第80話 彼のいない朝
アレンが死んだ、と皆は言った。
私は、その言葉をまだ理解していなかった。
正しくは、理解することを拒んでいた。
広場から領主館へ戻る馬車の中で、私はアレンの手を握り続けた。
指は冷たかった。
けれど、夜気に当たったせいだと思った。血を失えば体温が下がると、医師も言っていた。ならば、温めればよい。
「毛布を、もう一枚」
声が出た。
広場で叫び続け、喉は裂けたように痛んでいた。それでも命令の形にすれば、言葉は出た。
クレアが白い毛布を差し出す。
私はアレンの胸元へ掛けた。
「寒いでしょう」
胸は動かなかった。
「もうすぐ着きますから」
返事はなかった。
馬車の車輪が石を踏むたび、アレンの肩が小さく揺れた。眠っている人が道の悪さに困っているように見えた。
「もっと静かに走らせてください」
御者台へ言う。
馬車が遅くなる。
それでよかった。
ゆっくり帰れば、アレンが目を覚ます時間が増える。
領主館の門が開いた。
使用人たちが玄関前に並んでいる。
泣いている者がいた。
私は、その理由がわからなかった。
「泣くのは後にしてください」
私の声に、全員が顔を上げる。
「アレンが休めません」
誰も答えなかった。
担架が降ろされる。
アレンの髪に、白い花びらが一枚ついていた。
「待って」
私はそれを取った。
指先が髪へ触れる。
いつもと同じ柔らかさだった。
それなのに、頭皮の下にある温度だけがない。
「お部屋へ」
「セラフィーナ様」
クレアが横へ立つ。
「医師が、正式な確認を」
「確認は済んでいます」
「死亡時刻と傷の記録が必要です」
死亡。
その語だけが、耳の中で異物になった。
「その言葉を使わないでください」
クレアの唇が震える。
「ですが」
「アレンは帰ってきました。まず休ませます」
私は担架の横を歩いた。
廊下に、彼の靴音がない。
階段を上がる時も、私の歩幅へ合わせてくれる足音がない。
寝室の扉が開く。
昨日まで、二人の部屋だった。
窓辺に読みかけの書類。
椅子の背に上着。
卓には、昨夜使った茶器。
二つのカップは洗われ、伏せて置かれている。
何一つ変わっていない。
変わったのは、アレンが自分で歩いて入ってこないことだけだった。
「寝台へ」
使用人たちが彼を横たえる。
靴紐へ手が伸びた。
「私がします」
「セラフィーナ様、こちらは」
「妻の仕事です」
誰も逆らわなかった。
私は紐を解いた。
靴には土と、潰れた花びらがついている。
布で拭う。
右。
左。
いつもなら、アレンは自分でやると言う。
「今日は、私にさせてください」
返事を待つ。
聞こえない。
「一度くらい、妻らしいことをさせてくださってもよいでしょう」
聞こえない。
外套を外す。
服の胸元は黒く固まっていた。
血の匂いがする。
私の袖にも、同じ色が広がっている。
クレアが着替えを勧めた。
「嫌です」
「そのままでは、お身体が冷えます」
「これはアレンの血です」
声が震えた。
「洗えば、なくなってしまいます」
クレアは何も言わなかった。
湯と布を用意してくれた。
私はアレンの手を拭く。
指の間の土。
爪の端の茶葉の色。
結婚指輪。
「少し、力を抜いてください」
指が硬い。
一本ずつ開こうとする。
「痛いでしょう」
動かない。
「ごめんなさい。すぐ終わります」
自分の指を、その手へ絡めた。
握り返されない。
胸の奥で、広場の最後の音が蘇る。
乾いた発砲音。
アレンが倒れる音。
自分の絶叫。
私は息を吸った。
「クレア」
「はい」
「私が、うるさかったからでしょうか」
「何がでございますか」
「広場で、何度も名前を呼びました」
喉を押さえる。
「だから、アレンの声が聞こえなかったのでしょうか」
クレアの顔が崩れた。
「違います」
「では、なぜ返事を」
続けられない。
クレアは膝をついた。
「セラフィーナ様」
「言わないでください」
何を言おうとしたか、わかっていた。
もう返事はない。
もう起きない。
もう帰ってこない。
「今は、言わないで」
私はアレンの胸へ毛布を掛け直した。
枕を一つ抜く。
「高い枕は嫌いでしょう」
右足のところだけ、毛布へ少し余裕を作る。
「いつも、ここから出すから」
灯りを一つ残す。
「暗いと机へ膝をぶつけます」
