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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第八部 あなたのいない世界

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82/113

第82話 彼の法律で

「拷問は許可しません」


 捜査会議室で、私は最初にそう言った。


 卓上には、暗殺事件の資料が並んでいる。


 現場図。


 短銃。


 火薬の袋。


 花束を包んでいた布。


 容疑者の供述。


 目撃者の記録。


 どれも、アレンの死を細かく分解した紙だった。


「ですが、実行犯は黙秘しています」


 捜査官が答える。


「黙秘は権利です」


「背後に組織がある可能性が高い」


「可能性で身体を傷つけることはできません」


「次の暗殺が起きたら?」


「危険を防ぐための拘束と、供述を得るための拷問は別です」


 私は文書を一枚取った。


「現行法で認められる勾留期間。弁護人との面会。医師の診察。すべて守ってください」


 捜査官は唇を引き結ぶ。


「夫君を殺した者にも?」


 部屋が静かになる。


 私は指輪へ触れなかった。


 触れれば、声が変わる気がした。


「誰を殺したかで、法を変えません」


「国の指導者への暗殺です」


「だから、国家犯罪として捜査します」


「特別法を」


「作りません」


 言葉を重ねるたび、胸の奥が冷える。


 私は正しいことを言っている。


 アレンが聞けば、うなずくはずだ。


 その想像へ返事はない。


「違法逮捕も認めません」


 次の資料を示す。


「旧王党派の名簿だけで、全員を拘束する案は撤回してください」


「名簿に載る者の一部が、実行犯へ資金を」


「一部です」


「逃亡されます」


「具体的な証拠がある者には、裁判所へ令状を請求してください」


「時間がかかる」


「かかります」


 私は答えた。


「時間を省くために法を捨てれば、捜査そのものが報復になります」


 マリアンヌ様が、卓の向こうで静かにうなずく。


 彼女は兄を裁判へ送った。


 私よりも前に、家族と法の間に立った人だ。


「処刑を求める請願が、すでに二万を超えています」


 別の役人が言う。


「実行犯だけではありません。旧王党派の幹部、警備担当者、武器商人。まとめて死刑にと」


「請願は受け取ります」


「応じないのですか」


「請願は判決ではありません」


「民意です」


「民意が、証拠のない者の刑を決めるなら、裁判所は不要になります」


 王太子の失脚時、アレンが同じことを言った。


 怒る権利はある。


 私刑をする権利はない。


 私は、その言葉を記録でしか聞けない。


 彼の声では、もう聞けない。


 被害者家族からの要望書も読み上げられた。


『犯人を一刻も早く処刑してほしい』


『裁判を待てない』


『なぜ食事と医師を与えるのか』


 どれも、怒りとして理解できた。


 私も同じ問いを自分へ向けている。


「回答は、どうしますか」


 役人が尋ねる。


「権利保障は、被告人への褒賞ではないと説明してください」


「被害者側には、冷たい言葉に聞こえます」


「では、私の署名を入れます」


 私は文案を書き直した。


『私も、待つことを苦痛に感じています。それでも、急いだ誤判は取り返せません。法が憎む相手にだけ適用されないなら、法ではありません』


 書き終えると、指先が震えていた。


 役人は文書を受け取り、静かに頭を下げた。


「そのまま届けます」


 会議は昼まで続いた。


 警備担当者の過失。


 短銃の流通経路。


 花束を渡す列へ入るための許可証。


 実行犯へ宿を提供した者。


 金の受け渡し。


 一つずつ、証拠の強さを分ける。


「この証言は、拘束中に殴打を受けた後のものです」


 私は記録へ印をつけた。


「証拠から除外します」


「内容が真実でも?」


「違法な手段で得た供述を採用すれば、捜査官は次も同じことをします」


「殴った者は処分します」


「それだけでは足りません。供述も使いません」


 捜査官の一人が立ち上がった。


「では、我々に何をしろと!」


 机が揺れる。


「仲間が広場で殺された! 次の犯人を止めるため、使えるものを使うのが仕事だ!」


 ガレスではない。


 若い捜査官だった。


 目の下に深い隈がある。


 彼も、式典の警備にいたのだろう。


「座ってください」


 私は言った。


「答えてください!」


「あなたの怒りを否定しません」


「なら」


「怒りを捜査方法にしないでください」


 彼の拳が震える。


「アレンは、あなた方を信じました」


 口にしてから、息が止まる。


 彼の名前を公務で使った。


 それでも続ける。


「信じたからこそ、監督される仕組みを作りました。善意だけでは、人を傷つけるからです」


 捜査官は座った。


 しばらくして、小さく言う。


「……申し訳ありません」


「謝罪は、殴打された容疑者へ」


「はい」


 廊下では、拘束から解かれた男が家族と抱き合っていた。


 旧王党派の集会へ一度参加しただけで逮捕され、証拠不十分と判断された者だ。


 妻は泣きながら、何度も彼の顔へ触れている。


 私に気づくと、二人は身を固くした。


「帰ってください」


 私は言った。


「ですが、私は」


「釈放命令が出ています」


「夫君を殺した者たちと、同じ集会に」


「参加したことと、殺人への関与は同じではありません」


 男の妻が、深く頭を下げた。


 私は礼を求めていない。


 ただ、その家では今夜、向かいの席が空かない。


 それでよい。


 釈放文書の束には、私自身への批判を書いた者の名もあった。


 それでも、証拠がないなら帰す。


 支持者だけを守る法律ではない。


 その一行へ署名する時、手は少しだけ重かった。


 会議後、私は尋問記録の閲覧室へ移った。


 窓のない部屋。


 紙とインクの匂い。


 向かいの椅子が一つ空いている。


 以前なら、アレンが座り、難しい法律用語を現場の言葉へ直してくれた。


 私は紅茶を一杯だけ置いた。


 二杯目は用意しなかった。


 それが、朝より痛かった。


 クレアが書類を運んでくる。


「お食事を」


「後で」


「昨日も同じことを」


「まだ記録が」


「セラフィーナ様」


 呼ばれる。


 その名前の長さが、胸へ刺さる。


 アレンだけが使った短い名前は、どこにもない。


「食べます」


 私は書類を閉じた。


 クレアは何も褒めない。


 いつもの皿を置く。


 パンとスープ。


 アレンがいなくても、食事の時間は来る。


「クレア」


「はい」


「私が、法を守れているか見ていてください」


 彼女の手が止まる。


「承知しました」


「もし、越えたら」


「お止めいたします」


「私が命じても?」


「はい」


 即答だった。


 私はうなずく。


 食後、会議室へ戻った。


 拷問禁止の命令書。


 違法逮捕の撤回。


 証拠なき処刑要求の却下。


 一枚ずつ署名する。


 アレンが作った法律。


 正確には、彼一人が作ったのではない。


 皆で議論し、反対を記録し、決めた法律。


 法を守ることは、国のためだけではなかった。


 彼がいない世界で、彼に触れられるものがほかにない。


 条文を読み、反対意見を残し、証拠のない罪を退ける時だけ、私はまだアレンの隣に立てる。


 そう信じなければ、空席へ戻ることができなかった。


 私はその内側にいる。


 今は、まだ。


 最後の文書へ印を押す。


「彼の法律で、裁きます」


 誰へ言ったのか、自分でもわからなかった。


 返事はなかった。

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