第95話 私は皆さんを信じています
「私は、皆さんを信じています」
演台から見える広場は、静かだった。
爆破事件から三十日。
非常権限の期限を前に、私は成果を報告するため市民の前へ立っている。
背後には、暫定議会の旗。
そのさらに後ろには、黒い外套の治安官たちが一列に並んでいた。
「皆さんが、暴力ではなく法を選ぶことを」
私は続ける。
「不安を煽る噂ではなく、確認された事実を選ぶことを」
アレンは、人を信じた。
失敗するかもしれない相手へ仕事を任せ、間違えた者に戻る席を残した。
私は、その考えを国へ広げようとしている。
「この三十日で、四件の爆破計画を阻止しました」
広場の端に、爆破を免れた市場の商人たちがいる。
「病院へ運び込まれるはずだった火薬を押収しました。学校の地下へ隠された導火線も発見しました」
母親が子どもの肩を抱く。
「食糧倉庫への放火も防ぎました。冬の配給は、予定通り継続します」
拍手が起きた。
小さく、揃っている。
「これらは、皆さんの協力があったからです」
通行証の提示。
夜間外出の制限。
荷物検査。
集会の事前申請。
人々は従った。
「私は、皆さんを信じています」
もう一度言う。
「だからこそ、危険な者を市民の中へ隠さないでください」
広場の空気が硬くなる。
「家族や隣人に不審な行動があれば、治安局へ知らせてください。通報者の身元は保護します」
一人の男が、わずかに顔を上げた。
すぐに視線を落とす。
「これは密告の奨励ではありません」
私は言う。
「互いの命を守るための協力です」
治安官の一人が、群衆を見渡した。
市民たちの背筋が伸びる。
「罪のない者を疑う必要はありません。正直に暮らす方々に、恐れることは何もない」
言葉は正しい。
爆破犯を匿わなければよい。
違法な火薬を持たなければよい。
検査へ協力すればよい。
それでも、前列の女は指を握りしめている。
「何か、ご質問はありますか」
広場へ尋ねる。
誰も手を上げない。
以前の公開協議では、必ず誰かが反対した。
税が重い。
説明が難しい。
家族の事情がある。
百軒を回った時も、皆が違う不安を口にした。
今日は、何もない。
「ご意見でも構いません」
沈黙。
背後で革靴が鳴る。
治安官が姿勢を変えただけだった。
それでも、群衆の肩が揺れた。
「非常権限の運用に問題があれば、申し出てください」
誰も動かない。
議員の一人が拍手を始めた。
治安官が続く。
市民も拍手する。
広場全体へ広がる。
私は頭を下げた。
「ありがとうございます」
質問の時間を終える合図が鳴る直前、一人の印刷工が手を上げかけた。
隣の男が、その腕を掴む。
私は気づいた。
「発言をどうぞ」
二人は固まった。
「いえ」
印刷工は手を下げる。
「何でもありません」
「途中でやめる必要はありません」
「本当に、ありません」
背後で治安官が筆を走らせる音がする。
印刷工は、その音を聞いていた。
私は治安官へ目を向けた。
「発言しなかった者まで記録する必要はありません」
「演説会場の行動記録です」
「削除してください」
「規定では」
「私が命じます」
治安官は一礼し、紙へ線を引いた。
印刷工は安堵しなかった。
自分の存在が、一度は記録されたと知ったからだ。
演説が終わる。
壇を降りると、役人が満足そうに記録を持ってきた。
「反対意見はありませんでした」
「はい」
「市民の支持は、十分に確認できたかと」
私は広場を見る。
人々は整然と出口へ向かっている。
治安官の前を通る時だけ、歩幅が少し小さくなる。
「支持と、反対がないことは同じでしょうか」
役人が答えに詰まる。
「少なくとも、公に異議は」
「そうですね」
私は記録へ署名した。
『市民集会において、重大な反対意見なし』
事実だった。
マリアンヌ様が、壇の裏で待っていた。
「先ほどの言葉」
「どの部分ですか」
「皆を信じていると」
「アレンが、大切にしていた考えです」
「はい」
彼女の表情が曇る。
「ですが、信じる相手の後ろに治安官を立たせる必要がありますか」
「警備です」
「市民は、そう受け取っていません」
「爆破犯が群衆に紛れる危険があります」
「では、なぜ意見を求めたのですか」
「意見は必要です」
「言えない場所で?」
胸の内側が硬くなる。
「私は、発言した者を拘束するよう命じていません」
「命じなくても、恐れることはあります」
昨日と同じ言葉。
「根拠のない恐怖まで、私に責任を負えと?」
「根拠はあります」
マリアンヌ様が広場の端を見る。
治安官が一人の若者を呼び止め、鞄を開けさせている。
「反政府文書を持っただけで、長時間の聴取を受けた者がいます」
「爆破犯が宣伝文書で協力者を集めています」
「その文書が暴力を指示していなくても?」
「内容を確認する必要があります」
「いつまで?」
「危険がなくなるまでです」
答えた後、風が吹いた。
旗が鳴る。
期限を問われ、期限を答えていない。
私は気づいた。
それでも、言い直さなかった。
「本日の成果報告は終わりました」
私は言う。
「話があるなら、官邸で」
「はい」
マリアンヌ様は頭を下げた。
その礼が、以前より遠く見えた。
馬車へ乗る前、一人の少女が母親の手を離れ、私の近くへ来た。
治安官が止めようとする。
「待ってください」
私は制した。
少女は小さな花を差し出す。
「学校を守ってくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして」
花を受け取る。
「怖くありませんでしたか」
「爆弾が?」
「はい」
少女は母親を見る。
それから、治安官を見る。
「今は、夜に窓を開けるのが怖いです」
「なぜですか」
「隣のおじさんが、話を聞かれて帰ってこないから」
母親が青ざめ、少女を抱き寄せた。
「申し訳ございません。この子は」
「謝らないでください」
私は治安官へ確認を命じようとした。
しかし、どの件かわからない。
聴取中の者は多い。
「氏名を役人へ伝えてください。確認します」
母親は何度も頭を下げた。
少女も。
私は花を持って馬車へ乗る。
窓の外で、二人は治安官に囲まれてはいない。
ただ、誰も近づこうとしなかった。
馬車の中で、演説記録を読み返した。
『市民は、指導部への信頼を示した』
書記がそうまとめている。
私は余白へ訂正を書こうとした。
『重大な反対意見は表明されなかった』
こちらの方が正確だ。
けれど、それでも足りない。
『反対意見を表明できる環境だったかは未確認』
そこまで書き、筆を止めた。
この一文を公文書へ残せば、治安局の運用に疑問を示すことになる。
期限延長を議論する直前に。
私は最初の訂正文だけを残し、最後の一文を消した。
官邸へ戻り、花を水へ挿す。
白い小花。
ハルフォード領の道端にも咲いていた。
アレンは、信じると言う時、相手へ何も差し出させなかった。
私は同じ言葉を使った。
その背後に、記録帳と黒い外套を置いた。
意味が変わったことを、まだ認めたくなかった。




