第六章 九十九の禁止を持つ少女
廃神殿には、入口がなかった。
地図が示す場所には、灰色の岩壁だけが続いている。
苔に覆われた石像が左右へ並び、その先を森が塞いでいた。
「道を間違えた?」
ドルドが地図を逆さにする。
「合ってる」
リゼが取り返した。
「神殿を隠す封印よ」
「斬ればいいか」
グレンが剣へ手をかける。
「あなた、全部それで解決しようとするわね」
「解決できる」
「封印ごと中身が崩れたら?」
グレンは剣から手を離した。
学習はしているらしい。
俺は岩壁へ近づく。
表面に文字が見えた。
【封印扉】
【許可なき者は触れてはいけない】
【内部の者は外へ出てはいけない】
王城の浄水門と似ている。
あのときは、触れただけで格子が最初から存在しなかったことになった。
「待って」
リゼが腕をつかむ。
「また、何が起きるか分からない」
「触らないと入れない」
「先に調べる」
彼女は岩壁へ光の糸を伸ばす。
「封印は三重。神律式、空間式、記憶式。外から壊すと、神殿の場所そのものを忘れる」
「やっぱり斬るのは駄目か」
「駄目」
グレンは少し残念そうだった。
「俺が触れたあと、覚えていることをすぐ言う」
「私が記録する」
リゼが帳面を開く。
「《記録封緘》。書いた内容だけは、記憶式の外へ残す」
淡い光がページへ染み込んだ。
「ドルドとグレンは、私たちが何を言っても先に動かないで」
二人がうなずく。
俺は岩壁へ手を置いた。
冷たい石。
次に、温かい木。
二つの感触が重なる。
目の前には岩壁がある。
目の前には古い扉がある。
俺たちは入口を探していた。
俺たちは最初から入口の前にいた。
「扉がある」
口にした瞬間、景色が切り替わった。
岩壁は消え、両開きの木扉が現れる。
表面には、長い年月で薄れた女神の彫刻。
「書いた」
リゼが帳面を見せる。
【接触前:岩壁。接触後:木製の扉。ハヤトは接触前を記憶】
「今回は覚えてる?」
「ええ」
「二人は?」
ドルドが首をかしげた。
「最初から扉があったよ」
グレンもうなずく。
「封印を調べていたのではないのか」
リゼの記憶だけは残った。
記録封緘が、書く直前の記憶までページへ結びつけたらしい。
「俺が禁止を回収したわけじゃない」
保有禁則は増えていない。
右手の紋様も出なかった。
「扉があるほうを選んだ?」
リゼがつぶやく。
「何と何から」
「分からない。起きたことと、起きなかったこと?」
答えは出ない。
木扉を開く。
今度は普通に、暗い神殿の内部へ続いていた。
* * *
神殿の中では、音が死んでいた。
俺たちの足音さえ、数歩先へ届かない。
壁には無数の神像が並ぶ。
顔のない像。
神域で見たものと同じだ。
俺が前を通るたび、石の顔へまぶたが浮かんだ。
一体ずつ目を閉じる。
「気味が悪いね」
ドルドが言う。
「何が?」
リゼには見えていない。
「像が目を閉じた」
「目なんてないけど」
ドルドには見え、リゼには見えない。
グレンは神像の前で立ち止まった。
「見える。だが、目を閉じたのはハヤトを見た瞬間だけだ」
「神が俺を嫌ってる証拠が増えたな」
「嫌うより、怖がってるみたいだ」
ドルドが像をのぞき込む。
「見たくないものから、逃げてる顔だよ」
顔はないのに、彼にはそう見えるらしい。
神殿の最奥へ進む。
広い礼拝堂に、椅子が一つだけ置かれていた。
少女が座っている。
銀色の髪は床まで伸び、白い服は何年も替えていないように汚れている。手足に縄はない。
それでも、指一本動かさない。
目だけが、こちらを向いた。
俺を見た瞬間、涙があふれた。
「遅い」
細い声だった。
「ごめん」
反射で謝る。
「あなた、誰?」
「知らないで待ってたのか」
「待ってはいけないから、待ってなかった」
少女の身体へ文字が浮かぶ。
一つではない。
黒い文字が皮膚を埋め、重なり、鎖となって椅子や床や天井へ伸びている。
【立ってはいけない】
【自分から名乗ってはいけない】
【助けを求めてはいけない】
【一日に三度以上まばたきをしてはいけない】
【温かいものを食べてはいけない】
【夢を見てはいけない】
【泣いてはいけない】
【過去を話してはいけない】
【八幡ハヤトの正体を告げてはいけない】
