プロローグ 百番目の禁止
勇者カイル・アストレアは、あと九十八段の階段を前にして立ち止まった。
神域へ続く白い階段は、雲を突き抜けた先まで伸びている。終わりは見えていた。巨大な神像と、その足元に浮かぶ光の門。あそこへたどり着けば、世界を縛る神と話ができる。
だが、カイルは次の一歩を踏み出せない。
右足から上ってはいけない。
レベル十二で刻まれた禁止だった。
彼は左足を上げ、ひびの入った段へ置く。遅れて右足を引き寄せる。たったそれだけの動作に、脇腹の傷が焼けるように痛んだ。
傷を治してはいけない。
こちらはレベル七十三で刻まれた。
背後で、金属の鳴る音がした。
神律騎士が追ってくる。十二人。いずれもレベル六十を超える精鋭だ。先頭の男が槍を構え、その切っ先へ白い雷を集めた。
「反逆者カイル! 神像の前にひざまずけ!」
カイルは振り返らなかった。
階段を二段飛ばしてはいけない。
背後の敵を見てはいけない。
同じ攻撃を二度受けてはいけない。
一度口にした願いを繰り返してはいけない。
九十九の禁止が、見えない鎖となって手足や舌へ絡みついている。
強くなるたび、できないことが増えた。
それを祝福だと教えられてきた。
「止まれ!」
雷槍が放たれる。
カイルは剣を抜き、背を向けたまま石段へ突き立てた。
斬撃が白い床を走る。階段の端だけが切り離され、宙へ傾いた。飛来した雷は崩れた石へ吸い込まれ、追ってきた騎士たちの足場が落ちる。
悲鳴が雲の下へ遠ざかった。
誰も死なない角度で切った。殺してはいけないからではない。
殺す必要がなかったからだ。
カイルは剣を杖にして上り続けた。
残り、七十一段。
五十段。
二十二段。
最後の一段へ左足を置いたとき、脇腹から流れた血は靴の中まで満ちていた。
光の門が、音もなく開く。
* * *
神は、人の形をしていなかった。
果ての見えない白い空間に、巨大な石像だけが立っている。
顔はない。
目も、鼻も、口もない。
それなのに、カイルは見られていると分かった。
『戻りなさい』
声は耳ではなく、頭の内側へ届いた。
『今なら、九十九の過ちを赦しましょう』
「過ち?」
カイルは笑った。乾いた息が漏れ、口の端から血が垂れる。
「夜に目を開けた。妹の前で剣を抜いた。死にかけた仲間の傷を治した。腹が減った子供へ、神への供物を食わせた」
言葉にするたび、身体のどこかが締めつけられた。破った禁止が、罰として肉へ食い込んでいる。
「それが俺の九十九の過ちだ」
『おまえは力を与えられた』
「頼んでいない」
『世界を守るために必要でした』
「だから、代わりに生き方を奪ったのか」
神像の足元には、無数の光が浮かんでいた。
一つ一つが人の姿をしている。強い光ほど鎖が多い。英雄と呼ばれた者。王になった者。聖女になった者。世界を守る力を授かり、その力で何をするか選ぶ権利を失った者たち。
カイルは剣を床へ突き立てた。
「レベルを上げれば自由になる。強くなれば、誰にも命令されない。そう信じて、ここまで来た」
返事はない。
「逆だった」
神像の向こうで、何かが揺れた。
一瞬だけ、白い空間へ別の景色が重なる。
二つの太陽が昇る海。
空へ向かって落ちていく都市。
人間と竜が同じ食卓を囲む家。
どれも見たことがない。だが、なぜか懐かしかった。
『また、世界を壊すつもりですか』
初めて、神の声に恐れが混じった。
カイルは眉を寄せた。
「また?」
石像の胸に、百個目の光が灯った。
同時に、カイルの胸が焼けた。
皮膚の下へ文字が刻まれていく。一画ごとに、心臓を細い刃で削られるような痛みが走った。
カイルは膝をつく。
視界の中央へ、見慣れた表示が現れた。
レベルが上がるたびに祝福として現れ、人生を一つずつ奪ってきた文字。
【レベルが100に到達しました】
【新しい禁止事項が与えられます】
【神の命令に逆らってはいけない】
「……そう来るか」
『剣を抜きなさい』
右手が動いた。
カイルは止めようとした。指一本すら止まらない。
剣が床から抜ける。
『切っ先を、喉へ』
「断る」
口では言えた。
腕は従った。
切っ先が喉へ触れる。皮膚が裂け、温かい血が刃を伝った。
力では勝てない。
レベルを上げた時点で、神へ逆らう未来は閉ざされる。
ならば、レベルの外にいる者を呼ぶしかない。
カイルは左手を床へ押しつけた。
