第八十八話:見えざる脅威の正体と、土の盾
煙幕による撃退から一夜が明けた。
俺たちは、夜通し焚き続けたアイアンウィードの煙が低く垂れ込める中で、ほとんど眠れないまま朝を迎えた。喉がひりつくような刺激臭が充満する中、俺たちは畑の被害状況を確認するために歩き出した。
「……なんてこった」
トーマスさんが、膝から崩れ落ちる。
昨日まで、荒野の黒い土の上に鮮やかな緑の絨毯を広げ始めていたクローバーの畑は、見るも無残な姿に変わり果てていた。柔らかい葉はことごとく食い荒らされ、硬い茎だけが、まるで枯れ木の森のように無数に突き出している。
「ライ麦は……なんとか、半分くらいは無事か。あいつら、硬い葉っぱより柔らかい方を好んだみてえだな」
別の農夫が、少しだけ安堵したように言う。だが、俺の心は重く沈んでいた。
「……いえ、これはライ麦だけの問題じゃありません。クローバーが全滅したことは、この畑の『未来』が食いつぶされたのと同じなんです」
俺の言葉に、農夫たちが怪訝な顔をする。俺は、食い荒らされたクローバーの根を一本、引き抜いて見せた。その根には、小さな粒々がたくさん付いている。
「このクローバーの根っこには、土を元気にする特別な力があるんです。空気中の栄養(窒素)を土の中に取り込んで、後から育つ作物のためのご馳走を作ってくれる。……この荒野で、肥料なしで作物を育てるには、彼らの力が絶対に必要だったんです」
俺の説明に、トーマスさんの顔が蒼白になる。
彼らは知っていたのだ。この土地がいかに痩せているかを。クローバーという「希望」を失った今、生き残ったライ麦さえも、いずれ栄養不足で枯れてしまうかもしれない。その絶望的な未来予想図が、彼らの肩を重く押しつぶした。
「……ちくしょう……! やっと、やっと芽が出たってのに……!」
トーマスさんが、悔しそうに地面を叩く。その拳に滲む血が、俺の胸を締め付けた。
「落ち込んでいる暇はありません。……奴らは、味を覚えた。必ず、また来ます」
俺は、努めて冷静な声を出し、空を見上げた。今は不気味なほど静かな赤茶色の空。だが、あの向こう側には、俺たちの希望を食い尽くそうとする赤い悪魔たちが、確実に潜んでいる。
「……ルークス。一つ、気になることがある」
ギデオンが、いつになく険しい顔で近づいてきた。彼はずっと、畑に残されたバッタの死骸や、食い荒らされた跡を調べていたようだ。
「昨日の襲撃……。あれは、ただの野生動物の群れが、餌を求めて彷徨い着いた結果だと思うか?」
「どういうことですか?」
「奴らの動きだ。俺は剣を振るいながら奴らの動きを見ていたが……統率が取れすぎていた。まるで、訓練された軍隊のように、一糸乱れぬ動きで畑の最も柔らかい部分を的確に襲った。そして、煙を嫌がって退散する際も、蜘蛛の子を散らすように逃げるのではなく、ある一点を目指して、整然と飛び去っていった」
ギデオンの言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
統率された動き。一点を目指しての退避。それは、本能だけで動く虫の行動としては、あまりにも不自然だ。
(もし、奴らに『指揮官』がいるとしたら……?)
俺の脳裏に、『赤錆飛蝗』の鑑定結果が蘇る。『群れで移動し、通り過ぎた後には何も残らない』。数千、数万という群れを率いる、強力なリーダーが存在する可能性は極めて高い。
「……ギデオンさん。奴らが飛び去った方向は?」
「北西だ。あの切り立った赤い崖の向こう側……。『竜の顎』と呼ばれる、入り組んだ岩場の方角だ」
『竜の顎』。そこは、『蛇の舌』の中でも特に険しく、複雑な地形をした場所だ。人が近づくことさえ困難な天然の要塞。
「……偵察が必要です。奴らの巣を突き止め、その規模と、もしいるのなら『指揮官』の正体を確かめなければ。……敵を知らずして、この畑を守り抜くことはできません」
「俺が行こう」
ギデオンが、即座に答えた。その目には、騎士としての揺るぎない覚悟が宿っていた。
「危険すぎます。あそこは足場も悪いし、もし群れに囲まれたら……」
「だからこそ、だ。俺は辺境伯騎士団の騎士だ。斥候の真似事くらいはできる。それに、この中で一番足が速く、荒野での身の隠し方を知っているのは俺だ」
彼の決意は固かった。俺は、彼に無理をしないよう、そして必ず生きて戻るよう念押しし、送り出した。彼の背中が赤い砂塵の中に消えていくのを、俺は祈るような気持ちで見送った。
◇
ギデオンが命懸けの偵察に出ている間、俺たちは立ち止まっているわけにはいかなかった。次の襲撃に備え、畑の防衛を強化しなければならない。
アイアンウィードの煙幕は確かに有効だが、弱点もあった。風向きによっては効果が薄れるし、何より燃やし続ければ燃料がすぐに尽きてしまう。
(もっと効率的に、長時間、奴らを寄せ付けない方法はないか……?)
