第33話 追悼の白星花
お仕事という名目で城の中を自由気ままに散策していた私は、その日の夕方、侍女さんに呼ばれて書庫へ向かった。
書庫は、高窓から差し込む夕陽が金色の帯になって床へ落ち、磨き上げられた大理石に反射して、まるで静かな聖堂のように空気が澄んでいる。
その中で働く使用人たちは、今日もきびきびと書類を運び、インク瓶を替え、机を整えていた。
でも以前とは違う。
皆の表情が柔らかい。どこか肩の力が抜けていて、忙しそうなのに穏やかで生き生きしている。素材を探していた時には、この書庫には張りつめた空気が満ちていたから、この変化にほっとしてしまう。
そんな中で、中央の長机に書類の山を築き領主の仕事をこなすエリオット様だけは、ほんの少しだけ渋い顔をしていた。
優秀すぎて忘れそうになるけど、彼はまだ14歳なんだよね。
難しそうな文書を片手にため息をつき、その表情はまるで「これは僕の仕事じゃないんだけどな」と訴えているみたいで、思わず吹き出しそうになった。
「アイリス、来てくれたんだ」
私を見つけた瞬間、その渋い顔がぱあっと晴れて、いつもの優しい笑顔になった。その変化があまりにも素直で、こちらまでつられて笑ってしまう。
「はい、どうかしましたか?」
彼は机の上の書類をまとめて脇へ寄せると、少しだけ声を落とした。
「実はね……もうすぐ母様の命日なんだ」
「えっ……」
思わず背筋が伸びる。
何となく軽い頼まれごとだと思っていた私は、その一言で一気に緊張した。
「毎年、公爵家では追悼献花式を行っていてね。今年も霊廟で催す予定なんだけど、その準備を手伝ってほしいんだ」
「は、はい……!」
公爵夫人の追悼式。家族にとって、すごく大切な日だ。
そんなものに私が関わっていいのだろうかと、思わず身構えてしまう。けれど彼のお願いは、私にとって馴染み深いものだった。
「母様が生前、愛していた花があるんだ。”白星花”っていう、小さな白い花なんだけど……霊廟のある庭園にたくさん咲かせたい」
「あっ、”白星花”……!」
それは当主様の庭園に咲いていた、外国の珍しい花だ。六枚の白い花弁が星のように広がる、夜にはほのかに青白く光る、可憐で綺麗な魔力を帯びた花。
「献花用のも必要でね」
「それなら、私に任せてください!」
思わず前のめりで返事をしてしまう。お庭を整えて花を咲かせるなんて、私にとってはご褒美みたいなお仕事だ!
一気にやる気が湧いて、拳をぎゅっと握る私を見て、エリオット様がくすりと笑った。
「庭師たちにも話は通してあるから、一緒に頼むね」
「はいっ!」
私もつられて笑い返した、その瞬間だった。
「それと、当日の追悼式はアイリスも参加してね」
「はいっ!……えっ?」
勢いで返事をしてから、数秒遅れて意味が頭に届く。
……えっ?
私も参加?
追悼式って、公爵家のご家族の行事ですよね?
なんで私が?
問い返そうと口を開いた瞬間、侍女さんが慌ただしく駆け込んできて、エリオット様の耳元で何か囁いた。
彼は「あっ」と短く声を上げて立ち上がる。
「ごめんアイリス、急ぎで父様に呼ばれてしまった。行ってくる!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 今の――」
けれど彼は書類を抱えたまま侍女さんと駆け出してしまい、私の問いかけは虚しく書庫に残った。取り残された私は、ぽつんと立ち尽くすしかなかった。
◇◇◇
侍女さんに後から聞いてみると、追悼式は十日後。公爵家の一族だけではなく、城に仕える使用人も参列するらしい。
(……つまり、使用人の一人として参加ってことよね?)
それなら分かる。うん、きっとそう。
変な意味じゃない。たぶん。
少し勘ぐってしまった自分を反省しながら、私は大浴場の湯に肩まで沈めた。
ちゃぽん、と湯面が揺れ花びらが舞う。
ここは、アルヴェリア城にある大浴場――”月白浴殿”。
初めてここを案内された時、私は本気で逃げ出しかけた。
だって、お風呂じゃないのだ。宮殿だった。
白亜の大理石で造られた広大な空間には、天井を支える何本もの巨大な石柱が並び、その柱には蔦や花の彫刻が繊細に彫り込まれている。
高い丸天井には夜空を模した青いモザイクが敷き詰められ、金細工の星々が灯りを受けてきらきら瞬いていた。
床は一面、乳白色の石で磨き上げられ、裸足で歩くとひんやり心地いい。
湯気の向こうには、中央に大きな円形の湯船があり、その中心からは白い石で造られた女神像の噴水が湯を噴き上げていた。湯の筋はまるで細い滝みたいにきらめき、その水音が静かな広間に柔らかく響いている。
湯船は一つではなく、ぬるめの湯、熱めの湯、薬草湯、香花湯と幾つも分かれていて、湯面には淡い花弁が散り、壁際には湯浴み用の寝椅子が並んでいる。
そして壁際の洗い場には、金の縁取りがされた白磁の器に石鹸が並んでいた。
乳色の石鹸は蜂蜜とミルクの甘い香りがして、薄緑のものはハーブの爽やかな匂い。小瓶に入った洗髪用の香油は花と果実の香りが混ざり合い、少し振るだけでふわりと高級な香水のように匂いが立つ。
ちなみに白亜の壁を隔てた向こう側には、男性用の大浴場――”白亜浴殿”があり、エリオット様や当主様が使っているらしい。
その事実を知った時も、私は逃げそうになった。
そして更に、恐ろしいことに滞在中は自由に使っていいと言われているこの宮殿、実は公爵家の”一族専用”の大浴場だった。使用人の浴場は他にある。
それを知った時、三度目の逃亡を本当に考えた。
しかも初日には、侍女さんたちが「お体をお流しします」「洗髪をお手伝いします」と当然のように寄ってきて、私は必死で断った。
流石にそれは無理です!
そんなわけで、今は私とアネッサさんの二人だけがこの浴場を使わせてもらっている。……のだけど。今日はアネッサさんが別件で不在。
つまり今、この宮殿みたいな大浴場を平民の街娘が一人で独占している。
これ、本当にいいんですかね?
湯船に浮かぶ白い花弁が肩に触れ、石鹸の甘い香りが湯気と一緒に漂ってきて、一日の疲れが溶けていく。あまりの贅沢さに、顔の半分まで湯に沈めてふにゃふにゃしていた。
そんな時だった。
ゆっくりと宮殿の扉が開く音がしたのは。
「えっ?」
びくっと顔を上げる。
ひた、ひた、ひた、ひた。
静かな足音が、大理石の床に反響する。
湯気の向こうに、人影が見えた。
(アネッサさん……?)
その人影が湯気を抜けて輪郭を帯びた瞬間、私は目を見開いた。
腰の下まで流れる、絹糸みたいな白銀の髪。病み上がりで痩せ細っているのに、しなやかで豊満な美しい肢体。湯気に濡れた肌は陶器みのように白く、そして何よりその瞳。
赤、青、緑、黄が混ざり合う虹色の宝石のような瞳が、眠たげにゆっくり瞬いている。まるで神話から抜け出してきた、美の化身――。
「る、ルミエラ様っ!?」
声が裏返ってしまう。
すると彼女は、湯気の向こうで少し首を傾げ、穏やかに微笑んだ。
「あら、そこにいたのね」
その声に、私はぴしぃと固まった。
……この宮殿の、本当の主人が帰って来た!
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