最後の文字を見た瞬間、頭の奥に針が刺さった。
「俺の名前を知ってるのか」
少女は答えようとした。
唇が閉じる。
喉へ黒い鎖が巻きつく。
「無理に話さなくていい」
彼女の前へしゃがむ。
「名前は聞かない。俺はハヤト。こっちがリゼ、グレン、ドルド」
「知ってる」
「どうして」
「言ってはいけない」
「それも禁止?」
少女はまばたきせず、目だけでうなずいた。
涙が頬を流れ続けている。
泣いてはいけない。
禁止を破っているから、細い身体が震えていた。
「その一つを回収していい?」
「一つ?」
「全部は危ない。まず、泣くことから」
「泣いてない」
「分かった。涙が出ることを禁止されないようにする」
少女は少し考えた。
「それなら、お願い」
条件が満たされる。
《泣いてはいけない》へ触れた。
細い鎖を抜く。
少女の顔がゆがんだ。
声が漏れる。
最初は息のような音。
やがて、子供の泣き声になった。
何年分なのか分からない。
少女は椅子から動けないまま、顔を両手で覆うこともできず、声を上げて泣いた。
リゼがそばへ座る。
涙を拭こうとして、手を止めた。
「触れてもいい?」
少女がうなずく。
リゼは布で頬を拭いた。
「次は?」
俺が聞く。
「まばたき」
「立つことじゃないのか」
「目が痛い」
「それは先だな」
《一日に三度以上まばたきをしてはいけない》を回収する。
少女は何度もまばたきをした。
目を閉じ、開き、また閉じる。
そんな当たり前の動作を確かめている。
「暗い」
「目を閉じたからな」
「うん」
少し笑った。
「次は、名前」
《自分から名乗ってはいけない》を回収する。
少女は背筋を伸ばそうとした。
立つことは禁止されているので、椅子へ座ったまま。
「ミミ・アストレア」
分かっていた名前。
本人の口から聞くと、重さが違う。
「よろしく、ミミ」
「よろしく、ハヤト」
俺の名を呼んだ途端、また泣いた。
「会ったことがある?」
「ない」
「じゃあ、どうして泣く」
「分からない。あなたが来なかったことを、覚えてる」
「来なかった?」
「言うと、変になる」
ミミの視線が揺れる。
「ここで、ずっと待ってた。あなたは来なかった。私はこの椅子で死んだ」
「でも、生きてる」
「うん。だから、変」
起こらなかった出来事の記憶。
王都の扉と同じだ。
存在した過去と、存在しなかった過去。
俺が触れると、どちらかが現実になる。
「いったん、ほかの禁止を外そう」
逃げたわけではない。
今は、目の前のミミを椅子から解放するほうが先だ。
* * *
九十九の禁止を、一度に回収することはしなかった。
一つずつ聞く。
何を返してほしいか。
返ったとき、何が起きるか。
本人にも分からないものは後回しにした。
《温かいものを食べてはいけない》を外す。
リゼが小さな鍋でスープを作った。
ミミは器を両手で持ち、湯気へ顔を近づける。
「熱い」
「冷ます?」
「嫌」
ふうふうと息を吹き、少しずつ飲む。
一口ごとに笑った。
ドルドはその様子を見て泣いた。
「辛いの?」
ミミが聞く。
「違う。僕も、泣きたいときに泣く練習中」
「上手」
「ありがとう」
《眠ってはいけない》を外す。
ミミは椅子へ座ったまま、数秒で眠った。
寝息と同時に、礼拝堂の上へ巨大な月が現れた。
天井を突き抜けたのではない。
石の内側に、夜空が広がっている。
「能力が戻った」
リゼが魔力を測る。
「睡眠と月の投影が結びついてる」
ミミが寝返りを打つ。
椅子から落ちそうになり、グレンが支えた。
彼は少女を抱き上げる。
「立ってはいけない、に触れない?」
「本人が立つわけではない」
「解釈次第ね」
黒い文字は反応しなかった。
グレンは外套を丸め、床へミミを寝かせる。
大きな手つきが妙に慎重だった。
「子供の扱いに慣れてる」
「息子がいる」
「そうだった」
翌朝、ミミは十二時間眠ったあと、腹が減ったと言って起きた。
《一日に一度以上食べてはいけない》を外す。
ドルドの干し肉を三人分食べた。
「普通の少女というには、よく食べるな」
グレンが言う。
「何年も食べてない」
ミミは頬を膨らませたまま答えた。
「食事を取らなくても死なない能力があるの?」
リゼが聞く。
