第八十九話:決死の陽動と、女王の間に潜む影
運命の朝が来た。
『蛇の舌』の赤い大地を、夜明けの光が照らし出す。だが、その光は希望というよりは、これから始まる死闘を冷徹に照らすスポットライトのようだった。
「……いいか、野郎ども!」
ゴードンが、愛用の巨大なハンマーを肩に担ぎ、三十人の農夫たちの前に立った。彼らの手には、農具を改造した即席の槍や斧が握られている。その顔は恐怖で青ざめていたが、目だけは異様な輝きを放っていた。
「俺たちの役目は『囮』だ。だが、ただ死ぬために行くんじゃねえ。俺たちが一秒稼げば、それだけ未来が近づく。……後ろにいる家族のために、泥をすすってでも生き延びろ!」
「「「おう!!」」」
腹の底からの咆哮が、荒野に響いた。
彼らは知っている。自分たちがここで引けば、ようやく芽吹いた希望が食い尽くされ、家族が飢えるということを。これは、魔物退治ではない。生存競争だ。
「……行きます」
俺は、隣に立つギデオンと、足元のフェンに頷いた。
俺たち別動隊は、農夫たちが正面から敵を引きつけている隙に、側面から巣の深部へと潜入する。
「武運を」
トーマスさんが、震える手で俺の肩を叩いた。
そして、彼らは動き出した。鍋や釜を打ち鳴らし、声を張り上げながら、『竜の顎』の正面入り口へと向かっていく。
直後、大地が震えた。
ブブブブブ……! という不快な羽音が、地鳴りのように響き渡る。
岩陰から、赤い奔流が溢れ出した。数千、いや数万の『赤錆飛蝗』が、新たな餌――人間たちに向かって殺到する。
「来たぞぉぉぉ! 引きつけろ! 絶対に畑に行かせるな!」
農夫たちが散開し、赤い波を引き連れて荒野を駆ける。彼らの命懸けの鬼ごっこが始まった。
「……今だ」
ギデオンの低い声と共に、俺たちは走り出した。
目指すは、手薄になったはずの側面の岩場の裂け目。巣への裏口だ。
◇
巣の内部は、地獄のような光景だった。
壁一面にへばりつく赤茶色の粘液。鼻をつく強烈な鉄錆の臭いと、腐敗臭。そして、足元でカサカサと蠢く、無数の幼虫たち。
「……ひどいな」
俺は、口元を布で覆いながら、吐き気をこらえた。
先頭を行くフェンが、鼻をひくつかせながら、慎重に道を選んでいく。彼の鋭敏な感覚がなければ、この迷路のような巣で確実に迷っていただろう。
「……止まれ」
ギデオンが、鋭く囁いた。
前方の広い空洞に、通常の倍はある大きさのバッタが数匹、見張りのようにたむろしていた。
「……親衛隊か」
ギデオンは、音もなく剣を抜いた。
「ルークス、目を閉じていろ。……すぐ終わる」
次の瞬間、彼の姿がかき消えた。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、という風切り音が三回。
俺が目を開けた時、そこには、首と胴体を正確に両断されたバッタの死骸が転がっていた。断末魔の声を上げさせる暇すら与えない、神速の剣技。
「……すごい」
「先へ急ぐぞ。農夫たちが持たない」
彼は、血振るいすらせず、先へと進む。その背中は、辺境伯騎士団長の肩書きが伊達ではないことを物語っていた。
そして、俺たちはついにたどり着いた。
巣の最深部。巨大なドーム状の空間。
その中央に、それはいた。
「……なんて、大きさだ……」
『女王』。
その体躯は、牛一頭分ほどもあった。肥大化した腹部は脈動し、その先端から、ボトボトと絶え間なく白い卵が産み落とされている。その周りには、生まれたばかりの幼虫が群がり、共食いを始めていた。
おぞましい、生命の工場。
これが、全ての元凶だ。
「……来るぞ!」
ギデオンが叫ぶ。女王が、俺たちの侵入に気づき、耳をつんざくような金切り声を上げた。
それに呼応して、周囲の穴から、数十匹の親衛隊が現れる。
「俺が奴らを引きつける! ルークス、お前は女王を!」
ギデオンが、親衛隊の群れの中に飛び込んでいく。銀色の剣閃が舞うたびに、硬い外殻が砕け散る音が響く。だが、多勢に無勢。彼一人で全てを抑えきれるわけではない。
数匹が、俺に向かって飛んできた。
「グルルルッ!」
フェンが前に飛び出し、一匹の喉笛に食らいつく。だが、残りの奴らが迫る。
(落ち着け……! 俺の武器は、剣じゃない!)
