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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第九部 正しい独裁

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第98話 迷った一日

 辞任公表の朝、私は帰郷用の外套を椅子へ掛けた。


 議会で文書を読み上げ、引き継ぎ日程を確認した後、官邸へ戻る。


 一か月後には、ハルフォードへ出発する。


「馬車は二台で足ります」


 クレアが荷物目録を確認する。


「肖像画は別便ですので」


「紅茶道具は手荷物へ」


「承知しております」


「割れないように」


「三重に包みました」


 同じ確認を、昨夜から何度もしている。


 クレアは指摘しない。


「領主館へ着いた日の夕食は」


「料理長から、希望を伺うよう申しつかっております」


「黒パンと、豆のスープを」


「苦い葉物は?」


 私は少し考えた。


「入れてください」


「承知しました」


 笑いは起きなかった。


 それでも、部屋の空気は柔らかかった。


 机の上には、署名済みの辞任文書。


 封筒。


 印章。


 すべて整っている。


「参りましょう」


 私が文書へ手を伸ばした時、廊下を走る足音が聞こえた。


 扉が強く叩かれる。


「緊急報告です!」


「入ってください」


 役人が転がるように入る。


 顔に煤がついている。


「北区の学校が襲撃されました!」


 私の手が止まる。


「爆破ですか」


「火薬と放火です。登校中の児童が」


 次の足音。


 別の兵士が入る。


「西区病院で爆発!」


 同時だった。


「詳細を」


 声は出た。


「学校は裏門近くで爆発。教室一棟が倒壊。現在、児童十二名と教員二名が行方不明。救出中です」


「病院は薬品庫です。寝台棟へ延焼。歩けない患者の避難が遅れています」


「治安隊は」


「学校側は、夜間巡回を昨日から縮小していました」


「なぜ」


 役人が視線を落とす。


「非常権限終了に伴う通常配置への移行準備です」


 胸の内側が凍る。


「病院は?」


「令状なし検査の停止を見込み、搬入口の臨時検査を解除していました」


 私が返上を決めたから。


 期限を戻すために。


 通常制度へ移すために。


 私は二つの報告を並べた。


 学校。


 病院。


 どちらも、非常権限の対象から通常警備へ戻す準備が進められていた。


「学校の巡回を縮小した決裁者は」


「地区治安責任者です。ただし、権限返上の移行要領に従ったものです」


「要領へ署名したのは」


 役人は答えない。


 私だ。


「病院の検査解除も?」


「同じ移行要領です」


 机の上にある辞任文書と、現場から届いた煤けた報告書。


 二つの紙が一本の線で結ばれて見えた。


 実際には、襲撃者がいつ計画したのかも、警備が厚ければ防げたのかも、まだわからない。


 それでも、私には十分だった。


「救護隊を最大数で。市場の荷車を徴用し、病院へ」


「法的根拠が」


「現行の非常権限は正午まで有効です」


「はい!」


「学校周辺を封鎖。負傷者の家族へ連絡を」


 役人たちが走り去る。


 辞任文書だけが机に残る。


「セラフィーナ様」


 クレアが呼ぶ。


「議会へは、遅延の連絡を」


「いいえ」


 私は文書を持つ。


「現場へ行きます」


 病院へ向かう途中、救護馬車とすれ違った。


 荷台には三人の患者が横たわっている。


 一人は老人。


 一人は出産を終えたばかりらしい女。


 もう一人は、胸へ包帯を巻いた少年だった。


 付き添いの看護人が、馬車の揺れから彼らを守るよう両腕を広げている。


「搬送先は?」


「南区の礼拝所を臨時病棟にします」


「暖房は」


「薪が足りません」


「北倉庫から出してください」


「通常手続きでは、配給委員会の承認が」


「非常命令を使います」


 私の署名で、薪が動く。


 馬車が助かる。


 その速さを、私は知ってしまった。


 学校では、雪の上へ黒い煤が積もっていた。


 壁が一部崩れ、救護者が手で煉瓦を除いている。


「静かに!」


 誰かが叫ぶ。


 瓦礫の下から、子どもの声がする。


 小さい。


 泣いている。


 兵士が板を差し込み、隙間を広げる。


 一人の少女が引き出された。


 髪に煤。


 片方の靴がない。


「先生は?」


 少女は咳をしながら尋ねる。


