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異世界ではレベルが上がるほど禁止事項が増えるらしいが、俺だけ禁止を奪うたびに最強になる  作者: 藤崎聖子


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第一章 レベル0の異世界人

落下が始まってから、どれくらいたったのか。


 五秒かもしれない。五分かもしれない。


 死ぬ直前には時間が遅く感じるという話を聞いたことがある。もし本当なら、俺はいま、ずいぶん質の悪い走馬灯を見ている。


 知らない森。


 知らない城。


 知らない文字。


 最後のものだけは、なぜか読めた。


【レベル:0】


 目の前に張りついた表示は、落下してもぶれない。


「レベルって、あれか。上げたら駄目なやつか」


 血まみれの男が、命と引き換えに残した言葉だ。


 守るかどうか考える時間くらいほしかった。


 地面が近づく。


 いや、地面ではない。


 森の中に建つ、円形の石造りの建物。その天井に開いた穴へ、俺の身体は吸い込まれていく。


「入口は普通、横だろ!」


 叫んだ直後、青白い膜へ突っ込んだ。


 水へ落ちたような抵抗が全身を包む。速度が一気に落ちた。上下がひっくり返り、俺は背中から石の台へ落ちた。


 痛い。


 だが、生きている。


「召喚陣が起動したぞ!」


「勇者様だ!」


「神託どおり、本当に代わりが来た!」


 周囲から歓声が上がった。


 身体を起こすと、白い法衣を着た人々が石台を囲んでいた。二十人ほどいる。全員、俺を見て目を輝かせていた。


 正直、悪い気はしない。


 地球でこれほど期待された記憶はなかった。


「ここは?」


 俺が聞くと、歓声がさらに大きくなる。


「言葉が通じる!」


「成功だ!」


「静粛に!」


 ひときわ豪華な法衣を着た老人が前へ出た。


 銀色の杖を持ち、首から青い宝石をいくつも下げている。歩くたびに宝石が鳴った。


「異界より参られし勇者よ。よくぞアルディア王国の呼びかけに応えてくださった」


「呼ばれて落ちたのは間違いないですけど、応えた覚えはないですね」


 老人の笑みが少し固まった。


「混乱されているのでしょう。無理もありません。まずは、あなた様の尊きお力を拝見いたします」


「その前に聞きたいことがあります。カイル・アストレアって男を知っていますか」


 場の空気が変わった。


 歓声が消える。


 何人かが顔を見合わせ、老人だけが笑みを保った。


「存じませんな」


 短い答えだった。


 嘘かどうかは分からない。


 ただ、聞いてはいけない名前だったことは分かった。


「では、鑑定を」


 老人が杖を振る。


 俺を囲んでいた者たちが一斉に動き、石台の前へ大きな水晶を運んできた。人の頭ほどある透明な球だ。内部で青い光が煙のように渦巻いている。


「こちらへ手を」


「触っても爆発しません?」


「神の賜物ですぞ」


「質問の答えになってないな」


 とはいえ、拒んでも話は進みそうにない。


 俺は水晶へ右手を置いた。


 冷たい。


 次の瞬間、水晶の内部で青い光が弾けた。


 空中へ文字が並ぶ。


【名前:八幡ハヤト】


【種族:人間】


【職業:未登録】


【レベル:0】


【適性:――】


【禁止事項:なし】


 沈黙が落ちた。


 さっきまで勇者様と叫んでいた男が、口を半開きにしている。


 老人は笑みを消し、水晶を横から叩いた。


「故障だ。もう一度」


「たたいて直すんですね、神の賜物」


「手を離すな!」


 老人の声に余裕がなくなっていた。


 水晶へ再び光が集まる。


【名前:八幡ハヤト】


【レベル:0】


「あり得ん」


「普通はいくつなんです?」


「黙れ!」


 今度は怒鳴られた。


 老人は自分の手を水晶へ重ねた。青い光が彼の指へ流れ込み、空中の表示が揺れる。


【鑑定者:召喚院長バルゲン】


【レベル:――】


【職業:――】


【能力:――】


【禁止事項:――】


 すべての文字が消えた。


 水晶だけではない。


 老人の首に下がっていた青い宝石も、部屋の壁を走っていた光も、一斉に消える。


「わ、私のレベルが……」


 バルゲンが自分の胸をかきむしった。


 法衣の下から、小さな金属板を引っ張り出す。そこにも何も表示されていない。