「《星喰み》。光を食べる」
指を上げる。
礼拝堂へ差し込んでいた朝日が細くなり、ミミの口へ吸い込まれた。
「でも、味がない」
「干し肉は?」
「しょっぱい。おいしい」
ドルドが自分の分も渡した。
解除するたび、能力も一つ戻る。
《走ってはいけない》を外すと、一歩で礼拝堂を三周した。
《高い場所へ上ってはいけない》を外すと、重力を無視して天井へ立った。
《傷を治してはいけない》を外すと、俺の右腕に残っていた黒い亀裂が消えた。
《名前を呼んではいけない》を外すと、声が空間を越え、神殿の外にいる鳥まで振り向いた。
力は、どれも強すぎた。
解除のたび、ミミの身体へ負担がかかる。
七つ目で鼻血が出た。
「今日は終わり」
俺が言う。
「まだできる」
「できることと、やることは別だ」
「でも、早く全部返してほしい」
「明日もいる」
ミミは俺を見た。
「本当?」
「本当」
「消えない?」
「消える予定はない」
「予定は変わる」
「変わったら、そのとき言う」
納得はしていない。
それでも、ミミはうなずいた。
「じゃあ、今日は寝る」
自分で毛布へ入る。
眠る自由を、さっそく使っている。
* * *
三日目、ミミは自分の足で立った。
最後まで残していた《立ってはいけない》を回収した。
細い脚が震える。
俺とリゼが左右から手を支えた。
「立つって、難しい」
「最初はな」
「ハヤトも?」
「赤ん坊のころは、たぶん」
「覚えてないの」
「普通は覚えてない」
「普通」
ミミがその言葉を繰り返す。
一歩。
二歩。
椅子から離れる。
黒い鎖が床から伸びようとして、途中で消えた。
十歩目で手を離す。
ミミは一人で立った。
「できた」
「できたな」
笑顔が広がる。
次の瞬間、礼拝堂の床へ無数の花が咲いた。
喜びへ反応した能力らしい。
石の隙間から青い花びらが伸び、壁も天井も埋めていく。
「止め方は?」
リゼが花に埋もれながら聞く。
「知らない」
「先に言って!」
「知らないことは言えない」
ミミは笑い続けた。
花をかき分け、椅子の後ろへ回る。
床に小さな箱が埋め込まれていた。
ミミが手を置く。
「兄さんのもの」
箱が開く。
中には、折れた剣の飾りと、一枚の手紙が入っていた。
【ミミへ】
【九十九をおまえへ預ける。百番目だけは受け取るな】
【俺が戻らなければ、レベルのない者を待て】
【そいつを信じろとは言わない。自分で選べ】
署名は、カイル・アストレア。
俺は袖から血のついた布を出した。
「これ、カイルが死んだときに持っていた」
ミミは受け取らない。
まず、俺へ聞いた。
「兄さんは、どうやって死んだの」
禁止が一つ浮かぶ。
【カイルの死を聞いてはいけない】
「それを外してから話す」
ミミがうなずく。
回収する。
俺は神域で見たことを、最初から話した。
百個目。
神の命令。
自分の喉へ剣を刺したこと。
最後に俺を召喚し、「レベルを上げるな」「妹を」と言い残したこと。
ミミは途中で目をそらさなかった。
泣いてはいけない、はもうない。
それでも、涙は出なかった。
「兄さんらしい」
最後に言った。
「勝てないのに、次の人へ勝手に渡す」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「悲しい?」
「悲しい」
ミミは血のついた布を受け取る。
胸へ抱いた。
「でも、兄さんが私の代わりに決めたことを、そのまま正しいとは思わない」
「何を?」
「あなたを信じるか」
灰色に近い青い目が、まっすぐ俺を見る。
「私は、まだ決めてない」
「それでいい」
カイルの手紙どおりだ。
信じろとは書いていない。
自分で選べ。
兄は最後まで、妹へ答えではなく選択を残した。
* * *
四日目の朝、神律騎士団が神殿を包囲した。
王都の騎士ではない。
白金の鎧。
兜には顔がなく、胸へ神像と同じ閉じた目が刻まれている。
「神直属の騎士だ」
グレンが入口から外を見る。
「王国の命令では動かん」
『九十九禁体を返還せよ』
神殿の外から、男女の区別がない声が響く。
『未登録存在を世界から排除せよ』
「未登録存在って、俺か」
「ほかにいる?」
リゼの質問が冷たい。
騎士は百人。