「先生が、私を机の下へ」


 救護者が毛布で包む。


 別の場所から、動かない子どもが運び出される。


 母親が名前を叫ぶ。


 医師は首を振った。


 数字ではない。


 朝、靴を履き、学校へ来た子ども。


 机の下で先生の手を握っていた子ども。


 今朝まで、生きていた。


 学校の中庭には、無事だった子どもたちが毛布を被って並んでいた。


 教師が、一人ずつ名前を呼ぶ。


 返事があるたび、名簿へ印がつく。


 返事のない名前では、教師の声が少しだけ細くなる。


「もう一度、呼びます」


 同じ名前。


 やはり返事はない。


 母親が列の後ろで膝をついた。


 誰も、数字では泣いていなかった。


「病院から追加報告!」


 伝令が駆ける。


「患者七名死亡。救護者一名が煙を吸い、重体」


 私は報告書を受け取る。


 欄外に、負傷者の名前が急いで書かれている。


「警備縮小との因果は、まだ確認中です」


 伝令が言う。


「襲撃計画は以前から準備されていた可能性も」


 聞こえている。


 それでも、目は「警備縮小」の文字から離れない。


 私が迷った。


 権限を返すか。


 帰るか。


 その間に、警備は緩んだ。


「これは、私の判断です」


「セラフィーナ様」


 クレアが隣へ来る。


「因果は、まだ」


「私が返上を決めなければ、検査は続いていました」


「襲撃を防げたとは限りません」


「防げた可能性があります」


「逆もあります」


 マリアンヌ様が現場へ到着した。


 外套も整っていない。


「セラフィーナ様。今は、辞任について決め直す時ではありません」


「今日が期限です」


「だからこそ、即断しないでください」


「即断した結果ではありません」


 私は瓦礫を見る。


「昨夜まで、考えました」


「なら、襲撃の衝撃だけで覆さないで」


「死者が出ています」


「その責任を、一人で全部背負わないでください」


「私の権限で救えた人がいた」


「はい」


「手放そうとして、死んだ人がいる」


「それは確定していません」


「確定を待てば、また起きる」


 言葉が止まらない。


 ヴィクトルも、そう言った。


 手続きを待てば国が崩れる。


 マリアンヌ様の顔に、その記憶が浮かんでいる。


 それでも、今は目の前に子どもの遺体がある。


 私は叫ばなかった。


 怒らなかった。


 報告書を一枚ずつ読んだ。


 発生時刻。


 侵入経路。


 警備交代。


 不審者目撃。


 死亡確認。


 負傷者搬送先。


 日が沈むまで。


 病院では、焼け残った病室から患者の私物が運び出されていた。


 眼鏡。


 編みかけの靴下。


 家族からの手紙。


 名前札のついた木の櫛。


 亡くなった七人の持ち物は、一つずつ布へ包まれた。


「遺族へ、誰が渡しますか」


「病院の記録係が」


「一人で行かせないでください」


「承知しました」


 私は仕事をした。


 正しい指示を出した。


 それでも、頭の中では同じ文だけが繰り返されていた。


 私が迷わなければ。


 学校と病院を往復し、すべての名を確認した。


 官邸へ戻ると、荷物がそのまま積まれていた。


 帰郷用の外套。


 紅茶道具。


 肖像画。


 机の中央には、辞任文書。


 クレアとマリアンヌ様が、少し離れて立っている。


「明朝まで待ってください」


 マリアンヌ様が言う。


「議会で、警備縮小との因果を調べます」


「待ちません」


「セラフィーナ様」


「あなたを拘束はしません」


 私が言うと、彼女の顔が痛みに歪む。


 なぜ、その言葉をわざわざ言ったのか。


 以前の私なら、必要すらなかった。


「反対する権利も認めます」


「なら、聞いてください」


「聞きました」


 辞任文書を手に取る。


 署名。


 印章。


 ハルフォードへ帰る日付。


 自分で書いた。


 自分で決めた。


 紙を両手で持つ。


 中央から裂く。


 音は小さかった。


 もう一度。


 さらに細く。


 署名が二つに分かれる。


 クレアが息を呑む。


 マリアンヌ様は動かない。


 私は紙片を机へ置いた。


「非常権限延長の会議を招集してください」


「期限は」


「脅威がなくなるまで」


「それは、いつですか」


 答えない。


 帰郷の荷物が、部屋の壁際に積まれている。


 私はその前で、静かに言った。


「もう二度と、迷いません」

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