「消えた!」


「鑑定を止めろ!」


「神律汚染だ! そいつから離れろ!」


 人々が石台から後ずさった。


 期待が恐怖へ変わるまで、十秒もかからなかった。


 俺が水晶から手を離すと、壁の光が戻った。バルゲンの金属板にも文字が浮かび、彼はその場へへたり込んだ。


「戻った……」


「よかったですね」


「よくない!」


 杖の先を向けられた。


 周りの者も同じように杖を構える。


 さっきまでは歓迎の輪だった。いまは包囲だ。


「こいつは勇者ではない」


 バルゲンが唾を飛ばす。


「レベル0だ。能力も適性もない。召喚陣へ異物が混ざったのだ」


「ずいぶん扱いが変わりましたね」


「神律を消す異物など、王宮へ入れられるものか」


「俺を呼んだのは、そっちじゃないんですか」


 聞くと、バルゲンは答えなかった。


 代わりに、後ろの若い召喚士へ命じた。


「記録には召喚失敗と書け。異物は城壁外へ捨てろ」


「ですが、院長。異界人であることは――」


「レベル0に何ができる!」


 その言葉には聞き覚えがあった。


 神や権力者から、そう問われたときの返事を、血まみれの男から教わったわけではない。


 たぶん、俺は前から同じ答えを持っていた。


「何ができるか決めるのは、レベルじゃないだろ」


 バルゲンの顔が赤くなる。


「連れ出せ!」


    * * *


 異世界へ来て最初にもらったものは、水袋と銅貨一枚だった。


 最初に失ったものは、靴だ。


「召喚陣を汚した処分代だ」


 施設の裏門で、兵士は俺のスニーカーを脱がせた。


 珍しい素材だから売れるらしい。抵抗しようと思えばできたが、槍を持つ兵士が四人。こちらは靴を失いたての無職だ。


 勝てる材料が一つもない。


「異界の品はすべて置いていけ」


 リュックの中身も調べられた。


 財布、鍵、イヤホン、モバイルバッテリー。スマートフォンは落下中になくしたらしい。倉庫の制服は金にならないと投げ返された。


 血のついた布だけは、袖の内側へ隠した。


 カイルという男が実在した証拠だ。俺をここへ呼んだ理由へつながるかもしれない。


「二度と城門へ近づくな」


 背中を蹴られ、土の道へ放り出された。


 振り返る。


 森の中に、円形の召喚施設が建っている。その奥には高い城壁が伸び、さらに向こうへ白い城の尖塔が見えた。


 質問は山ほどある。


 答えを持っていそうな連中からは追い出された。


「異世界に来ても、初日で辞めることになるとはな」


 自分から辞めたわけではないが、細かいことはいい。


 裸足で道を歩き出す。


 土は冷たく、小石は痛い。森から何のものか分からない鳴き声が聞こえる。支給された水袋には半分しか水が入っていない。


 条件は最悪だった。


 それでも、不思議と絶望はしていなかった。


 少なくとも、次にどこへ行くかは俺が決められる。


 一本道だったけれど。


    * * *


 城壁に沿って一時間ほど歩くと、街が見えてきた。


 正確には、街の外側にくっついた集落だ。


 木材、布、錆びた金属板。使えるものを寄せ集めた家々が、城壁の影へ密集している。門も看板もない。道と道の隙間へ、人が住みついたような場所だった。


 裸足の俺を見ても、誰も驚かなかった。


 腕のない老人。背中に鱗のある女。俺より幼いのに、大きな荷車を引く子供。首から金属板を下げていない者が多い。


 召喚施設の連中とは、服も目つきも違う。


「兄ちゃん、新入り?」


 声をかけてきたのは、十歳くらいの少年だった。


 髪はぼさぼさで、右の頬に泥がついている。


「たぶん」


「たぶんって何だよ」


「新入りの手続きがあるなら、まだしてない」


「そんなものないよ。ここ、無番地だから」


「無番地?」


「王様の地図にない場所。だから税金もない」


「いいところじゃないか」


「兵隊も来ないけどな」


 少年がにやりと笑った。


「水、売ってやろうか」


「持ってる」


「靴は?」


「ほしい」


「銅貨三枚」


 俺は支給された一枚を見せた。


「片方だけなら売れる?」


「無理」


「世知辛いな」


 話している間に、手の中の銅貨が消えていた。


 少年はもう走り出している。


「おい」


 呼ぶと、一度だけ振り返った。


「勉強代!」


 細い路地へ飛び込み、見えなくなる。


