第八章 自由という暴力
最初に聞こえたのは、笑い声だった。
広場にいた人々の胸から黒い文字が抜けていく。
鎖がほどけ、光へ変わり、空へ昇る。
「消えた!」
老人が両腕を上げる。
「全部、消えたぞ!」
歓声が広がった。
抱き合う者。
走り出す者。
禁止されていた言葉を何度も叫ぶ者。
祭りのようだった。
十秒だけ。
広場の端で、男の身体が炎になった。
第三区で見た患者ではない。
解除されたばかりの市民だ。
彼が両手を振ると、火の波が店へ燃え移った。
「止まらない!」
男は叫ぶ。
「誰か、戻してくれ!」
その横では、宙へ浮いた女が空へ吸い込まれていく。
少年のくしゃみで建物が凍る。
広場の噴水が逆流し、巨大な水柱となって雲を貫いた。
歓声が悲鳴へ変わる。
「全員、持ち場を決める!」
グレンの声が通る。
「ドルドは倒壊する建物を支えろ。リゼは火と水。セイラは負傷者。ミミは空間を固定。ハヤトは暴走能力を止めろ」
「いつ仲間になったの」
セイラが聞く。
「今だ」
「勝手ね」
「嫌なら別案を出せ」
「あとで出す」
彼女は負傷者のもとへ走った。
グレンは騎士団長を辞めていないと言っていた。
こういうときだけは、誰も逆らわない。
「ハヤト!」
リゼが炎の男を指す。
俺は《走ってはいけない》を使う。
「広がるな!」
火の波が止まった。
炎は動かず、男の身体だけで燃え続ける。
「熱を奪う!」
リゼが氷魔法を重ねる。
火を消さず、温度だけを下げ、人の姿へ戻した。
「次!」
空へ吸われる女へ右手を向ける。
能力は《天翔》。
禁止は《地面から三歩以上離れてはいけない》だった。
すでに消えている。
俺の手元にはない。
「ミミ!」
「分かってる」
ミミが転移し、女の腕をつかむ。
空間を折り畳み、二人で地面へ戻った。
「飛びたい?」
女は泣きながら首を振る。
「今は降りたい!」
本人の望み。
ミミが地面へ固定する短い禁止を作ろうとする。
「私がやる」
胸に残した禁則の一つを、自分から破る。
【他者へ制約を与えてはいけない】
白い鎖が女の足首へ巻きつく。
「一時間、地面から離れないで」
「ありがとう」
女は土へ両手をつき、何度も礼を言った。
禁止されて安心する人間もいる。
今、この瞬間に本人が望んだ制約だからだ。
* * *
都市の東側で、鐘楼が倒れた。
ドルドが黒獅子へ変わり、背中で受け止める。
「人をどかして!」
牙の間から叫ぶ。
グレンが瓦礫を斬り、逃げ道を作る。
市民たちは走る。
その中の一人が、速すぎる。
解除された《高速移動》。
本人は止まりたいのに、足が加速を続けている。
「走るな!」
俺の命令が届く。
男が急停止する。
身体だけが前へ投げ出される前に、ドルドの尾が受け止めた。
「優しくして」
「これでも優しくした!」
黒獅子の声が返る。
南では、同じ雷が何度も落ちていた。
術者は少女。
泣きながら両手を押さえている。
「同じ魔法を二度使うな!」
禁則を投げる。
二発目以降の雷が空で消えた。
少女の手から光が消える。
「止まった……」
「今だけだ。あとで、使い方を選ぼう」
答えを待つ余裕はない。
次の暴走へ走る。
通りの向こうから、死んだはずの人々が歩いてきた。
半透明ではない。
肉体がある。
家族を呼び、家へ帰ろうとしている。
「蘇生能力?」
リゼが追いつく。
「違う。術式がない」
俺だけが、彼らの輪郭が二重に見えた。
生きている姿。
死んでいる姿。
両方が同じ場所へ重なっている。
「俺のせいだ」
「何が」
「禁止が消えたからじゃない。俺の周りで、起こらなかったことが起きてる」
死者の一人が、娘を見つけた。
抱き合う。
娘は父親の温かさを確かめ、泣いた。
数秒後、男の身体が崩れ始める。
「待って!」
娘が叫ぶ。
俺へ手を伸ばす。
「あなたなら残せるんでしょう?」
できるかもしれない。
王城の扉を、最初からなかったことにした。
この男が死ななかった未来を選べるなら。
右手を伸ばしかける。
「ハヤト」
リゼが腕をつかむ。
「何を選ぶ気」
「この人が生きているほうを」
「その代わりに、何が消えるか分かる?」
分からない。
男が生きていれば、娘の人生も変わる。
出会った人。
選んだ仕事。
