第90話 生まれてこなければ
アレンのいない最初の誕生日は、雪の日になった。
窓の外は白い。
領主館の屋根。
庭。
市場へ続く道。
雪が音を吸い、家の中まで静かだった。
「本日は、公務を午後までに終えております」
クレアが言う。
「夕食を、皆様と」
「必要ありません」
「盛大な会ではございません」
「祝う理由が」
言いかけて止める。
クレアは、手にした服を畳んだまま待っている。
「皆が準備したのですね」
「はい」
「では、参ります」
断れば、彼女たちを傷つける。
私はそれを正しく理解できる。
食堂には、四人分の席が用意されていた。
私。
クレア。
マリアンヌ様。
アニエス。
そして、一つだけ空いた席。
食器は置かれていない。
誰も座らない位置として、自然に残されていた。
壁には家族肖像画がある。
お父様。
アレン。
私。
クレア。
ガレス。
アニエス。
マリアンヌ様。
絵の中では全員が揃っている。
「お誕生日、おめでとうございます」
マリアンヌ様が言った。
声が少し震える。
「ありがとうございます」
私は礼を返す。
「本年も、国政と領地運営に尽力できるよう」
「そういう挨拶ではありません」
アニエスが静かに遮った。
いつもの快活さを抑えている。
「今日は、仕事の目標を聞きたいんじゃないの」
「では」
「生きていてくれて、よかったと伝える日」
胸が狭くなる。
以前、アレンはもっと簡単に言った。
私が生まれたから、会えたと。
誰も、その言葉を代わりに言わない。
言えば、私を傷つけると知っている。
卓には小さなケーキがある。
形は少し傾いている。
前の誕生日に皆が作った不格好なものへ似せている。
ただし、今回は崩れないようクレアが丁寧に焼いた。
上には蜂蜜と乾燥果実。
飾りは控えめ。
「皆で?」
私が尋ねる。
「はい」
クレアが答える。
「アニエス様が果実を、マリアンヌ様が蜂蜜を」
「私は混ぜるだけのつもりが、粉をこぼしました」
マリアンヌ様が言う。
笑うべきところなのかもしれない。
私は口元を動かした。
「ありがとうございます」
食卓の端には、昔の手巾も置かれていた。
最初の誕生日にクレアからもらったもの。
青い花の刺繍は、何度も洗って少し淡くなっている。
「新しいものと並べてお使いください」
「古い方も、まだ使えます」
「はい」
使えるから残すのではない。
あの日に触れられる物が、これしかないからだった。
贈り物も、小さいものだけだった。
クレアから、青い糸で刺繍した新しい手巾。
昔もらったものと同じ花。
マリアンヌ様から、辺境の学校で使う児童向けの歴史冊子。
アニエスから、丈夫な革表紙の手帳。
どれも、私が使えるもの。
役に立つもの。
以前なら、価値を計算し、返礼を考えた。
今は違う。
受け取る意味を知っている。
「大切にします」
正しく言えた。
「返礼は考えません」
アニエスの目が潤む。
「成長したわね」
「褒められる年齢ではありません」
「そういうところは変わらない」
食事が始まる。
温かいスープ。
焼いた根菜。
黒パン。
前の誕生日と同じ家族用の皿。
お父様が私へ渡したもの。
縁に小さな傷がある。
使い続けた証拠。
アレンの皿は、棚にしまわれている。
出さなかったことへ感謝すべきか、悲しむべきかわからない。
「学校の子どもたちからです」
マリアンヌ様が紙束を渡す。
誕生日の手紙。
曲がった文字。
絵。
銀髪の私らしき人物。
大きすぎる机。
横に、小さな家が描かれている。
『帰ってきてください』
一枚ずつ読む。
皆が私を生きる側へ引こうとしている。
その優しさが重い。
「読み上げましょうか」
クレアが尋ねる。
「自分で読みます」
最後まで読む。
礼を言う。
ケーキを切る。
一切れを自分の皿へ。