召喚陣が広がる。神域の床に刻まれていた座標を消し、世界の外へ術式を伸ばす。
『何をしているのです』
「俺にできることは、もうない」
剣先が深く入る。
声がかすれた。
「だから――できないままの奴を呼ぶ」
召喚陣の中央に、黒い穴が開いた。
* * *
八幡ハヤトは、その夜も仕事を辞めた。
「契約、延ばせるけど。どうする?」
倉庫の休憩室で、班長が缶コーヒーを飲みながら聞いた。
三か月の短期契約だった。通販の商品を棚から集め、箱へ詰め、流れてくる荷物をまた棚へ戻す。給料は悪くない。人間関係も、これまでの職場に比べれば穏やかだった。
続ける理由は、いくつもあった。
続けたい理由は、一つもなかった。
「やめます」
「即答かよ」
「迷って答えが変わるなら、もう少し考えます」
班長は呆れたように笑った。
「お前、本当に続かないな」
「よく言われます」
「次は決まってんの?」
「決まってません」
「不安じゃないのか」
「不安ですよ。でも、不安だからって同じ場所にいるのも変じゃないですか」
強がりではなかった。
立派な考えでもない。
ただ、自分で選んだ覚えのない道を、やめる理由がないというだけで歩き続けるのが苦手だった。
ハヤトは制服を返し、リュックを背負った。
外は午前二時を回っている。工業団地の道路に人影はなく、信号だけが律儀に赤と青を繰り返していた。
横断歩道の前で、ハヤトは足を止める。
車は来ない。
信号は赤だ。
渡ってはいけない。
「まあ、これは待つか」
誰にともなく言った、そのときだった。
空が割れた。
音はしなかった。
黒い夜空へ細い亀裂が走り、その奥から白い光が漏れる。亀裂は信号機を越え、道路を越え、ハヤトの足元まで一息に伸びた。
「待て。今のは渡るとか渡らないとか、そういう話じゃ――」
地面が消えた。
身体が落ちる。
リュックも、スマートフォンも、吐きかけた悪態も、全部まとめて暗闇へ吸い込まれた。
* * *
石の床へ叩きつけられると思った。
実際には、誰かの背中へ落ちた。
「ぐっ……」
「す、すみません」
反射で謝ってから、ハヤトは周囲を見た。
白い空間。
顔のない巨像。
血まみれの男。
男の喉には剣が刺さっていた。その柄を、男自身の右手が握っている。
「おい」
ハヤトは男の身体を支えた。
「救急車……は、違うな。ここ、どこだ」
男がうっすら目を開ける。
青い瞳がハヤトを捉えた。
その瞬間、顔のない神像が動いた。
何もなかったはずの場所に、二本のまぶたが浮かぶ。
固く閉じた。
まるで、見てはいけないものから目をそらすように。
「本当に……来たのか」
血まみれの男が笑った。
「誰を呼ぶか、知らなかったのかよ」
「名前すら知らない。だが、おまえなら……まだ、選べる」
男の手が、ハヤトの服をつかんだ。
「レベルを上げるな」
「は?」
「妹を――」
言葉は続かなかった。
男の右腕が、また動く。
剣を押し込んだ。
ハヤトはとっさに柄をつかんだ。止めようと全身へ力を込める。男の腕は岩のように動かない。それどころか、見えない何かがハヤトの指まで押し返してきた。
「離せ! 死ぬぞ!」
男の唇が、かすかに動いた。
分かっている。
そう答えたように見えた。
刃が喉を貫く。
青い目から光が消えた。
ハヤトの手の中に、男の血だけが残った。
視界へ、半透明の文字が浮かぶ。
【対象:カイル・アストレア】
【レベル:100】
【禁止事項:――】
百個あるはずの欄が、一瞬ですべて空白になった。
直後、白い空間が大きく揺れた。
神像に亀裂が走る。閉じた目の隙間から、まぶしい光が噴き出した。
『ここにいてはいけない』
声がした。
誰へ向けた言葉かは分からない。
だが、空間そのものがハヤトを拒んだ。
足元が砕ける。
ハヤトはカイルの服をつかもうとした。指先に引っかかったのは、血を吸った布の切れ端だけだった。
身体が再び落ちる。
今度は白い雲を突き抜け、その下に広がる大地が見えた。
森。
城壁。
銀色に光る川。
どう考えても、助かる高さではない。
「説明くらいしてから死ねよ!」
叫びながら落ちるハヤトの前へ、新しい文字が現れた。
【名前:八幡ハヤト】
【種族:解析不能】
【職業:未登録】
【レベル:0】
【適性:存在禁止】
最後の一行だけが、瞬きをする間に消えた。