窓を閉める。
「朝は冷えます」
全部、いつもの通りにする。
いつもの通りにすれば、朝もいつものように来る。
夜半、ガレスが扉の外へ来た。
「捜査の初動について、署名がいる」
「明日にしてください」
「現場は今夜しか残らん」
その声も掠れていた。
私は文書を受け取った。
現場封鎖。
証拠保全。
目撃者保護。
容疑者への暴行禁止。
文字は読める。
意味もわかる。
アレンの死だけが、わからない。
「犯人は」
「生きて捕らえた」
「そう」
胸の奥で、黒いものが動いた。
今すぐ会わせろ。
同じ痛みを与えろ。
なぜアレンが死に、あの男が息をしているのか確かめろ。
言葉になる前に、文書の最後を見た。
容疑者の権利を守る条項。
アレンたちと作った法律。
「手順どおりに」
私は署名した。
「拷問はしないでください」
ガレスが長く黙る。
「……わかった」
扉が閉じる。
私は寝台へ戻った。
「皆が、あなたの手順で仕事をしています」
報告する。
「だから、安心して休んでください」
アレンの頬へ触れる。
冷たい。
「休んだら、起きてください」
窓の外が白み始める。
朝だった。
帰宅した人へ、言わなければならない言葉がある。
私は昨夜、言えていない。
玄関で言えばよかった。
言わなかったから、アレンはまだ家へ帰ったことに気づいていないのかもしれない。
寝台のそばへ座る。
顔を見る。
目は閉じている。
胸は動かない。
それでも、私は微笑もうとした。
「おかえりなさい、アレン」
返事はなかった。
私は待った。
十を数えた。
百まで数えた。
「聞こえませんでしたか」
もう一度、言おうとする。
声が出ない。
喉から、息とも泣き声ともつかない音が漏れた。
「おかえりなさい」
今度は崩れた。
「帰ってきたのでしょう。だから、返事をしてください」
アレンの肩へ額を押しつける。
冷たい布。
動かない身体。
「私を罰しているのですか」
何のための罰かもわからない。
「守らせてくれなかったから。あなたを一人で前へ出したから」
返事はない。
「ごめんなさい」
何度言っても、返事はない。
泣き叫ぶことはできなかった。
叫べば、広場の続きになってしまう。
あの絶叫の先に、アレンの死が確定している。
私は立ち上がった。
「朝食の時間です」
クレアが私を見る。
「食堂へ参ります」
食堂には、家族肖像画がある。
絵の中のアレンは、私を見ている。
私は茶器を出した。
ポットを温める。
茶葉を量る。
二杯分。
湯を注ぐ。
砂時計を返す。
手は正確に動いた。
私が壊れても、覚えた手順は壊れない。
カップを二つ置く。
一つは私の前。
一つは、アレンの席。
「昨日、あなたが淹れると約束しました」
湯気の向こうへ話す。
「ですが、今日は私が淹れました」
返事はない。
「少し濃いかもしれません」
返事はない。
「飲んでから、文句を言ってください」
返事はない。
私は自分の紅茶を飲んだ。
味がしない。
「式典の報告をします」
向かいへ話す。
「負傷者はいません。子どもたちも無事です。あなたが守ったからです」
返事はない。
「ガレスが警備を見直します。アニエスは商人たちへ連絡を。マリアンヌ様は王都へ」
返事はない。
私は次々と報告した。
報告が尽きれば、沈黙だけになる。
だから、同じことを言い直した。
朝日が卓上を移動する。
湯気が薄くなる。
私のカップは半分減る。
アレンのカップは満ちたまま。
クレアが食堂へ入った。
壁際に立つ。
向かいのカップを下げない。
「冷めてしまいます」
私は言った。
返事はない。
「アレン」
呼ぶ。
「お願いですから、私を一人にしないで」
紅茶の表面は動かない。
私はカップへ手を伸ばし、途中で止めた。
代わりに飲めば、彼の分がなくなる。
残しておけば、帰ってきた時に飲める。
だから、触れない。
時間だけが進む。
紅茶が冷える。
朝が深くなる。
扉の外から役人の声がした。
「国葬準備について、ご決裁をお願いいたします」
国葬。
また、死を確定させる言葉。
私は冷めた二杯目を見た。
アレンの席を見た。
絵の中の彼を見た。
「入ってください」
声は、国家指導者のものだった。
私の中では、まだ広場の絶叫が終わっていなかった。




