第二百六十四話:深淵の主(アビス・ロード)の捕食。物理無効の絶望と、農民が導き出した「答え」
ズズズズズズズ……ッ!!
不快な粘着音と共に、ドームの天井の亀裂から、絶望そのものが零れ落ちてくる。
【深淵の主】。
古の時代より海底に蓄積された汚染と負の感情の集合体。
それは巨大なタコやイカのようでもあり、あるいは不定形の黒い雲のようでもあった。
実体を持たぬヘドロの触手が、美しい珊瑚の塔を薙ぎ払う。触れた端から、硬質な珊瑚がジュワジュワと音を立てて腐食し、ドロドロの汚泥へと変わっていく。
「ひぃぃっ! 逃げ場がない!」
「王宮が……飲み込まれる!」
「いやだ……体が……溶ける……!」
人魚たちがパニックになり、逃げ惑う。だが、ドーム内は閉鎖空間だ。
ヘドロの海位はじわじわと上がり、逃げ場を塞いでいく。美しい真珠の都は、今まさに黒い吐瀉物のような汚泥に沈もうとしていた。
玉座の間では、人魚王が苦悶の表情を浮かべていた。
都市の動力源である巨大真珠『深海の心臓』が、黒い触手に完全に包み込まれようとしているのだ。
光が失われていく。都市の生命維持機能が低下し、供給される酸素濃度が薄れていくのが肌でわかる。
「無駄だ……。奴は液体そのもの。斬ることも、突くこともできん……。我らの武器では、水を切るようなものだ……」
王の絶望的な言葉通りだった。
俺は『真・アダマンタイトの鍬』を振るい、迫りくる触手を迎撃した。
ズパァァァンッ!!
銀色の閃光が走り、太さ数メートルある触手が両断される。
手応えはある。だが、それは「液体を掻き回した」だけの手応えだ。
ボコッ、ボコボコッ……。
切断面が沸騰するように泡立つと、一瞬で元通りに繋がってしまった。
いや、それどころか分裂し、数を増やして襲いかかってくる。
「チッ、しつこい雑草だな! 根っこがない分、タチが悪い!」
俺は舌打ちした。
物理攻撃無効。魔法も拡散して無効化。
こちらの攻撃は暖簾に腕押しなのに、向こうの攻撃は「触れたら即腐食」という理不尽極まりない仕様だ。
俺の鍬は『永続不壊』のスキルがあるから耐えているが、普通の武器なら一撃で錆び屑になっていただろう。
現に、勇敢にも立ち向かった人魚の兵士たちの槍は、飴細工のように溶かされ、彼ら自身も毒に侵されて倒れている。
「主よ! 雷も効かんぞ! 電気が通りすぎて拡散してしまう!」
上空(水中)を駆けるフェンが叫ぶ。
彼が放つ『蒼雷』は、確かにヘドロを貫いている。だが、巨大すぎる質量を持った液体相手には、ダメージが分散してしまうのだ。
局所的に蒸発させることはできても、海そのものを蒸発させることができないのと同じ理屈だ。
『ギギギ……無駄ダ……無駄ダ……全テハ泥ニ還ル……』
脳内に直接響くような、不快な念話が聞こえてくる。
複数の人間の悲鳴と、金属が擦れる音を合成したような、精神を削る声だ。
深淵の主が、俺たちを嘲笑っている。
『我ハ形ナキ絶望……我ハ逃レラレヌ老廃……。貴様ラノ希望モ、栄華モ、全テ飲ミ込ミ、平等ニ腐ラセテヤロウ……』
ヘドロの波が、俺とフェン、そしてマリーナ王女を飲み込もうと鎌首をもたげた。
圧倒的な質量。逃げ場のない液体地獄。
それはまるで、津波そのものが意思を持って襲いかかってくるようなものだ。
「くっ……! ガリウスさん! キャンピングカーのバリア出力最大!」
俺は通信機に叫んだ。
『やっている! だが、あいつの溶解液は結界すら侵食してくるぞ! アダマンタイト装甲の表面が溶け始めている! このままでは、あと十分も持たん!』
ガリウス所長の悲鳴に近い報告。
80万ポイントの最強キャンピングカーですら、このままでは鉄屑にされる。
「お父様! しっかりしてください!」
マリーナ王女が、玉座の王に駆け寄る。
だが、王の体は半分以上が黒い痣に覆われ、呼吸も絶え絶えだ。