全員のレベルが五十を超えている。
禁止が多く、動きは制限されている。それでも、神の命令へ逆らえないため迷いがない。
「裏口は」
「ない」
「作る?」
ドルドが黒い爪を伸ばす。
「森ごと崩れる」
ミミが立ち上がった。
「私が行く」
「行きたい?」
俺は聞く。
「違う。私がいれば、みんなが危ない」
「それは答えじゃない」
「じゃあ、行きたくない」
声が強くなる。
「椅子へ戻りたくない。神に返されたくない」
「なら守る」
「私も戦う」
「禁止は、まだ六十以上残ってる」
「だから何」
ミミの目に、星の光が宿る。
「使えるものはある」
扉が吹き飛んだ。
神律騎士が突入する。
グレンの剣が先頭の槍を弾き、ドルドが二人を壁へ投げる。
リゼは同じ雷を何度も放ち、白金の鎧だけを焼いた。
俺は走行を止め、反復する神術を封じる。
それでも数が多い。
騎士たちは倒れても、神命に動かされて立ち上がる。
『排除せよ』
百人が同時に唱えた。
頭上へ、巨大な光剣が現れる。
狙いは俺だ。
「ハヤト!」
ミミの声。
身体が横へ飛んだ。
転移。
次の瞬間、俺は神殿の外にいた。
ミミだけが、光剣の下に残っている。
「何してる!」
「選んだ」
ミミが両手を上げる。
残る禁止の一つが、皮膚へ食い込む。
【他者の攻撃を奪ってはいけない】
それを破る。
光剣が縮み、彼女の手の中へ吸い込まれた。
細い腕に亀裂が走る。
それでも、剣は消えない。
「返す」
ミミが光剣を振った。
騎士たちの足元へ突き刺さる。
白い波が広がり、百人の神命だけを切り離した。
騎士たちが次々と膝をつく。
命令から自由になり、もう立ち上がらない。
「すごいな」
俺が駆け寄る。
ミミは笑おうとして、血を吐いた。
身体の亀裂が胸まで届いている。
「リゼ!」
治癒魔法がミミを包む。
「力が多すぎる。禁止で抑えていたものが、解除するたび一度に戻ってる」
「俺が回収する」
「全部奪えば、今度はハヤトが壊れる!」
ミミが俺の袖をつかむ。
「残して」
「苦しいだろ」
「でも、私の力」
呼吸を整え、続ける。
「使い方を覚えるまで、禁止も少し残す」
「自分で選ぶ?」
「うん」
禁止をすべて消すことが、自由ではない。
今のミミには、力を抑える鎖も必要だ。
ただし、神が勝手に決めた九十九ではない。
本人が一つずつ確かめ、残すものと外すものを選ぶ。
「分かった」
俺は手を離した。
神律騎士の一人が、兜を脱ぐ。
若い女だった。
「神命が……消えた」
自分の両手を見ている。
「なぜ私たちは、あの少女を連れ戻そうとした」
「神に聞いてくれ」
俺が答えると、女は首を振った。
「神の声が聞こえない」
代わりに、別の声が神殿へ響いた。
男の声。
柔らかく、よく通る。
『八幡ハヤト。ミミ・アストレア』
空中へ白い光が集まり、一通の手紙になる。
封には、輪を断ち切る剣。
自由教会の紋章。
『真実を知りたければ、自由都市へ来なさい』
手紙の最後に署名がある。
【教皇エルメス】
ミミが文字を見て、顔を曇らせた。
「知ってる?」
「兄さんが嫌ってた」
「理由は」
「言ってはいけない」
胸の禁止が光る。
俺へ関わるものだ。
「それも外す?」
ミミは迷い、首を振った。
「今は残す」
「どうして」
「言ったら、ハヤトがいなくなる気がする」
「俺が決める」
「分かってる。でも、まだ怖い」
正直な答えだった。
「じゃあ、待つ」
その夜、神殿の外で眠った。
夢の中に、あの空中都市が現れる。
今度は広場まで歩けた。
中央に立つ像には、俺の顔があった。
台座へ文字が刻まれている。
【この者が生まれなかったため、都市は完成した】
像へ触れた。
都市が消える。
目を覚ますと、夜明け前の空に星が一つ増えていた。
青い星の隣に、赤い星。
どちらも、この世界の星図には存在しないとリゼが言った。
ミミは二つの星を見上げる。
「一つは、私が死んだ世界」
「もう一つは?」
「あなたが生まれなかった世界」
胸の禁止が、彼女の口を閉じる。
それ以上は聞かなかった。
自由都市へ行けば、教皇エルメスが待っている。
俺と同じように禁止を消す男。
カイルが嫌った男。
答えを持っているなら会う。
信じるかどうかは、そのあと決める。