生まれた子。
今の現実と両立する保証はない。
男は自分の崩れる手を見た。
「いい」
娘を抱き直す。
「顔を見られた」
「お父さん」
「生きろ」
身体が光へ変わる。
娘の腕から消えた。
俺は何もできなかった。
しなかった、ではない。
選べなかった。
後悔する時間もない。
都市の中央から、地鳴りが響いた。
* * *
教皇エルメスは、広場から動いていなかった。
周囲の建物が崩れ、炎が上がる中で、解除装置の上へ立っている。
「止めろ!」
俺が叫ぶ。
「なぜ」
「人が死んでる」
「自由には危険が伴う」
「本人が選んだ危険じゃない」
「禁止を残すことを、彼らは選びましたか」
「だからって、勝手に消していい理由にはならない」
「選ばせれば、人は恐怖から鎖を選ぶ」
エルメスの声は静かだった。
「私の母は《夜に目を開けてはいけない》を持っていました。火事が起きたのは真夜中。目を閉じたまま、家の中で焼け死んだ」
初めて、笑みが消える。
「父は《自分より強い炎を消してはいけない》。妹は《家族より先に逃げてはいけない》。三人とも神へ従って死んだ」
「あんただけ生きた?」
「私には《家族を助けてはいけない》があった」
胸に禁止の痕跡はない。
「解除したのか」
「自分で皮膚ごと削りました」
傷も残っていない。
「遅すぎましたが」
エルメスは解除装置を見る。
「人は鎖へ慣れる。禁止があるほうが安全だと教えられ、自由を怖がる。ならば最初に鎖を消さなくては、選択は始まりません」
「消したあとの犠牲は?」
「あなたが止める」
「俺に押しつけるな」
「力があるでしょう」
「あるから使えって、神と同じだ」
エルメスが、少し悲しそうに笑った。
「違いはありませんよ」
足元の装置へ光を注ぐ。
解除の波がさらに広がった。
都市の外周で、空間が裂ける。
高レベル者の転移能力が暴走し、建物が別の場所へ重なった。
「装置を壊す!」
グレンが剣を振る。
斬撃が広場を走る。
エルメスの前で、透明な壁に止められた。
「解除装置には《破壊してはいけない》を刻みました」
「教皇が禁止を使うのか」
グレンの声へ怒りが混じる。
「自由を守るための制約です」
「都合がいいな」
俺は装置を見る。
【破壊してはいけない】
【停止してはいけない】
【解除を拒んではいけない】
複数の禁止で守られている。
所有者はエルメス。
本人が回収を望まない限り、俺には奪えない。
「別の方法がある」
リゼが装置へ魔法の糸を伸ばす。
「都市中の神律を吸い上げてる。流れを逆にすれば、解除された禁止を一時的に戻せる」
「本人の同意は?」
「都市全員へ聞く時間はない」
迷う。
戻せば暴走は止まる。
同時に、走れるようになった老人も、子供の名を呼べるようになった母親も、また縛られる。
「一括では戻さない」
俺は言った。
「止めてほしい人の声だけを集める」
「どうやって」
セイラが負傷者を連れて広場へ戻ってくる。
「教会の記録網」
彼女が答えた。
「解放の希望を都市中から集めるための魔法がある。逆に使えば、制御を望む声を集められる」
「やって」
「教皇の許可が必要」
セイラは腕輪を外した。
地面へたたきつける。
「今はいらない」
銀の腕輪が割れる。
「《救済記録網、全市接続》!」
都市中へ声が届く。
『力を止めてほしい者は、そう望んで』
最初は、何も聞こえない。
やがて一つ。
『止めて』
炎になった男。
『地面へ戻りたい』
空へ浮く女。
『子供を傷つけたくない』
巨大化した母親。
『この力を、今だけ止めて』
何百。
何千。
声が広場へ集まる。
黒い文字ではない。
本人たちが選んだ言葉。
俺の手の甲へ、紋様が広がる。
【多数の制御要請を確認】
【保有禁則と対象の意思が接続されました】
【接続禁則数が百へ到達しました】
【第三階級・百禁へ移行】
【接続禁則数が千へ到達しました】
【第四階級・千禁へ移行】
視界に、都市全体が映った。
一人ずつの位置。
暴走する能力。
止めてほしいという意思。
命令できる。
都市全体へ。
力がある。
だから使うのか。
使わなければ人が死ぬ。
それも選択だ。
「ハヤト」
リゼが俺の右手へ自分の手を重ねる。
「一人で決めないで」
グレン。
