第97話 帰る準備
辞任文書の最後に、日付を書いた。
非常権限は、明日の正午をもって返上する。
国家指導者および法務委員の職も、一か月の引き継ぎ期間を経て辞任する。
以後、公職へ就かない。
書き終えた文章を、最初から読み直した。
曖昧な表現はない。
撤回の余地を残す文言もない。
私は署名し、印章を押した。
「完成いたしましたか」
クレアが尋ねる。
「はい」
紙を乾かす。
「明朝、議会へ提出します」
「承知しました」
彼女は、それ以上何も言わなかった。
喜びも、安心も、まだ表へ出さない。
私が変える可能性を恐れているのかもしれない。
「荷造りを始めましょう」
「はい」
官邸の私室には、王都へ来てから増えた物が少ない。
黒い公務服。
冬の外套。
法務書。
治安報告。
贈られた勲章。
「勲章は置いていきます」
「記念品として保管されてはいかがでしょう」
「必要ありません」
「では、官邸の記録庫へ」
クレアは箱を分ける。
捨てるのではない。
国の歴史として残す。
私の所有物ではなくなる。
衣服を畳む。
ハルフォード領で着ていた濃紺のドレス。
クレアの裁縫室で作ったもの。
袖口には、何度も直した跡がある。
「こちらは」
「持ち帰ります」
「はい」
白百合の結婚式で使った布。
市場で買った丈夫な靴。
銀の葉の髪飾り。
アレンのいない日々でも、身につけてきた物。
「紅茶道具は、どれを」
机の上には、二組のカップがある。
王都で使っていた白磁。
ハルフォード領から持ってきた、少し厚い陶器。
縁に小さな欠けがある。
「こちらを」
私は厚い方を選んだ。
「二客ともですか」
問われる。
「はい」
答えてから、胸が痛んだ。
「一客だけでも」
「二客とも、お持ちになりましょう」
クレアは静かに包む。
代わりに決めてくれたのではない。
私が選び直せるよう、残した。
家族肖像画は、大きすぎて馬車へ載せられない。
王都の官邸に置かれた写しを外す。
中央のお父様。
隣に私とアレン。
クレア。
ガレス。
アニエス。
マリアンヌ様。
「本物は、ハルフォードにあります」
「はい」
「では、これは?」
「丸めず、額のまま別便で」
「承知しました」
クレアが布で包む。
絵の中のアレンが見えなくなる前に、私は少し待った。
「怖いです」
「はい」
「帰ることが」
「はい」
「玄関を開けても、アレンはいません」
「はい」
「食堂にも」
「はい」
「寝室にも」
クレアは否定しない。
「それでも、屋敷には私がおります」
彼女は言った。
「ガレス様も、領民の皆様も」
「皆が、彼を思い出させます」
「はい」
「耐えられるでしょうか」
「わかりません」
正直な答えだった。
「ですが、お一人ではございません」
私は肖像画を覆う布へ触れた。
「完全に戻ることはできません」
「同じ日へは」
「それでも、帰ることはできますか」
「はい」
クレアの声は揺れなかった。
私は、ガレスとアニエスへも手紙を書いた。
ガレスには、治安隊を通常の指揮系統へ戻すこと。
秘密拘束施設の名簿を第三者へ開示すること。
違法命令があれば、私の署名があっても止めること。
最後の一文を書く手が止まった。
『私が戻った後も』
違う。
『私が撤回を求めても』
そう書いた。
印章を押す。
アニエスには、統制された物流契約を民間へ戻す手順と、凍結資産の再審査を頼んだ。
彼女なら、厳しく帳簿を見る。
私の都合を優先しない。
「ご返信は、ハルフォードで受け取られますか」
クレアが尋ねる。
「はい」
「王都で必要なものだけ、先に」
「この書類は、置いていきます」
治安局の黒い綴じ表紙。
手に取るだけで、夜の拘束施設を思い出す。
私は箱へ入れず、引き継ぎ机へ置いた。
「持ち帰ってはならないものです」
「承知しました」
昼過ぎ、権限移譲の文書をマリアンヌ様へ送った。
暫定的に議会議長が緊急命令の執行を監督し、個別の治安命令は委員会へ戻す。
秘密拘束者の再審査。
出版検査の停止。
集会申請制度の見直し。
私が作った仕組みを、解くための手順。
