第五章 怒れない獣人
「やあ」
獣人の男は、もう一度言った。
口元は笑っている。
涙は止まらない。
「助けてくれるとうれしいな。見てのとおり、ちょっと動けない」
身体へ巻かれた縄は、普通の麻縄に見える。
だが、グレンが剣を近づけると、表面へ白い文字が浮かんだ。
「教会の拘束具だ」
「切れる?」
「切れば対象の魔力を吸い取る」
「僕はもともと魔力が少ないからね。全部持っていかれると、たぶん死ぬ」
男は明るく言った。
その足元に、自由教会の兵士が三人倒れている。二人は気絶しているだけ。残る一人は、胸当てが大きくへこんでいた。
「こいつらを倒したのは、あなた?」
リゼが聞く。
「倒した、というか。逃げる途中で転んで、ぶつかった」
「三人とも?」
「運が悪かったんだろうね」
グレンが倒れた兵士の傷を見る。
「嘘だ。拳の跡がある」
「そうなの?」
「自分で殴ったことを覚えていないのか」
男の笑みが、一瞬だけ消えた。
「覚えてるよ」
また笑う。
「でも、殴りたかったわけじゃない。身体が勝手にね」
胸の禁止へ目を向ける。
【怒ってはいけない】
鎖は心臓だけでなく、目、口、両手へ伸びている。
怒りを感じた瞬間、感情を身体から切り離す。その代わり、押し込められた力だけが別のところから漏れ出す。
「名前は」
「ドルド・ガラン」
「俺はハヤト。こっちがリゼで、でかいのがグレン」
「お前も十分でかい」
グレンに訂正された。
ドルドは笑った。
「仲がいいね」
「会って四日くらいだ」
「それで一緒に旅を?」
「成り行きで」
俺は拘束縄へ触れた。
【禁止事項:拘束された者は力を使ってはいけない】
所有者は自由教会。
ドルドは明らかに解放を望んでいる。
「これを外す」
「できるの?」
「たぶん」
「たぶんか」
「失敗したら謝る」
「死んでたら聞けないな」
笑顔のまま返される。
俺は縄の禁止を回収した。
白い文字が消える。
グレンが剣を一閃し、縄だけを切った。
ドルドは前へ倒れた。
リゼと二人で支える。
「ありがとう」
身体は熱い。
発熱ではない。
皮膚の下に、何かが燃えている。
「村を焼いた黒い獅子を追っている」
グレンが正面から聞く。
「お前か」
「そうだと言ったら?」
「理由を聞く」
「それから?」
「必要なら捕らえる」
「殺さないんだ」
「抵抗しなければ」
ドルドはグレンを見上げた。
「正直な人だね」
「嘘をつく必要がない」
「うらやましい」
笑みが薄くなった。
「僕は村を襲っていない。でも、黒い獅子は僕だ」
* * *
ドルドの故郷は、国境から南へ半日の場所にあった。
人間の村と獣人の集落に挟まれた、小さな谷。
着いたころには、家はすべて焼けていた。
焦げた木の匂い。
崩れた石壁。
灰の上に、白い布が何枚も並んでいる。
ドルドは、入口で立ち止まった。
「僕の家だ」
笑って言う。
布の一枚をめくる。
小さな獣人の子供が眠っていた。
胸には、教会の剣の紋章が焼きついている。
「妹。ナナっていうんだ」
ドルドは笑顔のまま、妹の髪についた灰を払った。
「歌が上手だった。人前だと恥ずかしがって、夜しか歌わないんだけど」
次の布。
白髪の女。
「母さん。料理は下手だった」
次。
大柄な男。
「父さん。怒ると怖かった」
家族の遺体を一人ずつ紹介する。
声は明るい。
涙だけが、途切れず流れている。
リゼが口元を押さえ、背を向けた。
グレンは周囲の足跡を調べる。
「人間の軍靴だ。四十人以上」
「教会よ」
リゼが焼け跡から金属片を拾う。
輪を断ち切る剣が刻まれていた。
「村人へ禁止を与えてる」
遺体の胸に、黒い文字が残っている。
【逃げてはいけない】
【声を上げてはいけない】
【火を消してはいけない】
自由教会は、禁止から人を解放する組織のはずだ。
ここでは逆に、禁止を刻んで殺した。
「どうして」
俺が聞くと、ドルドは焼けた家の奥へ歩いた。
床板を外す。
地下に、石造りの部屋があった。
壁には爪の跡が何重にも残っている。
中央に、太い鎖。