ドルド。
ミミ。
セイラ。
全員がこちらを見る。
「殺さず止める」
グレンが言う。
「怒りや意思は消さない」
ドルド。
「本人が止めてほしい力だけ」
ミミ。
「解除した事実も、戻した事実も記録する」
セイラ。
「命令は一時間。延長は、本人が選び直す」
リゼが最後に言った。
俺はうなずく。
「自由都市ノクティアへ」
右手を上げる。
何千もの声を、命令の条件へ変える。
「本人が止めてほしいと望む力で、市民を傷つけることを禁止する」
世界が震えた。
「期限は一時間」
空に巨大な文字が浮かぶ。
「その後は、本人が選び直せ!」
黒い光が都市を覆った。
炎が人へ戻る。
空を飛ぶ者が地面へ降りる。
巨大化した身体が縮む。
凍った建物が溶け、逆流していた時間が現在へそろう。
悲鳴が止まった。
静けさのあと、歓声が上がる。
「止まった!」
「助かった!」
「八幡ハヤト!」
俺の名が呼ばれる。
何千人もの声。
誰も、命令を受けたときの顔を見ていない。
身体が自分の意思へ逆らい、力を止められた瞬間。
助かったという安堵と同じだけ、恐怖があった。
俺には全員分が伝わっていた。
命令した側だから。
「これが、あなたの力です」
エルメスの声がする。
解除装置の中心は空だった。
本人は消えている。
白い転移光だけが残っていた。
装置の核も持ち去られている。
『あなたは神より優しい』
声が空から降る。
『だから、神より危険だ』
完全解除は止まった。
都市は救われた。
俺は立っていられず、膝をついた。
* * *
一時間後、命令は消えた。
再び力が暴走した者もいる。
今度は本人へ聞き、短い禁止を選んでもらった。
能力を弱める。
使える時間を決める。
訓練中だけ誰かの監督を受ける。
答えは一人ずつ違った。
都市の被害は大きい。
死者は四十三人。
怪我人は千を超えた。
セイラは、数字を隠さず広場へ掲示した。
「教会へ残るの?」
リゼが聞く。
「残る。教皇を止めるためじゃない」
セイラは治療所の名簿を閉じる。
「ここにいる人の選び直しを手伝う」
「仲間にならない?」
俺が聞く。
「旅には同行する。記録網は持ち運べるから」
「それを仲間というんじゃないか」
「監視役よ」
リゼと同じことを言った。
「監視される側が増えるな」
「必要でしょう」
否定できない。
夜、広場の片隅で一人座った。
歓声はもうない。
復旧の槌音と、死者を悼む祈りが聞こえる。
ミミが隣へ来た。
「怖かった?」
「俺が?」
「みんなを止めたとき」
「怖かった」
「力を使うのが?」
「使えると思ったことが」
都市全体が、手の中にあった。
止まれと命じれば止まる。
黙れと言えば黙る。
正しい命令だけを選べる保証はない。
「神も、最初は助けたかったのかもしれない」
「アークは?」
「名前を知ってる?」
ミミはうなずく。
「創造神アーク。兄さんが戦った神」
「助けたいと思って禁止を作って、命令に慣れたのかもしれない」
「ハヤトも同じになる?」
「分からない」
格好のいい否定はできなかった。
ミミは俺の右手を取る。
「同じになったら、止める」
「ミミが?」
「みんなで」
小さな手だった。
九十九の力を持つ手でもある。
「頼む」
空を見上げる。
存在しない星が、また一つ増えていた。
青。
赤。
今度は金色。
三つの星が、夜空へ不自然な三角形を作っている。
「新しい未来が増えた」
ミミが言う。
「いい未来?」
「分からない。でも、増えすぎてる」
ミミの胸で、残った禁止の一つが明滅した。
【八幡ハヤトへ、その正体を告げてはいけない】
「いつからある」
「最初から。誰に刻まれたかは分からない」
問いを重ねる前に、空から声が降った。
エルメスではない。
神域で聞いた声。
『八幡ハヤト』
都市中の神像が、一斉に目を閉じる。
『おまえが存在する限り、世界は終わる』
広場の中央へ、白い光が集まった。
顔のない神ではない。
一人の青年の姿を取っている。
淡い金髪。
白い服。
目だけが、星のない夜のように黒い。
「創造神アーク」
ミミが名を呼ぶ。
神は俺を見た。
初めて、目を閉じずに。
「話をしましょう」
人の声で言う。
「私が、なぜおまえを禁止したのか」




