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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第八部 あなたのいない世界

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第89話 味のしない紅茶

 夜、私は茶葉の缶を卓の中央へ置いた。


 アレンと使っていたもの。


 蓋の縁に小さなへこみがある。


 彼が一度落とした時についた。


 隣へポット。


 湯差し。


 茶漉し。


 砂時計。


 白いカップを二つ並べかけ、手を止める。


 一つを棚へ戻した。


 前の夜に命じたことは、胸の奥へ押し込めた。


 男は死んだ。


 公的な記録はない。


 封印した命令書だけが金庫にある。


 今夜は紅茶を淹れる。


 それだけを考える。


 水を量る。


 いつもと同じ井戸水ではない。


 王都の官邸へ運ばれる水。


 だから、あの味にならないのかもしれない。


 私は一度沸かし、器具を温める。


 ポットへ湯を回す。


 捨てる。


 茶葉を量る。


 小匙二杯。


 アレンは少し多めに入れた。


 正確に量らず、指先の感覚で足していた。


 私は小匙の先へ、ごく少量を加える。


 湯を注ぐ。


 砂時計を返す。


 細い砂が落ちる。


 三分。


 記憶では、それくらいだった。


 けれど、彼は会話の途中で時間を忘れることもあった。


 長く蒸らした夜もある。


 短かった朝も。


 同じ味ではなかったはずだ。


 それなのに、私は同じ味を探している。


 砂が落ちきる。


 カップへ注ぐ。


 色は正しい。


 香りも似ている。


 一口飲む。


 違う。


 薄い。


 私は捨てた。


 二度目。


 茶葉を少し増やす。


 湯の温度を下げる。


 沸騰してから十数える。


 一、二、三。


 声には出さない。


 砂時計を返す。


 今度は三分半。


 注ぐ順番も変える。


 最初の一滴と最後の一滴を混ぜる。


 飲む。


 渋い。


 違う。


 捨てる。


 私は記録帳を開いた。


 以前、クレアが厨房の消費量を記したもの。


 同じ茶葉を使った夜の日付が残っている。


 雨漏りの夜。


 洪水の後。


 王都から戻った日。


 結婚式の翌朝。


 茶葉の量は、記録されていない。


 必要だったのは在庫数だけだから。


 私は余白へ、自分の記憶を書いた。


『少し濃い』


『湯気が長く残った』


『会話の途中で冷めた』


 味を再現するための記録のはずが、残るのは夜の形だけだった。


 三度目。


 水を替える。


 厨房から新しい水を運ばせる。


 器具を洗う。


 ポットを温める。


 茶葉を量る。


 蒸らす。


 注ぐ。


 飲む。


 違う。


「セラフィーナ様」


 扉の近くにクレアが立っていた。


 いつからいたのかわからない。


「お手伝いいたしましょうか」


「大丈夫です」


 言ってから、訂正する。


「大丈夫ではありませんが、私がします」


「承知しました」


 クレアは近づかない。


 卓の上には、使った茶葉が三つの皿へ分けられている。


 濃さを比較するため。


 私は四度目を始める。


「茶葉が古いのでしょうか」


「同じ缶でございます」


「保存方法は」


「乾燥した棚へ。以前と変えておりません」


「水が違います」


「ハルフォード領から運ばせますか」


「それでは遅いです」


「数日で届きます」


「今夜、飲みたいのです」


 自分の声が幼く聞こえた。


 私は視線を落とす。


「申し訳ありません」


「謝る必要はございません」


「クレアが淹れてください」


「よろしいのですか」


「手順が違えば、原因がわかります」


 彼女は静かに道具を受け取った。


 湯を温める。


 茶葉を量る。


 蒸らす。


 動きは正確だった。


 私より滑らか。


 カップへ注ぐ。


「どうぞ」


 飲む。


 おいしい。


 香りも、濃さも整っている。


 けれど、違う。


「違います」


「はい」


 クレアは驚かなかった。


「なぜ」


「私が淹れましたので」


「アレンと同じ手順なら」


「同じ手順ではございません」


「では、教えてください」