「僕はここへ閉じ込められた」
「家族が殺される間?」
「見えるように、床へ穴を開けてね」
ドルドは壁へ触れた。
「教会は僕を怒らせたかった」
「怒ってはいけない、という禁止を持つあなたを?」
「だからだよ」
獣人には、感情を力へ変える能力がある。
喜びは速さへ。
悲しみは回復へ。
恐怖は感覚へ。
怒りは、破壊へ。
ドルドの黒獅子化は、獣人の中でも特に強い。だが、レベル二十で《怒ってはいけない》を刻まれてから、一度も変身できなくなった。
「教会は、禁止を無理に外した」
家族を目の前で殺し、押し込められた怒りを限界まで膨らませた。
最後に拘束を解く。
ドルドは黒獅子へ変わった。
そこから先の記憶は、途切れている。
「目を覚ましたら、人間の村が燃えていた」
「襲ったのは教会だ」
グレンが灰を指ですくう。
「火の術式は人間式。足跡もお前のものより小さい。獣人の爪跡は、村の外側にしかない」
「僕が覚えてないだけかも」
「証拠は違うと言っている」
「でも、止められなかった」
ドルドは笑う。
「怒れなかった。家族が殺されても、何も感じられなかった。解放されたら、自分を見失った。どちらにしても、僕は何も守れない」
「怒りたい?」
俺は聞いた。
ドルドの笑みが固まる。
「怖いな」
「怒るのが?」
「戻れなくなるのが」
地下室の壁にある爪跡へ手を置く。
「家族を殺した連中を見つけたら、たぶん全員殺す。関係ない人間まで、同じ匂いがするというだけで殺すかもしれない」
「なら、今は回収しない」
「できるの?」
「本人が望めば」
ドルドは長く息を吐いた。
「君は、教会とは違うんだね」
「そうありたい」
「自信はない?」
「力は同じようなものだから」
神は理由も聞かず、禁止を与える。
教会は救済を理由に、本人の拒絶を無視する。
俺も、必要なら命令を使う。
違いを決めるのは能力ではない。
使うときの選び方だ。
「教会の部隊はどこへ?」
リゼが聞く。
「国境の古い要塞」
ドルドは地上へ戻る。
「僕を回収しに来る。逃げれば、次の村を焼くと言われた」
「行くのか」
「行くよ」
「怒りを戻さないまま?」
「戻したら、もっと危ない」
俺は彼の背中を見る。
選んでいるようで、選ばされている。
自分が行かなければ誰かが死ぬ。
行けば兵器にされる。
どちらを選んでも、教会の望む結果だ。
「一緒に行く」
「ハヤト」
リゼが止める。
「罠よ」
「知ってる」
「王都を出たばかりでしょう」
「だから、今度は先に作戦を考える」
「そういう問題?」
「進歩は認めてほしい」
ドルドが小さく笑った。
今度の笑みは、ほんの少しだけ自然に見えた。
* * *
古い国境要塞は、崖の上に建っていた。
かつて人間と獣人が争った時代のものだという。
正面には鉄の門。
左右は切り立った岩壁。
塔の上へ、自由教会の旗が上がっている。
「正面から入る」
ドルドが言った。
「僕が行かないと、捕らえた人たちを殺す」
城壁の上に、獣人の男女が並ばされていた。首へ白い輪をつけられている。
「人質は三十二」
グレンが数える。
「見張りは四十。内部にもいる」
「城壁を斬る?」
「人質が落ちる」
「リゼの転移は」
「首輪が空間を固定してる。先に解除しないと無理」
俺は三人へ作戦を話した。
ドルドが正面から入る。
教会が禁止を外し、黒獅子化させる。
その瞬間にリゼが人質の首輪を解析。
俺が同じ封印を二度使えなくし、グレンが救出する。
「ドルドは?」
リゼが聞く。
「俺が禁止を回収する」
「怒りを戻すの?」
「本人が望めば」
三人でドルドを見る。
彼は要塞を見上げている。
「選べるなら」
静かな声で言う。
「怒りたい」
胸の文字が震えた。
「家族を殺されて悲しい。怖い。それだけじゃない。僕は怒ってる」
笑みが消える。
初めて見る、何も隠していない顔だった。
「この怒りまで奪われたまま生きたくない」
回収条件が満たされる。
だが、今はまだ奪わない。
「戻れなくなったら、どうする」
「殺して」
「それは断る」
