第81話 火に集う蛾
会場内での行動が許可されると、それまで不満げにしていた貴族達は一斉に息を吐き、それぞれ思い思いに飲み物を手に取ったり、椅子へ腰掛けたりと緊張を解き始めた。
――そんな中、特に厳重に騎士に囲まれた一角より、一人の王族が周囲を気にしながらゆっくりと席を立った。そして彼は、明らかに挙動不審だった。
顔色は隠しきれぬほど青ざめ幾度も額の汗を袖でぬぐっては、落ち着きなく周囲へ視線を走らせている。けれどその目は周りを見ているわけではなく、ただ不安に急かされるまま闇雲に泳いでいるだけのように見えた。
まるで、取り返しのつかない失敗をしてしまった子供が、誰にも気付かれないうちにその痕跡を必死で消し去ろうとしているかのような、あまりに不慣れな挙動。
警戒しているつもりで、まるで警戒できていない。遠巻きに彼を監視している私達のことに全く気付く様子がなかった。そうして彼は、そわそわと浮ついた足取りのまま人々の輪から離れ、バルコニーの方へと歩き出した。
「まさか?」
「ああ、多分彼は……」
「そうだな、任せろ。現場を押さえる」
「私は庭園に行ってくるわ~」
私達は二手に分かれ、一休みをしている貴族達の合間を縫うようにして彼の後を追い始めた。相手はこちらに気付いていない、気付く余裕が全くないのだろう。
バルコニーに近づくにつれ、彼の足取りはまるで何かから逃げているかのようにますます早くなる。そして外へ出た途端、彼は脇目も振らず設えられた豪奢で大きな篝火の一つ――赤々と大きな炎を上げるそれに一直線に向かっていく。明かりに集う蛾のように。
手袋を嵌めた右手が、せわしなくズボンのポケットを探っている。もはや周囲を気にする余裕すら失っているのか、振り返ることもせず、ただひたすら篝火を目指して歩き続けていた。
篝火の傍に辿り着き立ち止まると、震える指でポケットからハンカチを取り出した。そして次の瞬間、邪魔者のように躊躇なく炎の中へと放り投げた。小さな布切れなど勢いある篝火の炎に触れれば、一溜りもなく燃え尽きてしまうはずだ。
しかし――ハンカチは燃えなかった。
投げ込まれたその瞬間、大きく燃え盛っていた篝火の炎がまるで嘘だったかのようにふっと消え失せ、ハンカチは行き場を失ったようにひらりと頼りなく薪の上へと舞い落ちた。そこには暗闇だけが残る。
「はっ、はあぁ!?」
彼は驚愕のあまり飛び上がり、小さく悲鳴じみた声を漏らした。アレクシスお兄様がハンカチが炎に触れる寸前、あっさりと魔法で火を消し止めてしまったのだ。
「な、何故火が消える……!」
「何をしているのですか?」
後を尾けていた私達にまったく気付かなかった彼に、エリオット様が静かに声をかけた。彼はびくりと大きく肩を跳ねさせ、恐る恐るといった様子で振り返る。
「ア、アルヴェリア……! お前らいつの間に……!」
「もう一度尋ねます。何をしているんですか? 第二王子、クラウス殿下」
今更になって己がしでかした罪の重さを思い知ったかのように、クラウス殿下の表情は痛ましくなるほど恐怖に歪んでいた。泳ぐ目は血走り、額には脂汗が浮かび、体は子刻みに震え、その姿からはおよそ王族から連想される威厳など欠片も感じられない。
「ちっ!」
彼は舌打ちをすると、燃え残った薪の上に落ちたハンカチへと手を伸ばそうとした。けれど、その手が届くよりも早くアレクシスお兄様が彼の腕を掴みそのまま軽々と捻り上げる。
「ぐあぁっ! お、お前ぇ、何をする!? ふざけるなッ!」
「先程から聞いているのはこちらだが? 何をしてる、第二王子」
お兄様がしっかりとクラウス殿下の身柄を拘束している間に、エリオット様は炎の消えた篝火へと歩み寄った。そして、手袋越しにハンカチを摘み上げ口元に薄い笑みを浮かべる。
「そんなに焦って、どうしてこのハンカチを燃やそうとしていたんだい?」
「そ、それに触るな! 返せぇッ!」
クラウス殿下が声を荒げて手を伸ばすが、お兄様に拘束され動けない。
「『鑑定』」
エリオット様の金色の瞳が、淡い魔力の光を帯びる。ハンカチの繊維一本一本を読み解くように、じっとその布地を見つめたかと思うと、やがて確信を得たようにゆっくりと頷いた。
「これは毒だね。かなり丁寧に染み込ませてある……こんなにご丁寧に染み込ませた毒塗れのハンカチを、何故お持ちだったんですか? クラウス殿下」
「な……っ!?」
ハンカチに仕込まれた毒を完全に見抜かれ、クラウス殿下の顔からはみるみるうちに血の気が引いていった。歯を食いしばり、まるで悪夢から覚めようとするかのように、何度も首を振っている。
「ぐうぅ……!」
「クラウス殿下、女王陛下暗殺の容疑で貴方を拘束する」
エリオット様の声には、一切の躊躇いも迷いもなかった。確かな重みを持って淡々と紡がれたその宣告に、クラウス殿下は喉の奥から呻き声を漏らす。
「ち、違う! 違う違う違う! 私はそんなもの知らない!」
「はぁ? 今僕達の目の前で証拠を燃やそうとしていたじゃないか」
その呟きは、あまりに浅はかな響きだった。取り乱したクラウス殿下は、もはや取り繕う余裕すら失い、縋るように夜空へと向かって声を張り上げた。
「お、おいっ! 早く助けろ!」
この騒ぎを遠巻きに眺めていた貴族達がざわめく。けれど、誰一人として彼を助けに現れる者はいない。それどころか、聞こえてくるのは軽蔑の入り混じったひそひそ話ばかりだった。
「は? は、早くしろ! どこだ、早く来い!!」
慌てるクラウス殿下は尚も叫び続けたが、当然ながら何も起こりはしなかった。
「はああぁ!?」
誰も来ない。誰も助けない。焦燥に満ちた叫びが夜へ消える。
ただ、彼のみっともない懇願だけが夜風に虚しく攫われていく。その姿は王族という肩書きに似つかわしくないほど惨めでだった。
恐らく彼は、事の重さを本当の意味で理解していなかったのだろう――浅はかな考えのまま突き進み、女王陛下が目の前で倒れようやく自分のしでかしたことに震え上がっている。そんな姿に見えてしまった。
「は、早く! 早く来い! 私をここから連れ出せぇ!!」
「呼んだかしら?」
その時不意に、澄み切った夜空の星々から鈴を転がすような澄んだ音が、返事として降ってきた。
「は?」
「へっ?」
私まで素っ頓狂な声が漏れてしまう。夜空を見上げると、満天の星を背に女神が空を舞うように飛んでいた。
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