第百八十五話:偶像の代償、あるいは「聖域」の崩壊
王都エストリアの朝。
本来ならば、昨日三万ポイント以上を投じて構築した多層結界【静寂の防音結界・極】によって、世界で最も清浄な静寂と、雨上がりの森のような澄み切った空気に包まれているはずの宿屋『銀の蹄亭』。だが今、その「聖域」の境界線は、物理的な破壊ではなく、数千、数万の人間の「欲望」という名の質量によって、きしきしと悲鳴を上げるほどに圧迫されていた。
俺――ルークス・グルトは、窓の隙間から僅かに外の様子を覗き、その光景に激しい眩暈と吐き気を覚えた。
「……ルークス様を! 聖なる一皿を、どうか我が家の一族に一口だけでも!」
「病の母に、奇跡のリゾットを一匙でいい、分けてくれ! 金なら家を売ってでも作る!」
「商業ギルドの古狸どもを平伏させた、神の指を持つ少年よ、姿を見せてくれ! 我々に光を!」
宿の周囲を、文字通り一分の隙もなく埋め尽くしているのは、昨夜の試食会でジルヴァによって「国宝」「救世主」と祭り上げられた俺の名を呼ぶ、狂信的な群衆だ。
利権の香りを嗅ぎつけた貴族の使いから、藁にも縋る思いで奇跡を信じて押し寄せた貧民、さらには野次馬の熱狂。彼らの発する、熱に浮かされたような「期待」と「信仰」、そして「奪い取ろうとする欲」の匂いが、多層結界のフィルターすら目詰まりさせる不快なノイズとなって、俺の「気配察知」を限界まで掻き乱している。
(……最悪だ。ジルヴァの奴、暴力や暗殺ではなく、『過剰な光』を当てることで俺の隠れ蓑を焼き払い、この宿を衆人環視の『透明な檻』に変えやがった。前世で、大規模なシステム障害を起こした企業の広報担当が、殺到するクレームとメディアのフラッシュから逃れるために、物理的にサーバーの電源を引き抜きたいと願った、あの『消滅願望』そのものだ)
俺は奥歯を強く噛み締め、網膜に浮かぶシステムウィンドウを血走った目で叩いた。
一歩、描写を深める。
外から聞こえる「祈り」は、俺には「呪い」にしか聞こえない。彼らは俺という「人間」を見ているのではない。俺が提供するポイントの産物という「奇跡」を、自分たちの都合のいいように消費しようとしているだけだ。その身勝手な熱量が、俺の平穏を、一文字ずつ削り取っていく。
「……主よ。結界の外縁、もはや私の殺気すら届かぬほどに、奴らの『欲』が飽和しておるぞ。このままでは、結界の『定義』が物理的な圧迫ではなく、概念的な飽和に耐えきれず、内側から崩壊を起こす。……いっそ、私が表に出て、あの『肉の壁』を全て喰らい尽くしてやろうか? 主の平穏を邪魔する者は、私の腹に収まるのが相応しい」
影の中から現れたフェンが、かつてないほど獰猛に牙を剥き、その漆黒の毛並みが魔力の昂ぶりで逆立っている。
彼の金色の瞳は、群衆の背後、さらに高い時計塔の影に潜む、ジルヴァが放ったであろう「冷笑の視線」を正確に射抜いていた。
「待て、フェン。……ここで暴力を使えば、それこそ奴の思うツボだ。『凶悪な魔獣を操る危険な料理人』。そんなラベルを貼られれば、俺の社会的な死が確定する。……俺たちは『隠れる』。この八万ポイント、すべてを使ってでも、世界の認識から脱落してやる」
俺は迷わず、高額な隠蔽系アイテムのリストを狂ったようにスクロールする。
溜め込んだ資産を、一秒でも早く「無関心」へと変換するための、血を吐くような再投資。
【アイテム:存在感の極限希釈:15,000 pt 購入】
【アイテム:魔力波長・完全偽装エミュレータ:12,000 pt 購入】
【アイテム:自律型・高精度影武者ゴーレム(肉体・魂の定義模倣):25,000 pt 購入】
【保有ポイント:83,100 pt → 31,100 pt】
(……っ、一気に五万二千ポイントが……! 前世の数年分のボーナスが、一瞬でサーバーの対DDoS攻撃対策代に消えていくような感覚だ。……だが、これで俺自身の『定義』を王都の認識から物理的に切り離す!)