俺は、腰の袋から、特製の『虫除け団子』を取り出した。アイアンウィードの煮汁を極限まで濃縮し、粘土で練り固めた、強烈な臭い玉だ。
俺はそれを、迫りくるバッタの顔面に全力で投げつけた。
ビチャッ!
団子が砕け、濃縮された忌避成分がバッタの触角と複眼を直撃する。バッタは苦悶し、のたうち回った。
(効く! やはり、この成分は奴らにとって猛毒に近い!)
だが、女王は無傷だ。あの巨大な図体に、団子を数個投げつけたところで、決定打にはならない。
弱点はどこだ? 硬い外殻に覆われた奴の、急所は。
俺は、必死に観察した。
前世の生物の授業の記憶を呼び覚ます。昆虫の呼吸器は、口ではない。腹部の側面にある、小さな穴だ。
『気門』。
そこから直接、空気を取り込んでいる。もし、そこを塞ぎ、さらに高濃度の忌避成分を流し込めば……!
「ギデオンさん! 女王の腹の横! 小さな穴が並んでいる場所です! そこを狙ってください!」
俺の叫びに、乱戦の中のギデオンが反応した。
「承知!」
彼は、群がる敵を蹴散らし、女王の側面へと回り込む。そして、渾身の一撃を、女王の腹部に見舞った。
ギャアアアア!
硬い外殻が砕け、緑色の体液が噴き出す。女王が苦痛に暴れ狂う。
だが、傷は浅い。分厚い脂肪が邪魔をして、致命傷にはなっていない。
「くっ……硬い!」
「退いてください!」
俺は、ギデオンが作った一瞬の隙を突き、女王の懐へと飛び込んだ。
手には、この決戦のために用意した切り札――アイアンウィードの有効成分を限界まで濃縮した『特製エキス瓶』。
女王の巨大な鎌が、俺を狙って振り下ろされる。
死の恐怖が、全身を凍らせる。
だが、俺は止まらなかった。
(ここで逃げたら、全てが終わる!)
ガギィンッ!
頭上で硬質な音が響く。ギデオンが、間一髪で女王の鎌を受け止めてくれていた。
「行けぇっ! ルークス!」
騎士団長の咆哮が、俺の背中を押す。
俺は、露出した女王の横腹、傷口が開いているその場所に、ガラス瓶をねじ込んだ!
「……食らえっ!!」
パリンッ!
瓶が砕け、高濃度のアイアンウィードエキスが、女王の体内へ、そして呼吸器系へと直接流れ込む。
次の瞬間。
女王の巨体が、激しく痙攣した。
呼吸ができず、神経を直接焼かれる苦しみ。女王は、断末魔の悲鳴を上げながら、のたうち回る。
ズズーン……!
地響きを立てて、その巨体が崩れ落ちた。
静寂が、戻った。
親衛隊のバッタたちは、女王の死を感じ取ったのか、統率を失い、混乱して散り散りになっていく。
「……やったか……」
俺は、その場にへたり込んだ。全身の力が抜けていく。
ギデオンが、肩で息をしながら近づいてきた。その鎧はボロボロだったが、彼は俺を見て、微かに笑った。
「……見事だ、ルークス。お前の『知恵』の勝利だ」
俺は、震える手で、懐の木彫りの人形を握りしめた。
勝った。俺たちは、生き残ったんだ。
だが、戦いはまだ終わっていなかった。
外ではまだ、農夫たちが命懸けで戦っているはずだ。
「……戻りましょう。みんなのもとへ!」
俺たちは、出口へと向かって走り出した。
この勝利を、そして未来を、仲間たちと分かち合うために。
【読者へのメッセージ】
第八十九話、お読みいただきありがとうございました!
騎士の武力と、少年の知恵。その二つが合わさって掴み取った、ギリギリの勝利。巨大な女王との死闘、楽しんでいただけましたでしょうか。
「ギデオン強すぎ!」「気門を狙うとは、さすが農民(?)」「フェンもナイスアシスト!」など、皆さんの感想や応援が、傷ついた彼らを癒やす力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
女王は倒れましたが、群れはまだ残っています。そして、外で戦う農夫たちの安否は?戦いの結末と、その後に訪れるものとは。次回、感動のフィナーレ(この章の)へ!どうぞお見逃しなく!