 追いかけようとしてやめた。


 土地勘のない裸足の男が、あの動きに追いつけるとは思えない。それに、腹が減っているのは向こうも同じだろう。


 問題は、俺の全財産も同じだったことだ。


「どうしたものか」


 胃が答えるように鳴った。


 香ばしい匂いが流れてくる。


 道の先に、屋台のような店があった。大鍋から湯気が上がり、肉と豆を煮たものが盛られている。


 金はない。


 働くしかない。


「すみません」


 鍋をかき混ぜていた大柄な女へ声をかける。


「金はないんですけど、皿洗いか何かで一食もらえませんか」


 女は俺を頭から足まで見た。


「レベルは」


「0」


「何ができる」


「皿洗いなら、たぶん」


「たぶんかい」


「初めて見る形の皿なので」


 木を削っただけに見えるが、油断はしない。


 女は鼻で笑い、店の裏を親指で示した。


「割ったら飯抜きだよ」


「助かります」


 こうして俺は、異世界へ来てから二時間で最初のアルバイトを得た。


 自己最短記録だった。


    * * *


 皿は普通の皿だった。


 井戸水は冷たかったが、二十枚ほど洗うと、女主人は約束どおり煮込みを出してくれた。


 肉が硬い。豆は少し焦げている。


 それでも、今日食べたものの中では間違いなく一番うまい。


「見ない顔」


 正面から声がした。


 顔を上げると、少女が座っていた。


 俺と同じくらいの年か、少し下だろう。赤茶色の髪を肩で切り、灰色の外套を羽織っている。机の上には分厚い帳面が三冊。そのうち一冊を開き、何かを書き込んでいた。


「今日来た」


「どこから」


「上」


「北?」


「空」


 少女は帳面から目を上げた。


「頭を打った?」


「背中から落ちたから、頭はたぶん」


「なら元からね」


「初対面に厳しいな」


 彼女は返事をせず、指先を立てた。


 小さな青い火がともる。


「《水滴加熱・第三式》」


 机の上のカップから湯気が上がった。


 少女は火を消すと、すぐ帳面へ何かを書き、今唱えた術名へ横線を引いた。


「いまの、もう使わないのか」


「使わないんじゃない。使えない」


「一回きり?」


「そう」


「不便だな」


 少女の鉛筆が止まった。


「魔法を使えない人に言われたくない」


「俺が使えないって、どうして分かる」


「金属板がない。靴もない。ここへ来たばかり。王国で登録を断られたレベル0」


 迷いのない推理だった。


「最後はどうして?」


「さっき、あなたが自分で言っていた」


「聞いてたのか」


「聞こえたの」


 少女は帳面を閉じた。


 表紙に、小さな字で名前が書かれている。


 リゼ・アルカディア。


「私はリゼ」


「ハヤト」


「ハヤト。ここではレベルを自慢しても食べ物は出ない。0でも皿を洗えば食べられる」


「気に入ったよ、この街」


「街じゃない。無番地」


 訂正したリゼの声は、少しだけ柔らかかった。


 そのとき、遠くで鐘が鳴った。


 一度。


 二度。


 三度目は途中で途切れた。


 店の客たちが一斉に立ち上がる。


 女主人が鍋の火を消し、店の裏から板を運んできた。


「何の鐘だ」


「魔物」


 リゼが帳面を外套へしまう。


「三回なら小型。でも、近い」


 地面がかすかに揺れた。


 路地の奥から、さっきの少年が走ってくる。俺の銅貨を盗んだ子だ。顔から笑いが消えている。


「角兎だ! 東の柵が破られた!」


 少年の後ろで、粗末な木柵が弾け飛んだ。


 茶色い塊が路地へ飛び込んでくる。


 兎と呼ぶには大きすぎた。中型犬ほどの身体に、額からねじれた角が伸びている。後ろ脚は太く、地面を蹴るたび石が飛んだ。


 一匹ではない。


 十。


 二十。


 その奥から、さらに土煙が上がっている。


 住民たちは慣れた様子で戸を閉め、板を打ちつけた。逃げ遅れた子供を大人が抱える。


「兵士は?」


 聞くと、女主人が吐き捨てた。


「ここは王様の地図にないんだろ」


 税金もない。


 兵隊も来ない。


 少年の言葉を思い出す。


「リゼ、魔法は」


「使う。でも、数が多い」


 彼女は両手を広げた。


 指の間へ赤い線が走り、複雑な紋様を描く。


「《散火槍・改二十三式》」


 炎の槍が五本生まれた。


 飛来した角兎の前へ突き刺さる。地面で火柱が上がり、先頭の群れが左右へ散った。