夕方、マリアンヌ様本人が官邸へ来た。
文書を両手で持っている。
「本当に、提出なさるのですか」
「はい」
「昨日の私の言葉だけで?」
「違います」
私は答えた。
「昨日まで見ないようにしていたものを、見たからです」
「治安は、まだ完全ではありません」
「承知しています」
「議会は遅いです」
「承知しています」
「批判も出ます。逃げたと」
「受けます」
彼女は文書を開き、署名欄を見る。
「一か月後、本当に政界を離れる?」
「はい」
「ハルフォードへ」
「帰ります」
マリアンヌ様の目に涙が浮かぶ。
「私を、置いていかないでください」
子どものような声だった。
「置いていきません」
「王都にはいないのに?」
「友人であることと、同じ街に住むことは別です」
「会いに行っても?」
「もちろんです」
彼女は泣きながら笑った。
「それでは、受理します」
権限移譲文書へ署名する。
私の名前の下へ、彼女の名前が並ぶ。
これで、手続きは始まった。
権限移譲の実務会議は、三時間続いた。
未決の捜索令。
保留中の通信遮断。
拘束者の食事と医療。
各地区の検問配置。
一つずつ、誰が引き継ぐかを決める。
「すべて明日で止めるのですか」
役人が尋ねた。
「いいえ。法的根拠のある措置は継続します」
「非常命令だけを?」
「期限と監督のないものを、再審査へ」
「混乱が起きます」
「起きます」
「責任は」
「私の辞任後も、記録へ残してください」
逃げるのではない。
退くからこそ、残したものへ名前をつける。
会議の最後に、治安官の一人が尋ねた。
「我々は、間違っていたのでしょうか」
「命を救ったことまで、間違いにはしません」
「では」
「正しかった結果を理由に、すべての手段を正しいとしたことが誤りです」
自分へ向けた言葉だった。
夜、官邸の棚が空になっていく。
衣服の箱。
書物の箱。
紅茶道具。
肖像画。
帰るための荷物が、壁際へ積まれる。
夕食は、二人で小さな卓へ置いた。
パン。
根菜の煮込み。
薄いスープ。
官邸の正式な献立ではない。
「ハルフォードの味に近づけました」
クレアが言う。
一口食べる。
「少し、塩が強いです」
「料理長へ申し伝えます」
「いいえ」
私はもう一口食べた。
「これで構いません」
味を評価する会話が、ひどく久しぶりだった。
食べ終えた皿を、私は自分で重ねようとした。
「こちらは私が」
「帰ったら、少しは手伝います」
「お皿を割らない範囲で」
「信用がありませんね」
「経験に基づく判断でございます」
笑いにはならなかった。
それでも、クレアの目元が少し緩んだ。
生活の温度は、大きな幸福ではなく、こういう短い会話から戻るのかもしれない。
「この部屋は、ずいぶん広かったのですね」
クレアが言う。
「物がなくなると」
「はい」
広い部屋は、以前なら不安だった。
今は、終わる場所に見える。
「ハルフォードへ着いたら」
私は言う。
「まず、何をしましょう」
「屋根をご確認ください」
「まだ雨漏りを?」
「修繕済みですが、念のため」
「食堂の皿は」
「いつもの場所に」
「私の部屋は」
「南向きのままです」
生活の話をする。
国ではなく。
警備でもなく。
朝食と屋根と部屋。
胸の奥へ、わずかな温度が戻る。
私は荷物の中から、布を掛けた肖像画をもう一度取り出した。
布を外す。
アレンが私の方を見ている。
絵の中の視線は変わらない。
「ただいま、と言えるでしょうか」
クレアは隣に立つ。
「声が出なくても、玄関は開きます」
「はい」
私は肖像画を再び包んだ。
帰れば、すべてが治るわけではない。
紅茶の味は戻らない。
向かいの席も埋まらない。
それでも、帰る。
自分へ、その選択を許す。
辞任文書を机の中央へ置く。
明朝、議会へ持っていく。
「灯りを消してください」
「お休みになりますか」
「はい」
久しぶりに、明日の予定が仕事だけではなかった。
私は寝台へ入り、目を閉じた。
ハルフォードへ帰る道を思い浮かべながら、眠った。




