第九章 禁止された可能性
神は、壊れた噴水の縁へ座った。
創造神と聞いて想像する姿ではない。
俺と変わらない年に見える。
白い服は土で汚れ、靴には都市を覆った灰がついていた。
「話をする前に」
アークは周囲を見る。
「この場所を直しましょう」
指を一度動かす。
時間が巻き戻った。
割れた石が浮かび、元の位置へ戻る。
焼けた家が建ち上がる。
路上の血が傷口へ吸い込まれ、怪我人の身体が治る。
広場は、解除が始まる前の姿へ戻った。
死者だけが戻らない。
「どうして」
ミミが聞く。
「できないのですか」
「しないのです」
アークは答えた。
「死を戻せば、死によって生まれた選択も戻すことになる。悲しんだ者。決意した者。代わりに生きた者。そのすべてを消す権利は、私にはありません」
「都市全体へ禁止を与える権利はあるのに?」
俺が言うと、神は目を伏せた。
「あると思っていました」
「今は?」
「分かりません。だから、おまえと話しに来ました」
怒りにくい答えだった。
神が傲慢に命じるなら、反抗すればいい。
迷いを見せられると、こちらも聞くしかなくなる。
「俺は何だ」
「人ではありません」
ミミの胸に残る禁止が、一つ消えた。
アークが許可したのか。
彼女が告げることを禁じられていた言葉と同じ。
「八幡ハヤトという人間は、地球にいた」
「その記憶は本物です」
「なら、人だろ」
「記憶を持つことと、同じ存在であることは違います」
アークが右手を開く。
掌の上へ、無数の光が浮かんだ。
一つずつが小さな世界だ。
人間と魔族が共存する世界。
死者が戻る世界。
神を必要としない文明。
レベル制度のない未来。
「この世界を作ったとき、私は無数の可能性を見ました」
光の一つを指で消す。
「選ばなかった未来は、消えるはずでした」
次々に消す。
掌には、一つの世界だけが残る。
「ですが、可能性は完全には消えない。選ばれなかったという形で、世界の外へ積もっていく」
「それが俺?」
「おまえは、一つの未来ではありません」
神の黒い目に、無数の景色が映る。
「私が捨てたすべて。生まれなかった人。起こらなかった戦争。選ばれなかった和解。存在を禁止された可能性の集合体」
視界へ、文字が浮かぶ。
【未選択未来体】
「地球の八幡ハヤトは?」
「世界の選択から外れやすい人間でした」
「仕事が続かなかったから?」
「それは性格です」
神に真顔で言われると、少し傷つく。
「彼は決められた未来へ固定されることを、本能的に拒んでいた。器として、おまえと最も近かった」
「俺は、ハヤトを乗っ取った?」
「違います。彼が世界の外へ落ちた瞬間、未選択未来と重なった。どちらが本体とも言えません。今のおまえは、八幡ハヤトであり、それ以外でもある」
「都合のいい説明ね」
リゼが俺の前へ出る。
「人ではないと言ったあとで、人でもあると言う」
「人という言葉の範囲を、私が狭く決めすぎたのでしょう」
「なら、最初から人ではないなんて言わないで」
リゼの声には怒りがある。
俺の代わりに怒っている。
「なぜ俺が禁止を回収できる」
「禁止は、私が不採用と決めた可能性です」
走らない未来。
嘘をつかない未来。
怒らない未来。
世界へ一つの行動だけを選ばせ、それ以外を捨てる。
「おまえは捨てられた側です。禁止された可能性を、自分の中へ戻せる」
「命令に変えられるのは?」
「おまえ自身が、小さな世界だからです」
俺の言葉が、自分の内側では規則になる。
力が増え、範囲が広がるほど、現実の世界まで俺の内側として扱われる。
「禁止を全部回収したら」
「世界のすべてが、おまえになります」
静かな言葉だった。
「採用されなかった未来が同時に現れ、現実は一つであることをやめる」
死んだ父が戻る。
滅びた国が現れる。
生まれなかった人が歩き出す。
最初は奇跡に見える。
だが、別の未来で同じ場所に別の家が建っていたら。
一人の人間が、異なる相手と結婚していたら。
勝った国と負けた国が、同時に存在したら。
すべては両立できない。
「おまえが禁止を回収するたび、空に星が増えたでしょう」
「あれは」
「別の世界の星です。境界が薄くなっている」
三つの星が、昼の空にも浮かんでいる。
「このままなら、どうなる」
「世界は無限に分かれ、重なり、互いを消し合います」
「いつ」
「分かりません。明日か。百年後か。次に大きな禁止を回収した瞬間か」
俺が存在するだけではない。
力を使うたび、終わりが近づく。
「解決方法は?」
「地球へ戻りなさい」
アークは立ち上がった。
「おまえが生まれた世界では、可能性を固定する神律が弱い。未選択未来は再び眠るでしょう」
「戻れば、ここは助かる?」
「おそらく」
「おそらく?」
「おまえを完全に消すことは、私にもできません」
神が俺を殺さない理由。
殺せないのではない。
消した瞬間、内側にある無数の未来が一斉に解放される。
「仲間は」
「残ります」
「エルメスは」
「私が処理します」
「禁止制度は」
「必要な修正を行います」
また神が決める。
そう言い返そうとして、言葉が止まった。
俺が残れば世界が壊れる。
反対する資格があるのか。
「時間をくれ」
「日没まで」
「短いな」
「境界が、すでに一つ裂けています」
アークが空を見る。
都市の西側に、見覚えのない塔が建っていた。