 倒したわけではない。


 進路を変えただけだ。


 リゼはすぐ帳面を開き、術名を記して横線を引く。


「戦ってる最中にも書くのか」


「忘れたら、次に同じものを作る」


「作ると?」


「禁止に触れて、魔力が逆流する。腕くらいなら吹き飛ぶ」


 ずいぶん厄介な一回きりだ。


 次の群れが来る。


「《地隆壁・薄型》!」


 路地から土壁がせり上がった。


 角兎がぶつかる。壁に亀裂が走る。


 リゼはまた書く。


 このままでは魔法を考える速度が、敵の数に追いつかない。


「裏へ逃げて」


 リゼが言った。


「あなたは何もできない」


 事実だ。


 魔法は使えない。


 武器もない。


 レベルは0。


 だから何をするかまで、彼女に決めてもらう理由にはならない。


「囮くらいはできる」


「死ぬだけ」


「逃げても、誰かが死ぬんだろ」


「あなたには関係ない」


「関係ないかどうかは、俺が決める」


 返事を待たず、路地へ出た。


 足元に落ちていた木板を拾い、壁へ打ちつける。


「こっちだ!」


 音に反応し、角兎の何匹かがこちらを向いた。


 黒い目。


 低く下げられた角。


 太い後ろ脚が縮む。


 次の瞬間、群れが突進してきた。


「ハヤト!」


 リゼの声を背に、走る。


 裸足へ小石が刺さる。痛みに構っていられない。


 角兎は速い。


 振り返らなくても、地面を蹴る音が近づいていると分かる。


 路地を曲がる。


 積まれていた樽を倒す。


 一匹が樽へ衝突した。二匹目は飛び越える。三匹目以降も続く。


 足止めにもならない。


「そりゃそうだよな!」


 自分へ悪態をつき、さらに走る。


 路地の先は行き止まりだった。


 高い城壁。


 左右は崩れかけた家。


 逃げ道はない。


 角兎の群れが速度を落とし、道を塞ぐように広がった。


 魔物のくせに頭が回る。


 俺よりは確実に。


 一匹が前へ出た。


 最も大きい。額の角は黒く、先端が欠けている。


 そいつの身体へ、文字が重なって見えた。


【疾走角兎】


【レベル:3】


【能力:加速】


【禁止事項:走ってはいけない】


「走ってるじゃないか」


 思わず言った。


 表示が揺れる。


 角兎の後ろ脚へ、黒い鎖が絡みついているのが見えた。実物ではない。文字と同じで、俺の目にだけ映っているらしい。


 兎は走っている。


 だが、走るたびに鎖が肉へ食い込み、血がにじむ。


 能力が「加速」なのに、禁止は「走ってはいけない」。


 走れば傷つく。


 走らなければ、生き方そのものを失う。


「お前も、ずいぶんひどいものをもらったな」


 角兎が低くうなった。


 言葉は通じない。


 それでも、黒い鎖が震えた。


 外したい。


 走りたい。


 そんな衝動だけが、頭の中へ流れ込んでくる。


 右手が熱くなった。


 手の甲に、見たことのない紋様が浮かぶ。開いた円と、その中心から外へ伸びる一本の線。


【対象が禁止からの解放を望んでいます】


【回収条件を満たしました】


【禁止事項を回収しますか】


 選択肢が現れる。


 はい。


 いいえ。


 意味は分からない。


 だが、何をするかは分かった。


「返してやるよ」


 右手を伸ばす。


「お前の走り方は、お前が決めろ」


 はい、を選んだ。


 黒い鎖が弾けた。


 破片が宙で文字へ変わり、俺の手の甲へ吸い込まれる。


【禁止事項《走ってはいけない》を回収しました】


【禁則階級:第一階級・一禁】


【固有能力《禁則回収》を確認しました】


 欠け角の兎が地面を蹴った。


 速い。


 さっきまでとは比べものにならない。


 一瞬で俺の目の前へ迫る。


「強くなるのかよ!」


 回収したのは失敗だった。


 そう思った瞬間、右手の紋様がまた熱を持つ。


 奪った禁止は消えていない。


 手の中にある。


 鎖ではなく、命令として。


 使い方を教わったわけではない。なのに、言葉が自然に口から出た。


「止まれ」


 世界が、息を止めた。


 欠け角の兎は、俺の胸へ角が触れる寸前で静止していた。


 後ろ脚は地面を離れている。


 毛の一本まで動かない。


 俺が命じたのは「止まれ」。


 使った禁止は「走ってはいけない」。


 同じ意味ではない。


 それでも世界は、俺の言葉へ都合のいい解釈を与えた。