俺は、再びアイアンウィードの葉を手に取り、『識別』スキルを発動させた。
【アイアンウィード(鉄草)】
【含有成分:鉄分、タンニン、揮発性テルペン類(刺激臭の原因)、微量の油分】
(揮発性テルペン類……。これが、奴らの嫌う成分か。それに、微量だが油分も含まれている)
俺は、あるアイデアを思いついた。
この成分を抽出し、さらにそれを長時間留まらせる工夫ができれば、目に見えない強力な『防壁』を作れるのではないか?
「トーマスさん! 一番大きな鍋と、水、それから……粘土質の土を用意してください!」
「へ、へい! 粘土なら、水場の近くに少しありやすが……何をするんでさ?」
「特製の『虫除け団子』を作ります!」
俺たちは、まず刈り取ったアイアンウィードを大鍋いっぱいに詰め込み、少量の水で長時間煮込み始めた。グツグツと煮立つにつれて、目を開けていられないほどの強烈な刺激臭が立ち上る。
「うぐっ……こいつは効きそうだ……」
「鼻が曲がりそうだぜ……」
男たちが涙目になりながら鼻をつまむ。だが、これだけではすぐに蒸発してしまう。
俺は、煮詰まってどろどろになった黒い液体に、水場で採れた粘土を混ぜ合わせた。さらに、つなぎとして、わずかに残っていたひまわり油の搾りかすも加える。
それを、男たち総出で、手でこねていく。
「くっせえ! 手が真っ黒だ!」
「文句を言うな! これが俺たちの畑を守る盾になるんだ!」
出来上がったのは、ソフトボールほどの大きさの、黒くて臭い泥団子だ。俺たちはそれを数百個作り、畑の周囲に等間隔で配置していった。
粘土に練り込まれたことで、刺激臭はゆっくりと、しかし長時間にわたって放出されるはずだ。
「……これで、『見えない壁』の完成です」
風に乗って漂う刺激臭が、畑全体を包み込む。人間にとっても不快なこの臭いが、あの悪魔たちにとっての結界となることを祈るしかなかった。
◇
夕暮れ時。空が血のような赤色に染まる頃、ギデオンが戻ってきた。
その姿を見た瞬間、全員が息を呑んだ。彼の鎧は砂と泥にまみれ、所々に深い傷跡が刻まれていた。いつも冷静な彼の顔色は蒼白く、呼吸も荒い。
「……ギデオンさん!」
俺が駆け寄ると、彼は膝をつきそうになりながらも、気力で立ち続けた。そして、俺たち全員を見渡し、重く、絞り出すような声で告げた。
「……悪い知らせだ」
彼は、水筒の水で喉を湿らせると、地獄を見てきた者の目で、語り始めた。
「『竜の顎』の最深部……。切り立った崖に囲まれた谷底に、奴らの巣があった。……だが、その規模は、俺たちの想像を遥かに超えていた」
「どれくらい……いるんですか?」
「……万は、下らないだろう」
万。その数字に、その場にいた全員が凍りついた。昨日の襲撃でさえ、数百匹程度だったはずだ。それでも、あれだけの被害が出た。それが、万単位で押し寄せてきたら……。畑どころか、俺たちの命さえ危うい。
「それだけではない」
ギデオンの言葉が、さらに絶望を深める。
「巣の中心……。無数の働きバッタが運び込む食料の山の頂上に、そいつはいた。……通常の個体の十倍はあろうかという、巨大な雌だ。腹部は異様に膨れ上がり、絶え間なく新たな卵を産み落としていた」
「……女王、ですか」
「ああ。間違いない。あれが全ての元凶だ。俺が見ている間にも、数百の新たな幼虫が孵化していた。……女王がいる限り、奴らは無限に増え続ける。このままでは、遅かれ早かれ、この『蛇の舌』全域が、奴らに食い尽くされるだろう」
絶望的な沈黙が、場を支配した。
せっかく見つけた水源も、作った堆肥も、全てが無駄になる。圧倒的な数の暴力の前に、俺たちの努力はあまりにも無力だった。
何人かの農夫が、力なくその場に座り込む。トーマスさんでさえ、顔を覆って呻き声を上げた。
だが、その沈黙を破ったのは、ゴードンだった。