「じゃあ、どうする?」
答えはまだない。
それでも約束だけは決める。
「俺が名前を呼ぶ。聞こえたら、自分で止まりたいか決めろ」
「決められなかったら?」
「そのときは、俺が止める」
「命令で?」
「ああ」
「それは嫌だな」
「俺も嫌だ」
ドルドは少し考え、右手を差し出した。
「でも、頼む」
握手を交わす。
作戦は始まった。
* * *
要塞の門が開く。
ドルドは一人で中へ入った。
俺たちは岩陰から見ている。
中庭の中央に、白い祭壇がある。
その前で待っていたのは、眼鏡をかけた痩せた男だった。
「おかえりなさい、実験体七号」
「ドルドだ」
「名前は記録に不要です」
男が祭壇へ手を置く。
「自由教会研究官、ベイル」
リゼが小声で言った。
「父と契約した男よ」
「知り合いか」
「私の魔法を兵器に分類した」
声が冷たい。
「怒ってる?」
「ええ」
「それでいい」
ベイルは中庭へ魔法陣を広げた。
「ご家族を使った刺激試験は成功でした。次は意図的な変身と制御を行います」
「村を焼いたのは?」
「人間の村ですか。ええ。あなたへ罪悪感を与えるために必要でした」
ドルドの拳が震える。
口元が勝手に笑みを作ろうとする。
彼は両手で頬を押さえ、笑いを止めた。
「家族を殺したのも」
「必要な刺激です」
黒い文字が胸へ食い込む。
怒ってはいけない。
怒りたい。
二つの力が、ドルドの身体を内側から裂こうとしている。
「ハヤト!」
ドルドが叫んだ。
俺は岩陰を出る。
教会兵がこちらへ弓を向ける。
「回収する!」
右手を伸ばす。
距離がある。
それでも、ドルドの意思が鎖をこちらまで運んだ。
《怒ってはいけない》が胸から抜ける。
要塞の空気が変わった。
ドルドの笑みが消える。
眉間にしわが寄る。
牙が伸びる。
「ふざけるな」
低い声。
地面が揺れる。
「僕の家族を、必要なんて言葉で殺すな!」
黒い炎が噴き上がった。
ドルドの身体が膨れ上がる。
服が裂け、腕が前脚へ変わり、指から巨大な爪が伸びた。黒い鬣が背中を覆い、尾が石床を打つ。
要塞の塔より大きな黒獅子。
咆哮が城壁を震わせる。
ベイルの眼鏡が割れた。
「成功だ」
恐怖より、喜びが顔に浮かんでいる。
「制御輪を起動!」
教会兵が杖を掲げる。
黒獅子の首へ、白い輪が現れた。
「リゼ!」
「解析済み!」
彼女が同じ構造を持つ人質の首輪へ魔法を撃つ。
「《封環反転》!」
三十二の首輪が一斉に点滅した。
俺は《同じ魔法を二度使ってはいけない》を重ねる。
「同じ封印を、二度使うな!」
首輪が砕ける。
人質の身体が自由になる。
グレンの斬撃が城壁の内側だけを切り、石の坂を作った。
「下りろ!」
人々が城壁から避難する。
教会兵が追おうとする。
「走るな!」
十人の足を止める。
残りへリゼの氷が降る。
戦いは、こちらの作戦どおり進んだ。
黒獅子だけを除いて。
ドルドの爪が中庭を横切る。
教会兵も、祭壇も、石壁もまとめて吹き飛んだ。
ベイルは防壁でかろうじて生きている。
「制御不能! 再拘束しろ!」
残った兵が白い輪を放つ。
黒獅子は口を開き、黒炎を吐いた。
輪が溶ける。
炎はそのまま城壁へ当たり、石を赤く焼いた。
避難中の獣人たちがいる。
「ドルド!」
俺は叫ぶ。
黒獅子の耳が動く。
一瞬、炎が弱まった。
「止まりたいか!」
金色の目がこちらを向く。
怒り。
悲しみ。
恐怖。
すべてが混ざり、人の言葉を押し流している。
巨大な前脚が俺へ振り下ろされた。
グレンが間へ入る。
剣で爪を受ける。
地面がへこみ、グレンの膝が沈んだ。
「長くは持たん!」
リゼが風でドルドの顔をそらす。
「禁止を戻して!」
「同じものを返したら、また怒れなくなる」
「今は生き残るほうが先!」
正しい。
ドルド一人の怒りを尊重して、三十二人を巻き込むわけにはいかない。
俺は《怒ってはいけない》を手の中から引き出す。
黒い文字が命令へ変わろうとする。
怒るな。
それでは、神と同じだ。
怒りそのものを悪として封じる。
