第87話 法が許した男
「被告人を、直ちに釈放します」
裁判官の声は、よく通った。
法廷の高い天井へ届き、石壁に反響し、私の耳へ戻ってくる。
直ちに。
釈放。
言葉の意味は明確だった。
暗殺計画への関与を疑われた男は、拘束具を外される。
花束列の偽造許可証を仲介した可能性がある。
武器商人と会っていた。
実行犯へ宿を紹介した者とも接触していた。
それでも、殺害計画を知っていたと証明する証拠はなかった。
「検察側が提出した記録は、被告人が複数の関係者と面識を持っていたことを示します」
裁判官は判決理由を読み上げる。
「しかし、面識と共謀は同一ではありません。金銭授受の目的も特定されておらず、被告人の供述を崩す客観証拠は不足しています」
傍聴席から低い声が漏れる。
「怪しいに決まっている」
「また逃がすのか」
「ハルフォード卿を殺した連中だぞ」
静粛を求める槌が鳴った。
私は前列に座っていた。
法務委員として。
被害者遺族として。
二つの立場は、同じ椅子に座っていても重ならない。
法務委員の私は、判決理由を理解している。
証拠は足りない。
推測で有罪にはできない。
被害者遺族の私は、男の手を見ていた。
拘束具から解放された手。
自由になった指。
その指が、許可証を渡したのではないか。
その手が、短銃を運ぶ荷を指したのではないか。
答えは出ない。
「ローゼンフェルト公爵令嬢」
裁判官に呼ばれ、私は立った。
「判決について、法務委員として異議はありますか」
口の中が乾いていた。
「ありません」
自分の声が、遠く聞こえる。
「手続きと証拠評価は適正です」
「ありがとうございます」
男がこちらを見た。
勝ち誇った表情ではない。
怯えている。
私が権力を使えば、法廷の外で何かできると知っている顔だった。
それが、腹立たしかった。
私は法を守る。
だから彼は怯えなくてよい。
そう言うべきだった。
言えなかった。
閉廷後、廊下には市民が集まっていた。
男が出てくると、怒号が飛ぶ。
「人殺し!」
「証拠がないだけだ!」
「顔を覚えたぞ!」
護衛が壁を作る。
男は肩をすぼめ、出口へ急ぐ。
「道を空けてください」
私は言った。
声は大きくなかった。
それでも、人々がこちらを見る。
「裁判所の判断です。暴力は許しません」
「セラフィーナ様」
年配の女が前へ出た。
国葬の日に見た顔だった。
「本当に、あの男を帰すのですか」
「はい」
「怪しいのに」
「疑いだけでは拘束できません」
「次に誰かが殺されたら?」
答えは用意していた。
「新しい証拠が出れば、改めて捜査します」
「それまで自由に?」
「はい」
女の目に、失望が浮かぶ。
「ハルフォード卿なら、それでいいと言ったのでしょうか」
胸の内側に鋭いものが入る。
「アレンの答えを、私が代わりに作ることはできません」
私は言った。
「ですが、彼が関わって作った法は、そう定めています」
「法が間違っているかもしれない」
「その可能性はあります」
「なら直してください」
「一人を処罰するためだけに直せば、次は別の誰かへ使われます」
女は唇を噛んだ。
「難しいことはわかりません」
「はい」
「でも、納得できません」
「納得できなくても、意見を記録します」
それしか言えなかった。
怒りを消す言葉はない。
男は護衛に囲まれ、階段を下りる。
廊下の窓から秋の光が差す。
外には馬車が一台待っていた。
誰かが準備したらしい。
「彼の行き先は」
私は法務官へ尋ねた。
「王都内の宿です。その後は未定と」
「監視は?」
「釈放された以上、常時監視には令状が必要です」
「申請は」
「新たな根拠がありません」
法務官の答えは正しい。
すべて正しい。
正しい言葉が、今日は人を守らず、逃がしているように見えた。
マリアンヌ様が隣に立つ。
「セラフィーナ様」
「はい」
「お帰りになりますか」
「まだ記録があります」
「判決記録は法務官が」
「確認します」
男を見送るために残っているのではない。
そう自分へ説明する。
馬車の扉が閉まった。
車輪が動く。
群衆の間から、小石が投げられた。
馬車の側面へ当たり、乾いた音を立てる。
「投げた者を拘束しないでください」
私は即座に言った。
「警告と記録だけで」
「承知しました」
法を守る。
男にも。
怒る市民にも。
私はそうしてきた。
それなのに、馬車が角を曲がって見えなくなった時、胸の中に残ったのは敗北だった。
法廷へ戻る。
傍聴席は空になっている。
被告席も。
卓上には、使用されなかった拘束具の跡だけがある。
「判決書を」
法務官が渡す。
私は一行ずつ読み直した。
証拠不十分。
合理的疑い。
無罪推定。
釈放。
どれも必要な言葉だ。
アレンは、憎まれた者にも裁判を受ける権利がある国を望んだ。
私も同じ言葉を国葬で誓った。
だから、これは正しい。
正しいはずだった。
「セラフィーナ様」
マリアンヌ様が、まだ近くにいた。
「何か、気になることが?」
「彼は、関与していたと思いますか」
「私には判断できません」
「可能性は」
「高いと思います」
彼女も、そこは否定しない。
「ですが、有罪と確定できません」
「はい」
「法は、可能性の高い者を自由にしました」
「法は、証拠のない処罰を止めました」
言い換えられる。
同じ事実が、違う顔を持つ。
「兄上の裁判でも、暗殺への直接関与は無罪でした」
マリアンヌ様が続ける。
「私は苦しかった。それでも、必要な判断でした」
「わかっています」
「今日も」
「わかっています」
声が強くなった。
彼女は黙る。
「申し訳ありません」
「いいえ」
マリアンヌ様は首を振った。
「今日は、そばにおります」
「必要ありません」
「必要かどうかではなく、私がいたいのです」
以前、私がアレンへ言った言葉に似ていた。
胸が痛む。
私は拒まなかった。
二人で法廷を出る。
廊下の突き当たりに、冷めた紅茶が置かれていた。
休憩中に用意されたものだ。
一杯だけ。
私は手を伸ばさない。
「法が彼を許したのではありません」
マリアンヌ様が言った。
「有罪と証明できなかっただけです」
「市民には、同じに見えます」
「セラフィーナ様には?」
答えられない。
許されたように見えた。
アレンのいない世界で、彼を奪う手助けをしたかもしれない男が、自由に外へ出た。
私は止めなかった。
止めてはいけなかった。
その夜、執務室へ戻っても、判決書の文言が離れなかった。
机の向かいには空席がある。
私は一人分の紅茶を淹れた。
口をつけず、窓を見る。
通りの灯りが一つずつ消えていく。
法は、アレンが残した境界だった。
その境界を守れば、いつか彼の前へ立った時、私はまだ同じ国を守ったと言える。
けれど、境界の向こうであの男が歩き去る背中を見た瞬間、別の考えが生まれた。
アレンを奪った者を見逃す法律を、彼は本当に望んだのだろうか。
答えを作ってはいけない。
わかっているのに、沈黙を都合のよい許可へ変えたくなった。
法は、私の怒りを止めた。
それが正しい。
それなのに、初めて私は思った。
法が正義へ届かない時、誰が残りを埋めるのだろう。
答える声はなかった。