「……これは、まずいな」


 強い。


 便利だ。


 そして、気味が悪い。


 止められた兎の黒い目だけが、俺を見ている。


 そこに、さっきまでなかった恐怖が浮かんでいた。


 自由に走りたいと望んだ相手へ、俺は走るなと命じた。


「悪い。すぐ終わらせる」


 木板を両手で握る。


 角ではなく、兎の横腹へ打ち込んだ。


 静止が解ける。


 欠け角の兎は壁際へ転がった。


 残りの群れが一斉に飛びかかってくる。


「《雨裂氷針・初式》!」


 頭上から氷の針が降った。


 兎たちの足元へ突き刺さり、路地一面を凍らせる。群れは踏ん張れず、折り重なるように転んだ。


 リゼが駆けてくる。


「立って!」


「助かった」


「囮になるなら、なる前に作戦を言って」


「作戦はなかった」


「でしょうね!」


 リゼは怒鳴りながらも、俺の腕を引いて立たせた。


 後ろから住民たちも来る。


 鍋の女主人は長い棒を持ち、老人は投網を抱え、子供たちは屋根から石を投げた。


 誰もレベルは高くない。


 それでも、凍って動けない角兎を一匹ずつ網へ入れ、外へ押し戻していく。


 欠け角の兎が起き上がった。


 俺は身構える。


 兎は突進しなかった。


 こちらを見たまま、ゆっくり後ろへ下がる。


 やがて身を翻し、壊れた柵から外へ走り去った。


 速く、迷いのない走りだった。


 残りの群れも、その後を追う。


 土煙が遠ざかる。


 無番地へ、静けさが戻った。


    * * *


「ほら」


 戦いが終わると、泥だらけの少年が銅貨を差し出した。


「勉強代じゃなかったのか」


「角兎の前に出るような馬鹿から取ったら、寝覚めが悪い」


「取る前に気づいてほしかったな」


 銅貨を受け取る。


 少年はもう一つ、ぼろぼろの革靴を置いた。左右で色が違い、片方はつま先が開いている。


「これは?」


「貸し。金ができたら銅貨二枚」


「さっきは三枚だった」


「片方、穴が開いた」


「交渉成立」


 履いてみると、大きさはだいたい合った。


 異世界で最初に得た装備としては頼りない。いまの俺には十分だった。


 周囲では住民が柵を直している。怪我人の手当ても始まっていた。兵士は最後まで来なかった。


 リゼは少し離れた場所で、俺を見ていた。


「あれは何?」


「俺も聞きたい」


「兎が止まった」


「走るのを禁止したらしい」


「らしい?」


 俺は右手を開いた。


 手の甲の紋様は消えている。代わりに、視界の端へ新しい表示が残っていた。


【名前:八幡ハヤト】


【種族:人間】


【職業:未登録】


【レベル:0】


【固有能力:《禁則回収》】


【保有禁則:1】


【走ってはいけない】


 やはりレベルは0のままだ。


 カイルの言葉を守ったことになるのか、それとも上げられないだけなのか。


「禁止を奪った」


 リゼの声が低くなる。


「たぶん」


「神律は、神だけが与えて、神だけが消せる」


「あいにく、神とは話が合いそうにない」


「冗談を言っている場合じゃない」


 彼女は俺の右手をつかんだ。


 細い指が震えている。


「あなたがしたのは解放じゃない。奪った禁止を、別の相手への命令に変えた」


 止められた兎の目を思い出す。


 自由になりたいと望んだ相手へ、俺は同じ不自由を返した。


「神の命令と同じか」


「ええ」


 リゼは手を離した。


 その左手首に、黒い文字が浮かんでいる。


【同じ魔法を二度使ってはいけない】


 表示は一瞬で消えた。


 俺にだけ見えたらしい。


「リゼ」


「何」


「その禁止、なくしたいと思ったことはあるか」


 彼女の灰色の瞳が細くなる。


「誰から聞いたの」


「見えた」


 リゼが一歩下がった。


 同時に、集落の入口で馬のいななきが響く。


 白い外套を着た集団が、壊れた柵を越えて入ってきた。胸元には、輪を断ち切る剣の紋章。


 先頭の女が巻物を広げる。


「リゼ・アルカディア」


 よく通る声が、無番地へ響いた。


「自由教会の名において、あなたを保護します」


 リゼの顔から血の気が引いた。


 その反応だけで分かる。


 あれは、助けに来た人間を見る顔ではなかった。

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