第85話 そのような時間はございません
女王陛下が倒れてから、三日目の昼が過ぎてしまった。
「う~ん……やっぱり、何の反応もない……」
掌の上で、小さな胡桃のような種を指先でころころと転がす。
シリウスお兄様から許可を頂いて、祭壇から一粒だけ持ち出させてもらったものだ。時間を見つけては『芽吹き』を試しているけれど、三日経った今も、種はただ黙って掌の中に収まっているだけだった。
「分からないものは、仕方がないよ」
エリオット様が新たに届いた素材へ手をかざしながら、穏やかに言った。
「現代にある素材から、解毒薬を作ることを考えよう」
「……はい」
むすっとしながら種を小箱に戻す。分かってる。分かってはいるけれど。
今、私達がいるのは中央塔の医務室に隣接した大きな客室だ。もはや客室と呼ぶには語弊があるほど、部屋の様相は一変していた。
壁際には素材の入った木箱が天井近くまで積み上げられ、長テーブルの上には薬草束、鉱物標本、乾燥させた花弁、小瓶に封じられた液体素材が所狭しと並んでいる。
王城の保管庫からはもちろん、商会や病院が保有する希少素材の在庫、各貴族家の私蔵品、遠方の素材商から馬車で運ばれてくる品々など。王都中から素材が集まっていた。
部屋の隅には文官が二人、羽根ペンを走らせながら素材の目録を作り続けており、扉の外では騎士が荷を運ぶ声と足音が絶えなかった。
女王陛下が倒れてからは、王城の動きは一切止まらなかった。使用人達が発注書の手配に走り回り、騎士達が荷の仕分けと搬入を担い、王城の料理人達までもが薬効のある食材の提供を申し出てくれている。
皆が自分に何ができるかを考え、全力で動いていた。その中心にいるのがエリオット様だ。
次々と運び込まれる素材に、片端から手をかざして『製作図』を解放していく。一つ確認しては次へ、また次へ。その速度は常人には真似できないもので、昨夜などは夜明け近くまで作業を続け、それでも「まだもう少し」と言って手を止めなかった。
目の下にうっすらと隈が浮かんでいるのを、本人はちっとも気にしていない様子だった。
「エリオット様、少し休んでください」と何度言っても、「大丈夫、慣れてるから」と笑って流されてしまう。慣れてるで済む話じゃないのに。
私はといえば、《花の帳》を広げて解毒に使えそうな植物を片端から調べていた。だけど毒杯の症状が複雑なだけに、可能性のある素材が絞り込めず、候補は増える一方だった。
解熱、抗毒、血を巡らせる作用のある植物、神経に働きかける薬草——それぞれ効能の異なる植物が大量にリストアップされ、それらを生み出すか手配して入手し、エリオット様に鑑定してもらう。その繰り返し。
シリウスお兄様は使用人を引き連れ、王城の禁書庫に籠って聖杯に関する記載が無いか古文書を調べ続けている。
それでもまだ——王家の毒杯に有効な解毒薬の『製作図』は、見つかっていなかった。
(陛下のお体が、日に日に弱っていく……)
医務室に顔を出すたびに、陛下の顔色が昨日より白くなっていくような気がして、心臓が締め付けられる。
平常心を保っていられるのは、エリオット様が諦めていないからだ。あの人が「大丈夫」と言う限り、大丈夫だと思える。根拠のない話だと分かっていても、そう信じて疑わなかった。
(エリオット様なら、きっとまた奇跡を起こしてくれる)
そんなことを考えながら《花の帳》のページをめくっていた、そんな時だった。
扉が開く音がした。
使用人か騎士が素材を運んできたのだろうと思って顔を上げた私は、ぽかんとして固まってしまう。
入ってきたのは、三人の侍女を引き連れた美少女。年の頃は私と同じくらいで、くるくると巻いた金色の髪を高く結い上げ、薄いピンク色のドレスを纏っている。