一気に削れる残高。だがその瞬間、俺の全身を、薄く、絶対零度の冷たさを持った霧のような魔力が包み込んだ。
俺の存在そのものが、世界の解像度から一段、いや数段「薄く」なる。
一文字描写を重ねる。俺の輪郭が周囲の背景に溶け込み、音も、匂いも、熱すらも「最初から存在しなかった」かのように希釈されていく。目の前にいるフェンですら、一瞬、俺を見失ったかのように金色の瞳を激しく瞬かせた。
その、定義の隙間に、一人の男が滑り込んできた。
「……ルークス。……いや、今はこう呼ぶべきなのかな。『王都の救世主殿』と」
厨房の裏口、王室専用の隠し通路を抜けて現れたのは、第四王子リアムだった。
彼の表情は、昨夜の試食会での地獄のような熱狂を目にしたせいか、かつてないほどに沈み、友を案じるがゆえの苦渋に満ちている。
「リアム様。……皮肉はやめてください。外のあの『呪いの合唱』は、貴方も知っているでしょう?」
「……知っているとも。ジルヴァの狙いは、残酷なまでに完璧だった。……ルークス、君はもう、この宿には一刻もいられない。王都の全ての派閥が、君を自分たちの陣営に引き込もうと、文字通り血眼になって、君の『定義』を奪い合おうとしているんだ」
リアムが、俺の肩を強く掴み、射抜くような強い眼差しを向けた。その瞳の奥には、友を失いたくないという純粋な恐怖が、王族としての冷徹な計算を上回って揺れている。
「君を保護する、唯一の方法がある。……私の『王室専用・特級調理師』という名目を与え、君を正式に王宮へ収容するんだ。そうすれば、私が王室の全権限をもって、この宿を取り囲む不届き者たちを力で排除し、君を情報の壁で守ってみせる。……ルークス、これは命令ではない。……君を、友として、この狂気から救いたいんだ」
王宮という名の、最も強固で、最も冷たい「保護」。
それは、リアムなりの誠実な、そして彼が持ちうる最強の救済案だった。
だが。
俺は、その差し伸べられた温かな手を、静かに、だが鋼のような意志をもって拒絶した。
「……お断りします、リアム様。……王宮という名の『美しい箱庭』に入れば、俺はもう、ただの農民ではいられない。……俺が死守したいのは、王家の庇護下にある秩序ではなく、誰も俺の顔を知らず、誰も俺に期待しない、静かな朝の台所なんです」
「……ルークス! 君は、自分の価値が、もはや一個人の手に負える範囲をとうに超えていることを理解していないのか!? 君のその一皿は、国の経済を、ひいては世界のバランスを壊しかねないんだ!」
「理解していますよ。……だから、ポイントを積んで『逃げる』んです。……王子様、貴方が守ってくれる俺ではなく、俺自身が『この世界にいないこと』に決めた俺を、信じてください」
俺は、ポイントで召喚した、俺と寸分違わぬ姿をした【影武者ゴーレム】をリアムの前に差し出した。
それは、一見すれば俺の体温、呼吸、魔力波長すら完全に模倣しているが、その中身は空っぽの、ただの「偶像」だ。
(……こいつを王宮に預け、世間の全注目をここに縛り付けておく。その間に、本物の俺は、フェンと共に、より深く、より静かな『深淵』に潜り込む。ジルヴァが光で俺を焼こうとするなら、俺はその光を偶像に押し付けて、俺自身は影の底へ沈むだけだ)
リアムは、俺の瞳の奥に宿る、前世の極限状態――デスマーチの果てに培われた「組織の理屈を全否定する、野生の生存本能」を見て、絶望に似た感嘆の溜息を漏らした。
「……君は、本当に……救いようのない、自由人だな。……分かった。この『偽物』を、私が最高の権威をもって王宮へ迎え入れよう。これ以上、君の平穏が汚されるのは、私のプライドが許さない。……だが、いつか限界が来るぞ。ジルヴァは、この程度の小細工を笑って見過ごすような甘い男ではない」
「その時までに、俺は奴の知らない『ルール』を買い叩いておきますよ。……お土産に、最高級のオムレツのレシピをこいつに持たせておきますから」
俺は、再び調理台の前に立った。
保有ポイント残高、三万一千百。
激減したリソース。しかし、俺の心は、名声という名の重苦しい汚泥を脱ぎ捨てたことで、かつてないほど透明に澄み切っていた。
宿の外では、依然として偽りの救世主を求める絶叫が響いているが。
結界の奥底、偽装によって「世界の認識から消えかかった」俺と、忠実な魔獣だけが共有するこの沈黙。
これこそが、俺が王都エストリアで手に入れるべき、最初の、そして真の「贅沢」だった。
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【読者へのメッセージ】
第百八十五話をお読みいただき、ありがとうございます!
リアム王子の「王宮への招待(保護)」を、スローライフの死として拒絶するルークスの執念。
五万ポイントを溶かして手に入れた「存在の希釈」という名の盾。
次回、影武者ゴーレムが王宮で巻き起こす、予想外の「美食騒動」!?
そして、本物のルークスが王都の地下で遭遇する、ジルヴァも知らない「秘密のマーケット」とは。
「ポイントを一気に溶かす決断が、ルークスらしくて最高!」「リアムとの友情のズレが切ない……」という方は、ぜひ評価やブックマークで応援をよろしくお願いいたします!
皆様のブクマが、ルークスの次なる「偽装パッチ」の隠蔽率を向上させます!