誰も作った覚えがない。
俺が夢で見た空中都市の塔だ。
現実へ入り始めている。
「日没に迎えに来ます」
神の姿が光へ変わった。
広場に、俺たちだけが残る。
* * *
正午を過ぎたころ、都市に二つ目の異常が起きた。
リゼが俺を知らなくなった。
「誰?」
治療所から出てきた彼女は、俺を見て杖を向けた。
「リゼ?」
「名前を呼ばないで」
「俺だ。ハヤト」
「知らない」
灰色の目に、本物の警戒がある。
数秒後、杖が手から落ちた。
「ハヤト?」
記憶が戻る。
リゼは額を押さえた。
「何が起きた」
「あなたと会わなかった」
「記憶?」
「無番地で自由教会に捕まった。禁止を解除されて、教会の魔法開発者になった」
彼女の頭の中には、存在しない三年間があった。
リゼは教会の制服を着ていた。
ベイルのため兵器を作った。
ドルドの村を焼く術式にも、自分の魔法が使われた。
「私がやった」
「起きなかったことだ」
「覚えてる」
手が震えている。
「私が選んだ。逃げるのに疲れて、契約書へ署名した」
俺と出会わなかった未来。
その記憶が現実へ流れ込んだ。
グレンにも起きた。
王命へ従い、俺とリゼを殺した未来。
家族は助からず、ヴォルガスの命令で最後は自害した。
ドルドは黒獅子のまま要塞を破壊し、人間の国へ攻め込んだ記憶を得た。
セイラは第三区を公表せず、弟を治療中に死なせた。
ミミだけは、最初から覚えていた。
俺が来なかった未来で、椅子に座ったまま死んだ。
「俺がいなければ、全員が不幸になったみたいに聞こえる」
俺は言った。
「そういう未来が出てるだけ」
リゼが答える。
「私が教会から一人で逃げた未来もあるかもしれない」
「グレンが王を説得した未来も?」
「それはない」
グレン本人が言った。
「即答かよ」
「ヴォルガスは説得を聞かん」
少し笑いが起きる。
すぐに消えた。
俺の周囲では、仲間の人生まで安定しない。
いま笑った記憶も、別の未来へ置き換わるかもしれない。
「日没に戻る」
俺は決めた。
「地球へ?」
ミミが聞く。
「世界が壊れる前に」
「エルメスはどうする」
「神が止める」
「神が作った禁止は?」
「修正するって言ってた」
「信じるの?」
「ほかに方法がない」
言うたび、自分の言葉が薄くなる。
「神に任せるのが嫌だから、ここまで来たんでしょう」
リゼが俺の前へ立つ。
「俺が残れば、みんなが死ぬ」
「それを一人で決めるの」
「俺の問題だ」
「私たちの世界の問題よ」
「だから――」
「地球へ帰りたい?」
答えられなかった。
帰りたいと思っているのか。
地球には家族がいる。
友人は少ないが、いないわけではない。
途中で辞めた仕事。
部屋へ置いたままの荷物。
戻れば、元の生活を続けられるかもしれない。
でも、帰る理由として最初に浮かんだのは、世界を守るためだった。
自分の意思ではない。
「分からない」
「なら、決める前に話して」
リゼは言う。
「自分が犠牲になれば丸く収まると思わないで。残される側は、勝手に決められたことになる」
カイルも、ミミへ次を託して死んだ。
神は、世界を守るため禁止を与えた。
エルメスは、自由のため強制解除した。
正しい目的が、他人へ選択を押しつける。
俺も同じことをしようとしていた。
「じゃあ、どうする」
「みんなで考える」
「日没までだぞ」
「それでも」
五人が輪になった。
答えは出なかった。
残る。
帰る。
力を封じる。
神を倒す。
どの案にも危険がある。
それでも、一人で決めるより多くの問題が見えた。
夕方、セイラの記録網へ緊急連絡が入った。
「ミミがいない」
最初に気づいたのはドルドだった。
さっきまで隣に座っていた少女が消えている。
記憶さえ、一瞬あいまいになった。
最初から四人だったような感覚。
カイルの血布を握り、ミミの名を繰り返す。
「いた。ミミはいた」
リゼも思い出す。
地面に、白い羽根が落ちていた。
自由教会の転移術。
セイラが記録網を開く。
エルメスの顔が映った。
『ミミ・アストレアを預かりました』
背後で、ミミが透明な棺へ入れられている。
胸には、解除したはずの禁止まで刻み直されていた。
『自由教会には、彼女へ与えられた神律の原簿があります。失われた禁止を復元し、九十九へ戻しました』
ミミが自分で選び、手放した鎖を。
エルメスは、本人へ聞かずに戻した。
「何をする気!」
セイラが叫ぶ。
『百個目を与えます』
アークへ対抗するには、レベル100の神律が必要だ。
かつてカイルを殺した禁止。
《神の命令に逆らってはいけない》。
『神は再び、自分の命令で勇者を殺すでしょう』
エルメスが笑う。
『その瞬間、私は神の支配を世界へ証明する』
映像が切れた。
空には、日没の赤い光。
アークとの約束の時間が近い。
「帰る?」
リゼが聞いた。
「先にミミを助ける」
迷いはなかった。
「世界が壊れるかもしれない」
「それでも、今ここで選ぶ」
神に任せない。
エルメスにも任せない。
ミミの人生を、本人へ返す。
「終わったら、また帰るか考える」
「今度は一緒に」
「ああ」
神との約束を破り、自由教会の大聖堂へ向かった。
日が沈む。
空に四つ目の星が現れる。
その光の下で、世界中の鐘が一斉に鳴った。
【レベル100の到達を確認】
神の声が告げる。
【百個目の禁止事項を与えます】