彼は、愛用の巨大なハンマーを、ドンッ! と地面に叩きつけた。
「……湿気た面してんじゃねえ!」
彼の怒声が、皆を弾かれたように顔を上げさせた。
「万だろうが、億だろうが、知ったことか! 俺たちは、ここを引くわけにはいかねえんだ! 逃げ帰って、またあの惨めな暮らしに戻りてえのか!? 家族に、腹いっぱいの飯を食わせてやるんじゃなかったのかよ!」
彼の言葉が、男たちの心に残っていた最後の残り火を、再び燃え上がらせる。
「……やるしか、ねえな」
ゴードンは、ニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。
「巣ごと、叩き潰すしかねえ。女王の首を取らなきゃ、俺たちの明日はねえんだよ」
それは、あまりにも無謀な賭けだった。わずか三十人の農夫と、数人の戦力で、万を超える魔物の巣に攻め込むなど、正気の沙汰ではない。
だが、他に道はなかった。座して死を待つより、戦って死ぬことを選ぶ。それが、ここに集まった男たちの覚悟だった。
俺は、全員の顔を見渡した。恐怖に震えながらも、その目には、戦う覚悟の光が宿っていた。
「……やりましょう」
俺は、静かに、しかし力強く宣言した。
「総力戦です。俺たちの持てる全ての知恵と、力を結集して……。俺たちの未来を、守り抜きましょう!」
◇
決戦は、明日。
その夜、拠点の空気は、これまでとは全く違うものになっていた。
悲壮感はない。あるのは、静かな覚悟と、仲間との絆を確かめ合う、温かい時間だった。
焚き火を囲み、男たちがそれぞれの家族の話をしていた。
「俺が死んだら、うちの息子に、この『疾風』を渡してやってくれ」
「馬鹿野郎、縁起でもねえこと言うな。必ず生きて帰って、自慢話を聞かせてやるんだよ」
ゴードンは、工房から持ってきた砥石で、男たちの武器――改造した鎌や、先端を尖らせた鉄の棒――を、黙々と研ぎ上げていた。その横で、ゲルトもまた、真剣な表情で手伝っている。
俺は、テントの隅で、ギデオンと最後の作戦会議をしていた。
「……女王は、巣の最深部にいる。周りは親衛隊のような強力な個体で守られているはずだ。正面突破は難しい」
「ええ。だから、陽動が必要です。大半の敵を引きつけている間に、精鋭部隊が別ルートから女王に接近する……」
俺の膝の上では、フェンが心配そうに俺を見上げていた。俺は、その頭を優しく撫でる。
(ごめんな。また、危険な目に遭わせちまうかもしれない)
夜が更けていく。
誰もが、これが最後の夜になるかもしれないことを知っていた。
だが、不思議と恐怖はなかった。
俺には、仲間がいる。そして、守るべきものがある。
その思いが、俺の心を強く、熱くしていた。
俺は、懐の木彫りの人形を握りしめ、赤く燃える焚き火の炎を見つめた。
明日は、この炎のように、俺たちの命を燃やし尽くす戦いになるだろう。
【読者へのメッセージ】
第八十八話、お読みいただきありがとうございました!
前回の反省を踏まえ、絶望的な状況と、それに抗う人々の姿を、より詳細に、熱く描かせていただきました。クローバーの喪失の意味、虫除け団子作りの試行錯誤、そして決戦前夜の男たちの覚悟。彼らの息遣いを感じていただけましたでしょうか。ご指摘いただいた武器の表現も修正いたしました。
「虫除け団子、臭そうだけど効きそう!」「ギデオンの報告、絶望的すぎる…」「ゴードンの喝、痺れた!」など、皆さんの感想や応援が、明日、死地へと向かう彼らの背中を押す力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
次回、いよいよ『赤錆飛蝗』の巣への総攻撃が始まります!圧倒的な数の暴力に対し、ルークスたちが用意した秘策とは?そして、巨大な女王バッタとの死闘の行方は……!?命懸けの戦いが、幕を開けます!




