第81話 国中が泣いた日
国葬の日、王都の鐘は朝から鳴り続けていた。
低く、長い音。
一つの鐘が終わる前に、別の鐘が重なる。
窓を閉めても聞こえた。
「お支度が整いました」
クレアが黒い外套を持っている。
私は鏡の前に立った。
髪は、彼女がいつも通り整えてくれた。
結婚式前夜と同じ手順だった。
梳く。
分ける。
編む。
留める。
違うのは、白百合がないこと。
「髪飾りは」
クレアが問う。
机には、銀色の葉の髪飾りが置かれている。
アレンが市場で選んだもの。
「つけてください」
「承知しました」
指先が髪へ触れる。
銀の葉が留められる。
黒い服の中で、そこだけが小さく光った。
国葬会場へ向かう馬車の窓から、道の両側が見えた。
人が並んでいる。
王都の市民。
地方から来た農民。
兵士。
商人。
子ども。
白い花を持つ者。
黒い布を腕へ巻く者。
誰も歓声を上げない。
馬車が通ると、皆が頭を下げる。
私は窓を閉じなかった。
泣き声が聞こえる。
アレンの名を呼ぶ声。
会ったことのない人もいるだろう。
それでも泣いている。
「皆、アレン様に救われたと思っています」
クレアが言う。
「彼は、自分が救ったとは言わないでしょう」
「はい」
「水車も、学校も、橋も、皆で作ったと」
「おっしゃるでしょう」
だから、私は演説で彼を一人の英雄にしないと決めていた。
彼が嫌がる。
そう考えると、胸が止まりそうになる。
彼はもう、嫌がらない。
会場は王都中央広場に設けられていた。
白い布を張った壇。
その中央に棺。
蓋は閉じられている。
彼の顔を市民へ見せる案もあった。
私は拒んだ。
見世物にしたくなかった。
棺の上には、ハルフォード領の土と、白百合が置かれている。
ガレスが棺の脇に立っていた。
軍礼はしない。
剣も捧げない。
アレンは王にならなかった。
軍人として死んだのでもない。
だから、領民が使っていた麦の穂と、学校の子どもが書いた木札を置いた。
『おかえり』
文字は少し曲がっていた。
私は壇へ上がった。
マリアンヌ様が左に。
暫定議会の代表が右に。
アニエスは商人たちの列にいる。
クレアは壇の下。
皆の顔に涙の跡がある。
私だけが泣いていないように見えたかもしれない。
涙が出ないのではない。
出せば、声が出なくなる。
最初に、子どもが作文を読んだ。
「ハルフォード卿は、帰ってきていいと言ってくれました」
声が震える。
「だから、僕も、誰かにそう言える人になります」
少年は紙を折り、棺へ置いた。
次に、負傷した元王国兵が話した。
「敵だった私たちへ、同じパンを渡した方です」
商人。
裁縫室の女性。
王都の配給係。
一人ずつ、彼がしたことを話す。
どれも大きな英雄譚ではない。
パンを渡した。
話を聞いた。
失敗を認めた。
帰る場所を残した。
その積み重ねが、広場を埋めていた。
私の番が来る。
演台へ立つ。
紙は持たなかった。
昨夜、何度も書いた。
どの文章も、アレンを失った事実を説明できなかった。
「アレン・ハルフォードは」
声が一度止まる。
広場は静かだった。
「一人で国を救った英雄ではありません」
人々が顔を上げる。
「彼は、誰か一人が国を救うという考えを拒みました」
私は棺を見る。
「自分が正しい時にも、人の話を聞きました。間違えた時には、逃げずに謝りました。助ける時には、相手へ従うことを求めませんでした」
風が白い布を揺らす。
「私も、彼に救われた一人です」
喉が痛む。
「ですが、彼は私を所有しませんでした。彼の正しさへ従えとも言わなかった」
だから、私は自分で選べた。
彼を。
家を。
国を。
「彼を殺した者へ、怒りがあります」
広場の空気が硬くなる。
「私の中に、復讐したいという気持ちがないと言えば、嘘になります」
マリアンヌ様がこちらを見る。
ガレスは棺の横で動かない。
「それでも、私は法を守ります」
言葉を置く。
「拷問は行いません。証拠のない者を逮捕しません。群衆の怒りで人を処刑しません」
広場の一部から、低いざわめきが起きた。
犯人をすぐ殺せという声は、すでに届いている。
「アレンが作った国は、愛された者だけを守る国ではありません」
私は続ける。
「憎まれた者にも、裁判を受ける権利があります」
自分へ言い聞かせるように聞こえたかもしれない。
実際、そうだった。
「彼を殺した者を、彼が拒んだ方法で裁くことはしません」
誰かが泣き声を上げた。
それが広場へ広がる。
私は演台の縁を握った。
「捜査は公開可能な範囲で記録します。証拠は独立した法務官が確認します。私自身は被害者遺族であり、単独で刑を決めません」
暫定議会の代表がうなずく。
「私が法を越えようとした時は、止めてください」
この言葉を言うのは怖かった。
自分が越える可能性を認めることになる。
けれど、アレンならそうする。
自分も間違えるから、止める制度を作る。
「これは、彼への復讐をしないという誓いではありません」
広場へ向けて言う。
「法による裁き以外を、復讐と呼んで実行しないという誓いです」
鐘が鳴った。
演説の終わりを示す合図。
私は棺へ歩み寄る。
白百合の横へ、婚約時から持っていた小さな銀の鍵を置いた。
お父様が、食料庫の予備として渡してくださった鍵。
家族は、腹が減った時に開けられる方がよいと。
アレンが持っていた鍵は、今も領主館にある。
私のものだけを置く。
「あなたの家は、私が守ります」
声には出さなかった。
言えば、返事を待ってしまう。
葬列が動き始める。
国中から集まった人々が、棺の後ろへ続く。
王都の大通りには、窓から白い布と麦の穂が垂れていた。
人々は泣いた。
兵士も。
子どもも。
マリアンヌ様も。
ガレスは前を向いたまま、何度も目を拭った。
アニエスは泣きながら、列が滞らないよう商人たちへ指示を出していた。
クレアは私の半歩後ろを歩く。
「セラフィーナ様」
「はい」
「お足元を」
石畳に段差があった。
以前なら、アレンが先に気づいて手を差し出した。
私は自分で裾を持ち上げ、越えた。
葬列が終わり、棺は墓所へ運ばれた。
私は最後まで見送った。
土が一握りずつ落とされる。
音は小さい。
けれど、そのたび胸の内側へ重いものが積もった。
夕方、国葬会場へ戻ると、演台の上に捜査開始の文書が置かれていた。
私は署名する。
合法的な捜査。
独立した審理。
容疑者の権利保障。
すべて、自分で読み直した。
「これでよろしいですか」
法務官が尋ねる。
「はい」
羽根ペンを置く。
この法律の中には、アレンが人へ向けた信頼が残っている。
紙の文言に彼の声があるわけではない。
それでも、私が法の内側を歩く限り、彼が選んだ道から離れずにいられる気がした。
それは正義であると同時に、彼との最後のつながりだった。
「彼の法律で、追ってください」
広場の鐘は、もう鳴っていなかった。
国中が泣いた日が終わる。
私の仕事だけが、残った。




