第75話 紅の祝賀会
「……ア、アウローラ!? しっかりしろ! 誰か、誰か医師を! 早く!」
シリウスお兄様の腕の中で、陛下の意識は既に朧げになっているようだった。それでもなお、震える唇はかすかに動き、何かを紡ごうとしている。
——世界が、止まったかのようだった。
シリウスお兄様の怒号にも似た声が会場に響き渡り、それを合図にしたかのように凍りついていた時間が再び動き出す。悲鳴、怒号、椅子が倒れる音、駆け寄る近衛騎士達の足音――先ほどまでの華やかな祝宴の空気は、嘘のように吹き飛んだ。
ついさっきまで、あの御方と一緒に笑っていた。”星見の庭園”で花々を見て回りながら、子供のように目を輝かせて、一緒に庭園の花々の前で笑い合っていた。太陽のように眩しくて、見ているだけで胸が温かくなるような笑顔で。
楽しそうな女王陛下の声が、まだ耳の奥に残っている。
なのに今——そんな陛下が倒れていた。あれほど毅然として輝いていた人が、こんなにも儚く見えるなんて……思いもしなかった。
「陛下……っ」
声が掠れた、喉が上手く動かない。膝が震えて、動き方が分からなくなって、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
女王陛下の傍に駆け寄りたいのに、足が石になったみたいに動かない。胸の奥が冷たく凍りつき、頭が状況を理解することを拒んでいた。
「アウローラ!」
唖然として固まる私の目の前で、シリウスお兄様が腕の中の陛下に必死に呼びかけていた。蒼白な顔で、それでも声だけは張り上げて。
「アルヴェリア家、手を貸せ! 医務室に急ぎ連れていく! ヴァルス、近衛騎士と兵士を総動員しろ——来賓全員この場に待機させ、誰一人中央塔から外に出すな! 完全封鎖だ、一人残らず調べろ!」
「承知!」
ヴァルスさんが剣を抜く勢いで駆け出していく。
(ど、毒……!?)
その言葉が頭の中で弾けた。
そしてこの場にはきっと犯人が居る——だから、お兄様は誰も出すなと言ってるのだ。
「エリオット、お前の力を貸せ……!」
シリウスお兄様が悲哀と切迫の入り混じった表情で、エリオット様を見た。
「もちろんだよ、兄様! アイリス、行こう!」
はっとする私の手をエリオット様が引いた。私はようやく彼と一緒に駆け出した。
会場が騒然としている。先程まで音楽が流れ笑い声が満ちていた祝賀会が、みるみる恐慌の色に染まっていく。
白衣の医者が走り、鎧の音を立てた兵士が怒鳴りながら人波をかき分ける。貴族達の悲鳴と困惑の声が、重なり合って渦を巻いていた。
シリウスお兄様が陛下を大切な宝物を扱うように抱き上げ、祝賀会場の出口へと向かう。その腕の中で、陛下は意識を失ったまま、苦しそうに浅く、浅く、息をしていた。顔色は青ざめ、唇は白く、口の端からかすかに血が零れている。
(へ、陛下……!)
ついさっきまで、あの口が微笑んでいた。声を上げて楽しそうに笑っていた。それが今——こんな血の気の引いた色をしている。
私を義理の妹と呼んでくれた。貴族家を勘当され、アルヴェリア家の養女になったばかりの私を、一度も値踏みするような目で見ることなく、ただまっすぐに名前を呼んでくれた。
星見の庭園に連れてきてくれたのも、陛下だった。「花が好きな貴女に見せたかった」と、それだけの理由で。特別な場所に私を招いてくれた。
魔力花の光に目を輝かせる私を見て、陛下は声を上げて笑ってくれた。その忖度の無い笑い声がどれほど嬉しかったか。
陛下は、何かを求めていたわけじゃなかった。見返りを期待していたわけでもなかった。ただ、私と仲良くしたい——あの笑顔はそう語っていた。
(どうして……!?)
威厳があった。笑うと眩しかった。でも、シリウスお兄様を見る目は乙女になっていた。
その全部が今この瞬間、ひどく遠いものに感じられた。それでもただ祈ることしかできない自分が——ひどく無力に感じた。
◇◇◇
医務室は会場のすぐ傍に位置していた。
シリウスお兄様が陛下を大きなベッドにそっと横たえる。その動作があまりにも丁寧で、あまりにも痛ましくて、見ていられなかった。
ベッドに沈む陛下の顔は血色が嘘みたいに失われていた。呼吸が浅く不規則で胸が締め付けられる。あれほど場を支配していた存在感が、みるみる薄くなっていくようで恐ろしかった。
医者が取り乱しながら進み出ようとしたその時、エリオット様が静かに前へ出た。
「僕が診ます。これは毒だ——《錬金の神匠》で、詳しく診断できる」
シリウスお兄様がエリオット様を見て、短く頷いた。
「頼む、エリオット」
その一言にどれほどの重みが込められていたか。普段は毅然としているシリウスお兄様が、声も体もかすかに震えていた。
エリオット様の目に、静かに魔力が集い始めた。金色の瞳がほんのりと輝く。
「『鑑定』」
短い呟きとともに、その目が陛下の身体をゆっくりと走る。エリオット様の眉がかすかに寄り、それから酷く険しくなった。
「……こ、これは……」
エリオット様の顔が驚愕に歪む。
「こんな毒薬が……存在しているの? 見たことも、聞いたことも無い……!」
「エリオット……何か分かったのか?」
シリウスお兄様の声が、低く落ちた。
「……恐ろしいほど精巧に作られた、強力な毒だよ——即効性じゃない、体を少しずつ、少しずつ内側から壊していく毒だ」
「な、なんだと……!?」
エリオット様は少し言葉を迷わせた。その沈黙が事の大きさを何よりも雄弁に語っていた。
「約七日——陛下は、七日後に死に至らせられる毒に侵されている」
「……!?」
絞り出すような声だった。部屋の中の空気が凍りついた。誰も声を出せずに、息をするのを忘れていた。
「毒の名は……"レガリス・カリクス"。あまりにも最悪で凶悪な毒だ」
その名を告げた瞬間——シリウスお兄様の顔色が変わった。さっきまで必死に感情を押し留めていた表情が崩れる。目が見開かれ、唇が微かに動いて、それから呟きが漏れた。
「う、嘘だろう……アウローラは毒杯を飲まされたのか……!?」
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