『深海の心臓』が完全に汚染されれば、この都市の結界は消滅し、全員が深海の水圧に押しつぶされて死ぬ。
タイムリミットは近い。
「どうする、主よ!? このままではジリ貧だぞ! いっそ、我の最大出力ブレスで都市ごと吹き飛ばすか!?」
「馬鹿野郎、それじゃ全滅だ!」
俺は鍬を構えながら、必死に思考を巡らせた。
敵は「液体」。
物理攻撃はすり抜ける。魔法は拡散する。
火で焼こうにもここは深海、水の中だ。
凍らせるか? いや、これだけの質量の汚泥を凍結させるには、絶対零度クラスの氷魔法が必要だが、フェンは雷属性、俺は土属性だ。相性が悪い。
ドロリ……。
一瞬の隙を突かれ、ヘドロの雫が俺の頬を掠めた。
ジュッ!
皮膚が焼け、激痛が走る。
毒だ。強力な酸と、呪いの複合毒。
俺の『状態異常耐性』スキルが発動して中和したが、普通の人間なら今のだけで顔が溶けていただろう。
『脆イ……脆イナァ……人間ヨ……』
深淵の主が、勝ち誇ったように膨れ上がる。
その体積は、侵入当初の倍以上に増殖していた。
周囲の海水を汚染し、取り込み、無限に巨大化していく。
このままでは、都市どころか海そのものが死ぬ。
「……万事休す、か?」
俺は奥歯を噛み締めた。
いいや、まだだ。
俺は農民だ。
農民は、天候や土壌という「理不尽」と常に戦ってきた種族だ。
日照りが続けば水路を引き、大雨が降れば排水路を掘り、害虫が湧けば農薬を撒く。
自然という圧倒的な暴力に対し、常に知恵と工夫で対抗してきた。
俺は冷静に敵(土壌)を分析した。
深呼吸をして、『鑑定』スキルをフル稼働させる。
敵のステータスを見るのではない。敵の「成分」を見るのだ。
【鑑定結果:深淵の主(本体)】
・構成物質:汚染水(90%)、負の魔力残留物(5%)、ヘドロ固形分(5%)
・特性:液体流動、無限再生、腐食性
・弱点:なし(物理無効)
「……90%が、水?」
俺の目が光った。
こいつの厄介な点は、「流動性」だ。
水分過多なヘドロだからこそ、形を変え、攻撃を受け流し、隙間から侵入してくる。
ならば。
その「水分」を奪ってしまえばいい。
水気がなくなれば、ただの乾いた土塊だ。動くことも、再生することもできない。
「水はけが悪いなら、土壌改良してやるまでだ!」
俺は戦闘中にも関わらず、バックステップで距離を取り、虚空をタップしてウィンドウを開いた。
マリーナ王女が「ルークス様!? 何を!?」と叫ぶが構わない。
俺は検索窓に文字を打ち込む。
【吸水、乾燥、固化、大量、業務用】。
園芸用品、防災用品、そして化学製品のカテゴリから、この絶望的な状況を覆す最適解を導き出す。
ヒットした。
俺の求めていた、最強の土壌改良剤……いや、災害対策兵器が。
【超吸水性ポリマー(神話級・乾燥魔石配合)業務用1トンパック】
価格:50,000pt
説明:
異世界の魔導技術と、地球の化学技術の結晶。
自重の5000倍以上の水分を一瞬で吸収し、強固なゲル状に固定する白い粉末。
配合された『乾燥魔石』の効果により、対象が魔力水であっても強制的に吸収・分離させます。
※本来は砂漠の緑化や、大洪水の緊急堰き止めに使われる国家レベルの防災用品です。
「5万ポイントか。……安いもんだ! 海一つ救えるならな!」
俺は迷わず購入ボタンを連打した。
チャリンッ! という決済音と共に、俺の頭上に巨大な亜空間ゲートが開く。
『グオォ? 何ヲスル気ダ……? 祈リデモ捧ゲルカ?』
深淵の主が、怪訝そうに動きを止める。
俺はニヤリと笑い、鍬を天に掲げた。
「祈り? 馬鹿言え。これは『施肥』だよ」
俺は通信機に向かって叫んだ。
「フェン! マリーナさん! 全員、口と鼻を塞げ! 乾燥注意報の発令だ!」
次の瞬間。
ゲートから、真っ白な粉末が滝のように、あるいは雪崩のように降り注いだ。
それはキラキラと輝きながら、黒いヘドロの海へと着水する。
ドサァァァァァァァッ!!