三人へ。
空席には置かない。
置けば、誰も食べないから。
蜂蜜は甘かった。
乾燥果実は少し固い。
味はわかる。
紅茶より、まだ感じられる。
「おいしいです」
私は言った。
三人の肩が、少し下がる。
彼女たちは、私が崩れないよう気を使っている。
盛大にしない。
アレンの言葉を代わりに使わない。
無理に笑わせない。
私が望めば終えられるよう、料理も少ない。
すべて正しい。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「セラフィーナ様」
マリアンヌ様が小さな箱を差し出す。
「これは、贈り物ではありません」
中には、古い紙片が入っている。
前の誕生日の記録。
クレアが書いた献立表。
誰が何を持ってきたか。
アレンが飾りを失敗したこと。
ガレスと口論したこと。
当日の事実だけ。
「保管庫で見つけました」
「なぜ、今日」
「お渡しするべきか迷いました」
「ありがとうございます」
私は紙を持つ。
アレンの筆跡はない。
けれど、彼がそこにいた時間の記録だった。
視界が揺れる。
私は紙を卓へ置く。
「皆様のご厚意へ、感謝いたします」
国家指導者としての声が出る。
「今後も、アルヴェリアの安定と、ハルフォード領の発展へ」
「セラフィーナ様」
クレアが止めた。
「演説は必要ございません」
「ですが、何か返さなければ」
「お礼は、もういただきました」
「それでは足りません」
「足りなくてよいのです」
以前、アレンも同じことを言った。
好きという言葉へ、同じ量を返さなくてよいと。
席の向こうを見る。
空いている。
彼がいれば、何と言うか。
私は知らない。
新しい言葉は作れない。
知っているのは、誰も私を短い名前で呼べないことだけ。
クレアは「セラフィーナ様」。
マリアンヌ様も。
アニエスは「セラフィーナ」。
誰も、その短い愛称では呼ばない。
その二文字の音は、アレンと一緒に消えた。
「少し、疲れました」
私は言った。
「お開きにいたしますか」
「いいえ」
一人になれば、もっと苦しい。
「ここにいてください」
三人はうなずいた。
誰も励まさない。
誰も、アレンの代わりになろうとしない。
私たちは同じ卓に座ったまま、雪を見る。
時間だけが進む。
蝋燭が短くなる。
ケーキの切り口が乾いていく。
空席は空いたまま。
「私は、生まれてきてよかったのでしょうか」
自分の声が聞こえた。
クレアの手が動く。
けれど、すぐに答えない。
「アレンと会えたことは、よかったです」
私は続ける。
「彼が私を家へ連れてきたことも。皆様と会えたことも」
「はい」
マリアンヌ様が応じる。
「ですが」
呼吸が浅くなる。
言ってはいけない言葉だとわかっている。
皆を傷つける。
生きていてほしいと思ってくれる人を、否定する。
それでも、胸の底から浮かぶ。
「アレンに会えないのなら、生まれてこなければよかった」
声は大きくなかった。
怒りもない。
底が抜けた場所へ、言葉が落ちた。
誰も否定しなかった。
クレアが私の隣へ椅子を動かす。
マリアンヌ様が反対側へ。
アニエスは卓越しに手を伸ばし、私の指へ触れた。
「ごめんなさい」
私は言う。
「謝らなくていい」
アニエスの声がかすれる。
「今は、そう思ってるんでしょう」
「はい」
「なら、私たちはここにいる」
説教もない。
明日には変わるという約束もない。
ただ、三人が残る。
空席は埋まらない。
それでも、私の隣の席は埋まった。
私は三人の手の温度を感じながら、それでも空席から目を離せなかった。
雪は夜まで降り続いた。
誕生日の蝋燭は、吹き消さなかった。
燃え尽きる前にクレアが静かに消した。
私たちは、誰も立ち上がらないまま、暗くなった卓を囲んでいた。