その立ち姿には、生まれながらに威を纏うことを当然とした者特有の、傲慢な優雅さがあった。
その少女は部屋に入るなり、素材の山も、忙しく立ち働く使用人達も、私達の疲れた顔も、何一つ目に入っていないかのように——真っ直ぐに、エリオット様の元へ歩いていった。
そして、見事なほど完璧な所作でカーテシーをした。
「アルヴェリア公爵家次期当主、エリオット様……ご機嫌麗しゅう存じます」
「……やぁ。こんにちは、カトレイア第三王女殿下」
手元の素材から顔を上げたエリオット様が、珍しく目を白黒させながら答えた。
突然現われたのはカトレイア第三王女殿下。王家の中でも特に気位が高いとかなんとかって、聞いた気がする。彼女は周りの事など眼中に無さそうに言葉を続けた。
「今日はお天気も宜しゅうございますわね」
殿下はふふんと高慢そうに微笑んだ。その笑みには、自分が微笑めば世界が喜ぶと信じて疑わないような、独特の自信が滲んでいた。
「気晴らしに、貴方をお茶会にお誘いしてさしあげてもよくってよ? 光栄に思いなさい」
(え……っ?)
私は驚いて手に持った小箱を落としかけた。 い、今、なんと言った? お茶会? 気晴らし? ……こんな時に!?
「はい?」
エリオット様が、静かに、しかし完全に真顔で殿下を見た。
「いいえ、結構です。忙しいので。今は一刻を争う状況です」
「——は?」
カトレイア殿下の顔が、一瞬固まった。
「今……なんと仰いました?」
「結構です、と申し上げました。ご覧の通り手が離せません」
エリオット様はすでに次の素材へ視線を戻していた。まるで、それ以上この話題に割く時間がないと言わんばかりに。
カトレイア殿下の頬が、じわじわと赤く染まっていく。侍女達が顔を見合わせた。
「わ……わたくしは王女よ? この私が直々にお誘いして差し上げているというのに! 喜んで感謝しながらついて来なさいよ!」
「貴女のお姉上——女王陛下を救うために、我々は今、寝る間を惜しんで動いております」
エリオット様の声は穏やかだったが、その奥に一本の鉄芯が通っていた。
「申し訳ありませんが、そのような時間はございません」
「っ……!」
カトレイア殿下の顔が、今度は別の色に変わった。怒りと、屈辱と——そしてどこか、驚きのような何かが混ざった表情だった。きっと、彼女の誘いは断られたことがほとんどないのだろう。
「もう……誰も彼もお姉様お姉様って……! 頭に来ちゃうわ!!」
ぷんぷんと怒りを全身で表明しながら、殿下は踵を返した。侍女達がそそくさとその後に続き、扉が勢いよく閉まる。
廊下に遠ざかるドレスの裾の音を聞きながら、部屋の中の全員がしばらく沈黙した。
「な……なんなんですか、今のは……?」
「……嫌な予感がしてきた」
エリオット様がぼそりと言った。
私も何かを言おうとして——ふと、自分の胸の中に妙な感覚があることに気づいた。胸の奥がちくりと、もやもやしている。
(……な、なに? なんだろう、これ)
カトレイア殿下がエリオット様に妖しく微笑んでいた場面が、なぜかじわじわと蘇ってくる。甘く整った声であれだけ堂々と言い切って誘いに来ていた。
エリオット様は断ったけれど、もし——
「アイリス、どうかした?」
ルミエラお姉様がひょいと顔を覗き込んできた。
「ふ、普通です! なんでもないです!」
なんでもない。なんでもないはずだ。エリオット様がどんな方にお茶会を断ろうと、私には何も関係ない。それなのに、どうしてこんなにもやっとするのかが、自分でもさっぱり分からなかった。
《花の帳》に視線を戻す。ページの文字が頭に入ってこなかった。
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