第94話 聞こえない声
治安は、数字の上では回復していた。
爆破未遂は三件阻止された。
押収された火薬は二百樽を超え、拘束された実行役のうち、証拠のある者は正式な審理へ送られた。
夜間の通行許可制によって、王都の路地で起きていた強盗も半分以下に減った。
報告書だけを見れば、非常権限は正しく働いている。
「次は南区です」
馬車の扉を開けた役人が告げた。
私は外套の襟を整え、石畳へ降りる。
爆破で焼けた共同住宅は、すでに屋根まで修復されていた。崩れた壁の代わりに新しい煉瓦が積まれ、窓には冬の風を防ぐ厚布が張られている。
「工事は予定より四日早く終わりました」
「支給材の不足は?」
「ありません。非常調達命令で、北倉庫から優先搬入しました」
以前なら議会の予算委員会と地区評議会を通す必要があった。
今は、私の署名一つで動く。
その速さで、多くの人が冬を越せた。
「ありがとうございます」
住民代表の女が深く頭を下げる。
「子どもたちも、もう寒がっておりません」
「よかったです」
私は答えた。
「今後も必要な物があれば、地区責任者を通じて申請してください」
「はい」
女は笑った。
ただ、その後ろに並ぶ人々は笑っていなかった。
新しい壁。
配給された薪。
治療を終えた子ども。
感謝すべき成果が目の前にある。
それでも、何かが残っている。
「ほかに、ご意見はありますか」
私が尋ねると、人々は互いの顔を見た。
誰も口を開かない。
「遠慮は不要です」
「ございません」
住民代表が答えた。
「本当に?」
「はい。すべて、よくしていただいております」
正しい返答だった。
しかし、老人が一人、手の中で帽子を潰している。
私が視線を向けると、彼は肩を震わせた。
「何かありますか」
「いいえ」
「困っていることでも」
「ありません」
声が小さい。
私は役人を見る。
「配給記録に不足は?」
「一世帯あたり規定量を支給済みです」
「住居の再建も」
「完了しています」
なら、何が不安なのか。
「言ってくださらなければ、改善できません」
老人は頭を下げた。
「申し訳ございません」
謝罪を求めたつもりはない。
「責めているのではありません」
「はい」
返事だけが続く。
私は、彼の隣にいた少年へ目を向けた。
「学校は再開しましたか」
「はい」
「先生は」
「います」
「授業で困ることは?」
少年は母親らしい女を見る。
女は首を横に振った。
「ありません」
少年も同じように答えた。
私は理解できなかった。
必要な物は届いている。
危険は減った。
家は直った。
それでも、人々の顔に安堵がない。
視察の最後に、小さな食料配給所へ寄った。
以前は朝から長い列ができていた場所だ。今は整理札が配られ、待ち時間は短くなっている。
「混乱はありません」
係の男が報告する。
「割り込みも、二重受給も、ほとんどなくなりました」
「よい成果です」
私は台帳を確認した。
数字は整っている。
その横で、若い母親が受給袋を抱えたまま立っていた。
「何か不足がありますか」
「いいえ」
「では、なぜ残っているのです」
女は息を飲んだ。
「通行証の更新について、少し」
「窓口は北棟です」
「承知しております」
「なら、そちらへ」
「はい」
女は頭を下げ、去ろうとした。
けれど、足が動かない。
「まだ何か?」
「主人が、夜勤で」
「夜間通行の申請を」
「申請しました」
「却下された?」
「いいえ。審査中です」
「では、待ってください」
「はい」
それだけの会話だった。
私は正しい案内をした。
にもかかわらず、女の目には涙が浮かんでいた。
「審査は平均二日です」
係の男が補足する。
「ご主人の職場へは、代替要員を申請できます」
「問題ありません」
女はまた言った。
問題がない人は、あのような顔をするのだろうか。
私は問い直そうとした。
その時、背後の治安官が近づいた。
「ご不満があるなら、正式に記録します」
女はすぐに首を振った。
「ございません」
声が明らかに変わった。
それ以上、何も聞けなかった。
帰りの馬車で、マリアンヌ様が向かいに座った。
「お気づきになりましたか」
「何にですか」
「皆が、話せなくなっていることに」
「話す機会は設けました」
「機会ではなく」
彼女は窓の外を見る。
検問所の前で、人々が通行証を見せている。
黒い外套の治安官が、一人ずつ荷物を確認する。
「話した結果、何が起きるかわからないと思っているのです」
「不満を口にしただけで拘束する命令は出していません」
「命令がなくても、恐れることはあります」
「なぜですか」
自分の声が少し硬くなった。
「私たちは、爆破を止めました。家を直し、食糧を配り、病院を守った」
「はい」
「それを不安に感じる理由がわかりません」
マリアンヌ様は、すぐには答えなかった。
「理由を言葉にできないこともあります」
「言葉にできなければ、政策へ反映できません」
「だからこそ、誰かが待つ必要があるのではありませんか」
「待っている間に、次の爆破が起きれば?」
問いへ、彼女は黙った。
私も黙った。
馬車の車輪だけが鳴る。
官邸へ戻ると、クレアが外套を受け取った。
「お疲れでございますか」
「いいえ」
「お顔が冷えております」
「外に長くいましたから」
執務室には、視察報告の書式が用意されていた。
復旧率。
配給量。
治療人数。
失業率。
空欄を数字で埋める。
最後に「住民の意見」という欄がある。
私は筆を止めた。
『特になし』
そう書けば事実ではある。
しかし、あの老人の手は震えていた。
少年は母親の顔を見てから答えた。
彼らは何も言わなかった。
言わなかったものを、私は記録できない。
「クレア」
「はい」
「以前、アレンは領民の不満をどうやって聞いていましたか」
彼女は少し考えた。
「決まった方法はございませんでした」
「会議では?」
「会議でも。畑でも。食堂でも。門の前でも」
「非効率です」
口にしてから、部屋が静かになった。
「申し訳ありません」
「いいえ」
クレアは否定しなかった。
「アレン様は、効率だけで動く方ではございませんでした」
「わかっています」
私は空欄を見る。
「ですが、今は国全体です。一人ずつ待っている時間はありません」
「はい」
「言葉にならない不安まで拾うことはできない」
「はい」
クレアの返事は、肯定ではない。
ただ、私の言葉を受け取っている。
「それでも、あの人は聞いたのでしょう」
「そう思います」
アレンなら。
私は、その言葉を考えないようにしてきた。
彼の答えを私が作ってはいけない。
けれど、今夜だけは尋ねたかった。
執務室の隅に、彼が使っていた椅子がある。
王都へ来ていた頃、いつも少し斜めに座っていた椅子。
私はその前へ立った。
空席は、何も説明しない。
「あなたなら、何と言ったのですか」
声が落ちる。
返事はない。
机の上の報告書だけが白い。
私は椅子へ手を置いた。
木は冷たかった。
人々の不安が聞こえない。
アレンの返事も聞こえない。
聞こえないものを、存在しないと判断すれば仕事は進む。
マリアンヌ様は、報告書を覗き込まなかった。
「不安は、要望の形で現れないことがあります」
「では、どう記録すれば」
「記録できないことも、あると」
「国家は、記録できない感情では動かせません」
「人は、記録の外にもいます」
私は返事をしなかった。
その言葉は、正しい。
同時に、役に立たないように思えた。
役に立たない正しさを、私は以前なら捨てなかった。
今は、時間の浪費に見えた。
私は報告書の欄へ書いた。
『住民からの明確な要望なし』
筆を置く。
正確な文章だった。
その正確さだけが、ひどく寒かった。