1トンもの白い粉が、ドーム内を白く染め上げる。
『ギギ……? 粉……? ソンナモノデ……我ヲ埋メヨウトデモ……?』
深淵の主が、嘲るように粉を取り込もうとした。
愚かな。
お前はすでに、科学という名の檻の中にいる。
粉末がヘドロに触れた、その刹那。
ズゾゾゾゾゾゾゾゾッ!!!!!
ドーム全体を揺るがすような、凄まじい「吸引音」が響き渡った。
それは、海が水を飲み干す音。
大気が悲鳴を上げるほどの、急激な体積変化の音だった。
『ギ!? ガ……ッ!? ナ、ナンダ!? 水ガ……水ガァァァァッ!?』
深淵の主の絶叫が響く。
白い粉末が、ヘドロに触れた瞬間、爆発的に膨張を開始した。
1グラムで5リットルの水を吸う神話級ポリマーだ。
それが1トン。単純計算で、5000トンの汚水を一瞬でゲル化するキャパシティを持つ。
黒い流体だった深淵の主の体が、見る見るうちに水分を奪われていく。
滑らかだった表面が、ボコボコとした粒状の塊に変わり、艶を失い、動きが鈍くなる。
体内から水分(自由)を奪われたヘドロは、透明なゼリー状のビーズの中に強制的に封じ込められ、膨れ上がり、お互いに押し合いへし合いして、身動きの取れない巨大な固形物へと変貌していく。
『ウ、動ケヌ……! 体ガ……重イ……固マル……ッ! 何ヲシタァァァッ!?』
触手が空中で静止し、カチカチに固まっていく。
玉座の間へ伸びていた魔手も、巨大真珠の手前で凍りついたように停止した。
俺は鍬を肩に担ぎ、白い粉雪の中で勝ち誇った。
「科学の力を舐めるなよ。紙おむつから砂漠の緑化まで、人類の英知は水を制するためにあるんだ」
目の前にあるのは、もはや脅威の魔物ではない。
巨大な、ただの「黒いゼリーの山」だ。
「水分が抜ければ、お前なんぞただの乾いたゴミだ。……さあ、ここからは『収穫(物理)』の時間だぞ」
俺は固まったボスを見上げ、フェンに合図を送った。
逆転の狼煙は上がった。
あとは、この巨大なゴミを粉砕して、綺麗な海を取り戻すだけだ。
【読者へのメッセージ】
第二百六十四話、いかがでしたでしょうか。
物理無効の敵に対する、農民なりの解答。
それは「吸水ポリマーによる強制ゲル化」でした。
剣や魔法で倒せないなら、成分を変質させてしまえばいい。
この発想こそが、ルークスの最大の武器です。
圧倒的な絶望から一転、敵がただの「ゼリーの山」に変わるカタルシス。
次回、いよいよ決着編!
カチカチに固まったボスを、ルークスとフェンがどう料理(粉砕)するのか?
そして、浄化された海で待つ報酬とは?
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