必要なのは、感情を消す命令ではない。
「ドルド!」
もう一度、名前を呼ぶ。
「怒ったままでいい!」
黒獅子が吠える。
「でも、自分を見失いたいか!」
前脚が止まった。
ほんのわずかに。
握手したときの言葉を思い出す。
戻れなくなったら、止めてほしい。
本人の同意はある。
期限は、この暴走が終わるまで。
対象は、怒りではなく行動。
「ドルド・ガランへ命じる」
手の中の禁則を組み替える。
世界が抵抗する。
回収した言葉と違う。
俺が新しい禁止を作ろうとしている。
右腕へ黒い亀裂が走る。
「怒りも、悲しみも、全部お前のものだ」
亀裂が肩へ届く。
「だから、それを持ったまま――」
ドルドの金色の目へ、人の光が戻る。
「自分を見失うことを禁止する!」
命令が届いた。
黒獅子の胸へ、新しい文字が刻まれる。
【自分を見失ってはいけない】
教会が与えたものではない。
神が決めたものでもない。
ドルドが望み、俺が期限付きで形にした禁止。
黒い炎が静まる。
振り下ろされかけた爪が、ゆっくり地面へ下りた。
「ハ……ヤト」
獅子の口から、かすれた声が出る。
「戻ったか」
「怒ってる」
「見れば分かる」
「まだ、怒ってる」
「それでいい」
ドルドはベイルへ向き直った。
研究官は地面をはって逃げようとしている。
黒獅子の爪が、その前へ落ちた。
「ひっ」
「殺したい」
ドルドが言う。
ベイルの顔から血の気が引く。
「でも、殺さない」
「な、なぜ」
「僕が決めたからだ」
前脚でベイルを押さえる。
「お前には、自分がしたことを全部話してもらう」
グレンが縄を持ってくる。
今度は、禁止のない普通の縄だった。
* * *
黒獅子化が解けるまで、二時間かかった。
ドルドが人の姿へ戻った瞬間、期限付きの禁止も消えた。
胸に傷は残っていない。
「気分は?」
俺が聞くと、ドルドは空を見た。
「腹が減った」
「感情の話」
「怒ってる。悲しい。疲れた。それから、少しだけ安心した」
「笑わないんだな」
「笑いたいときに笑うよ」
その答えに、俺も安心した。
救出した獣人たちは、ベイルと生き残った教会兵を連れ、近くの連邦領へ向かう。村の虐殺と実験の証人として裁くという。
ドルドは、焼けた故郷へ戻ることにした。
「家族を埋葬する」
「一人で?」
「手伝ってくれる?」
「もちろん」
四人で谷へ戻った。
墓を掘る。
グレンが土を運び、リゼが石を整え、俺とドルドで遺体を一人ずつ葬った。
最後に妹のナナを墓へ下ろすとき、ドルドは泣いた。
笑わなかった。
声を上げ、地面をたたき、家族の名を何度も呼んだ。
誰も止めなかった。
夜になり、四つの墓の前で火を囲む。
「これからどうする」
グレンが聞いた。
「教会を追う」
ドルドが答える。
「復讐か」
「それもある。でも、僕みたいな実験体がほかにもいる」
ベイルの記録には、実験体七号とあった。
少なくとも六人が先にいた。
「なら、目的地は同じだ」
リゼが地図を広げる。
「教会の記録に《九十九禁体》という言葉があった。廃神殿へ移送したと」
「九十九の禁止?」
「人間なら、レベル九十九に近い」
グレンの表情が険しくなる。
「王より上だ」
「名前もあった」
リゼが記録の写しを見せる。
【ミミ・アストレア】
勇者カイルと同じ姓。
「妹を」
神域で、カイルが言い残した言葉がよみがえる。
「この子だ」
俺は立ち上がった。
「カイルが助けろと言ったのは、たぶんこの子だ」
「廃神殿までは?」
「北東へ二日」
リゼが答える。
ドルドも立つ。
「僕も行く」
「墓はいいのか」
「家族なら、行けって言う」
少し間を置き、続けた。
「たぶんね。違ったら、帰ってきて叱られる」
「死者の言葉を勝手に決めるな」
俺が言うと、ドルドは目を丸くした。
それから笑った。
「君、変なところで厳しいね」
「よく言われる」
翌朝、四人で谷を出た。
空には、昨日までなかった星が一つ残っていた。
夜が明けても消えない、青い星。
俺以外の三人は、誰も不思議に思っていなかった。




