
(はあああぁ!?)
思わず心の中で三倍になって叫びを繰り返してしまった。
(つ、妻!? 妻って言った今!?)
二人の声が素材の山を越えて飛び込んでくる。エリオット様は即座に断ったけれど、強引な彼女は諦める様子がまったく見えない。
むかむかしながら、怒りのまま種に『芽吹き』をする。
「咲きなさい、星冠——!」
《花の帳》から種に光が降り注ぐ。
その瞬間——
ふるり……。
「……えっ?」
手のひらの上で、種が震えた。
(えっ!? き、気のせい? いや、確かに動いた! 今、確かに、動いた!)
心臓がどくんと大きく跳ねる。
「お願い咲いて、星冠……!!」
もう一度魔力を込める、全力で。さっきより深く、もっと丁寧に、種の中心まで届くように。
——しかし……静寂が帰ってきた。
「あ、あれ……?」
種は動かない。さっきのは幻覚……?
でも、確かに感じた。あの震えは本物だったはずだ。
「お、お願いよ! 咲いて! 動いて、もう一度!」
何度も、何度も『芽吹き』を繰り返す。光が明滅するように種を包み、また消え、また包む。その間もカトレイア殿下とエリオット様の口論が続いていたけれど、もう私の耳には届いていなかった。
種だけを見ていた、種だけを感じていた。
(私はさっきはどうやったの? 確か、種にお願いじゃなくって、咲きなさいと言ったっけ? 命令するように?)
どのくらい経ったころだろう。カトレイア殿下がいつものように「覚えていなさいよ!」と捨て台詞を残して出て行き、廊下にドレスの裾が消える音がした。
「はぁ……もう本当に嫌になる。一体何なんだ……僕まで王族に絡まれるなんて……」
酷く疲れた顔のエリオット様が、ふらりとこちらへ歩いてきた。
「ねえアイリス、ちょっと休憩してお茶でも——って、どうかしたの?」
掌の種を真剣に見つめる私を見て、エリオット様の表情が変わった。
「そ、それが……さっき、種が動いた気がして。でもその後は全然反応がなくて……気のせいかもしれないんですけど、でも震えたように感じて」
「なんだって!?」
前のめりに口早に伝えると、エリオット様がすっと隣に立ち私の手のひらの上の種を見つめた。
「もう一度、やってみて」
「は、はい」
息を整えて、もう一度魔力を集める。図鑑から光の粒子が手のひらに集まり、種を包んでいく——
「咲け! 星冠!」
……ふるふる……ふるり。
う……!? 動いた!! 絶対動いた!!
「う、動きましたよね!? 今、動きましたよね!?」
「ああ、見た! 確かに動いた!!」
エリオット様の目が輝いた。
私も思わず立ち上がりそうになるのを堪えながら、そのまま魔力を送り続ける。すると種はさらに小刻みに震え始めた。さっきよりも大きく、さっきよりも速く。
まるで、長い眠りの中で何かが目覚めようとしているような——
ピシィッ……
乾いた、鋭い音がした。
固唾を呑んで見守っていた私達の目の前で、胡桃のような固い皮の表面に一本の亀裂が走った。
この物語を読んで頂き有難うございます。
もし宜しければ、ブックマーク・評価を頂けると励みになり有難いです。
また、評価いただいた方、有難うございました!
今後ともよろしくお願いします。