「私には、アレン様がどのように淹れていたか、すべてはわかりません」


 答えは正しい。


 私は椅子へ座る。


 向かいの席が空いている。


 そこへカップを置く必要はない。


 一杯しかないから。


「彼は、茶葉を何杯入れていましたか」


「決まっていなかったかと」


「湯の温度は」


「毎回、少し違いました」


「蒸らす時間は」


「お話をされながらでしたので」


「では、同じ味ではなかった?」


「はい」


「それなのに、私は覚えています」


 味を。


 温度を。


 香りを。


 彼が淹れた紅茶だと、すぐわかる何かを。


「舌が覚えているのではないのかもしれません」


 クレアが言う。


「では、何が」


 彼女は答えなかった。


 私は空席を見る。


 アレンは仕事をしていた。


 書類を読む。


 私が話す。


 手を止める。


 立ち上がる。


 湯を沸かす。


 茶葉を探す。


 時々、缶を間違える。


 カップを二つ運ぶ。


 その行動は、記憶にある。


 彼の新しい言葉は作れない。


 けれど、何度も見た手の動きは残っている。


 私が疲れていると、彼は仕事を止めた。


 急いでいる夜でも。


 報告書が山積みでも。


 紅茶のために数分。


 私のために数分。


 向かいの席へ座るために、時間を使った。


 味は毎回違った。


 薄い日も。


 渋い日も。


 少し冷めた日も。


 それでも、私はおいしいと思った。


 空席の椅子を少し引く。


 脚が床を擦る音がした。


 以前は、アレンが座る前にも同じ音がした。


 私が報告を続け、彼が椅子を引き、カップへ手を伸ばす。


 覚えているのは、言葉より動きだった。


 私の話が長くなっても、彼は時計を見なかった。


 途中で書類へ戻る夜もあった。


 それでも、一度は顔を上げた。


 私がそこにいることへ、時間を使った。


 今は椅子を引いても、誰も座らない。


 音だけが部屋へ残る。


「欲しかったのは、紅茶ではありませんでした」


 口にすると、息が詰まった。


 クレアは黙っている。


「アレンが、私のために手を止める時間でした」


 湯気が目の前を揺らす。


「私が帰るまで待っている時間」


 声が続かない。


「同じ卓へ座る時間」


 胸の奥へ押し込めていたものが、動く。


 違法な命令。


 秘密の拘束。


 裁判なき処刑。


 私は男を殺した。


 それでも、アレンの時間は戻らなかった。


 紅茶の味も。


「私は、何をしたのでしょう」


 クレアの顔が少し変わる。


 すべてを知らない。


 私が語らないから。


「何か、ございましたか」


「いいえ」


 嘘をついた。


 最初の越境の後、初めて。


 クレアへ。


「紅茶が、同じにならないだけです」


 彼女は私を見た。


 問い詰めない。


「もう一度、お淹れしますか」


「いいえ」


 私は冷め始めた一杯を持つ。


 飲めない。


 味がない。


 正確には、味を感じる場所へ届かない。


「下げましょうか」


「このままで」


 クレアは退室しなかった。


 壁際に立つ。


 私は空席へ話す。


「今日は、国境税の報告がありました」


 返事はない。


「学校の冬支度も」


 返事はない。


「アレン」


 呼ぶ。


 誰も短い名前で私を呼び返さない。


 砂時計の砂は落ちきっている。


 裏返せば、また三分が始まる。


 けれど、彼が使った時間には戻れない。


 夜が深くなる。


 紅茶は完全に冷めた。


 私は一口も飲みきれなかった。


 私は四杯分の失敗を片づけた。


 茶葉を捨てるたび、わずかな香りが立つ。


 クレアは最後まで手伝わず、私が終えるのを待った。


「待つのは、苦しくありませんか」


 私が尋ねる。


「苦しくても、お待ちします」


 その答えに、視線を上げられなかった。


 誰かが自分へ使う時間は、まだここにある。


 それを受け取ることさえ、今の私には痛かった。


 卓の端に置かれた日程表へ目をやる。


 数日後の日付に、小さな印がある。


 私の誕生日。


 以前は、アレンが生まれてきたことを祝ってくれた日。


 今度は、その声がない。


 私は日程表を伏せた。


 冷めたカップだけが、朝まで卓上に残った。

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