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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第八部 あなたのいない世界

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80/113

第80話 彼のいない朝

 アレンが死んだ、と皆は言った。


 私は、その言葉をまだ理解していなかった。


 正しくは、理解することを拒んでいた。


 広場から領主館へ戻る馬車の中で、私はアレンの手を握り続けた。


 指は冷たかった。


 けれど、夜気に当たったせいだと思った。血を失えば体温が下がると、医師も言っていた。ならば、温めればよい。


「毛布を、もう一枚」


 声が出た。


 広場で叫び続け、喉は裂けたように痛んでいた。それでも命令の形にすれば、言葉は出た。


 クレアが白い毛布を差し出す。


 私はアレンの胸元へ掛けた。


「寒いでしょう」


 胸は動かなかった。


「もうすぐ着きますから」


 返事はなかった。


 馬車の車輪が石を踏むたび、アレンの肩が小さく揺れた。眠っている人が道の悪さに困っているように見えた。


「もっと静かに走らせてください」


 御者台へ言う。


 馬車が遅くなる。


 それでよかった。


 ゆっくり帰れば、アレンが目を覚ます時間が増える。


 領主館の門が開いた。


 使用人たちが玄関前に並んでいる。


 泣いている者がいた。


 私は、その理由がわからなかった。


「泣くのは後にしてください」


 私の声に、全員が顔を上げる。


「アレンが休めません」


 誰も答えなかった。


 担架が降ろされる。


 アレンの髪に、白い花びらが一枚ついていた。


「待って」


 私はそれを取った。


 指先が髪へ触れる。


 いつもと同じ柔らかさだった。


 それなのに、頭皮の下にある温度だけがない。


「お部屋へ」


「セラフィーナ様」


 クレアが横へ立つ。


「医師が、正式な確認を」


「確認は済んでいます」


「死亡時刻と傷の記録が必要です」


 死亡。


 その語だけが、耳の中で異物になった。


「その言葉を使わないでください」


 クレアの唇が震える。


「ですが」


「アレンは帰ってきました。まず休ませます」


 私は担架の横を歩いた。


 廊下に、彼の靴音がない。


 階段を上がる時も、私の歩幅へ合わせてくれる足音がない。


 寝室の扉が開く。


 昨日まで、二人の部屋だった。


 窓辺に読みかけの書類。


 椅子の背に上着。


 卓には、昨夜使った茶器。


 二つのカップは洗われ、伏せて置かれている。


 何一つ変わっていない。


 変わったのは、アレンが自分で歩いて入ってこないことだけだった。


「寝台へ」


 使用人たちが彼を横たえる。


 靴紐へ手が伸びた。


「私がします」


「セラフィーナ様、こちらは」


「妻の仕事です」


 誰も逆らわなかった。


 私は紐を解いた。


 靴には土と、潰れた花びらがついている。


 布で拭う。


 右。


 左。


 いつもなら、アレンは自分でやると言う。


「今日は、私にさせてください」


 返事を待つ。


 聞こえない。


「一度くらい、妻らしいことをさせてくださってもよいでしょう」


 聞こえない。


 外套を外す。


 服の胸元は黒く固まっていた。


 血の匂いがする。


 私の袖にも、同じ色が広がっている。


 クレアが着替えを勧めた。


「嫌です」


「そのままでは、お身体が冷えます」


「これはアレンの血です」


 声が震えた。


「洗えば、なくなってしまいます」


 クレアは何も言わなかった。


 湯と布を用意してくれた。


 私はアレンの手を拭く。


 指の間の土。


 爪の端の茶葉の色。


 結婚指輪。


「少し、力を抜いてください」


 指が硬い。


 一本ずつ開こうとする。


「痛いでしょう」


 動かない。


「ごめんなさい。すぐ終わります」


 自分の指を、その手へ絡めた。


 握り返されない。


 胸の奥で、広場の最後の音が蘇る。


 乾いた発砲音。


 アレンが倒れる音。


 自分の絶叫。


 私は息を吸った。


「クレア」


「はい」


「私が、うるさかったからでしょうか」


「何がでございますか」


「広場で、何度も名前を呼びました」


 喉を押さえる。


「だから、アレンの声が聞こえなかったのでしょうか」


 クレアの顔が崩れた。


「違います」


「では、なぜ返事を」


 続けられない。


 クレアは膝をついた。


「セラフィーナ様」


「言わないでください」


 何を言おうとしたか、わかっていた。


 もう返事はない。


 もう起きない。


 もう帰ってこない。


「今は、言わないで」


 私はアレンの胸へ毛布を掛け直した。


 枕を一つ抜く。


「高い枕は嫌いでしょう」


 右足のところだけ、毛布へ少し余裕を作る。


「いつも、ここから出すから」


 灯りを一つ残す。


「暗いと机へ膝をぶつけます」


 窓を閉める。


「朝は冷えます」


 全部、いつもの通りにする。


 いつもの通りにすれば、朝もいつものように来る。


 夜半、ガレスが扉の外へ来た。


「捜査の初動について、署名がいる」


「明日にしてください」


「現場は今夜しか残らん」


 その声も掠れていた。


 私は文書を受け取った。


 現場封鎖。


 証拠保全。


 目撃者保護。


 容疑者への暴行禁止。


 文字は読める。


 意味もわかる。


 アレンの死だけが、わからない。


「犯人は」


「生きて捕らえた」


「そう」


 胸の奥で、黒いものが動いた。


 今すぐ会わせろ。


 同じ痛みを与えろ。


 なぜアレンが死に、あの男が息をしているのか確かめろ。


 言葉になる前に、文書の最後を見た。


 容疑者の権利を守る条項。


 アレンたちと作った法律。


「手順どおりに」


 私は署名した。


「拷問はしないでください」


 ガレスが長く黙る。


「……わかった」


 扉が閉じる。


 私は寝台へ戻った。


「皆が、あなたの手順で仕事をしています」


 報告する。


「だから、安心して休んでください」


 アレンの頬へ触れる。


 冷たい。


「休んだら、起きてください」


 窓の外が白み始める。


 朝だった。


 帰宅した人へ、言わなければならない言葉がある。


 私は昨夜、言えていない。


 玄関で言えばよかった。


 言わなかったから、アレンはまだ家へ帰ったことに気づいていないのかもしれない。


 寝台のそばへ座る。


 顔を見る。


 目は閉じている。


 胸は動かない。


 それでも、私は微笑もうとした。


「おかえりなさい、アレン」


 返事はなかった。


 私は待った。


 十を数えた。


 百まで数えた。


「聞こえませんでしたか」


 もう一度、言おうとする。


 声が出ない。


 喉から、息とも泣き声ともつかない音が漏れた。


「おかえりなさい」


 今度は崩れた。


「帰ってきたのでしょう。だから、返事をしてください」


 アレンの肩へ額を押しつける。


 冷たい布。


 動かない身体。


「私を罰しているのですか」


 何のための罰かもわからない。


「守らせてくれなかったから。あなたを一人で前へ出したから」


 返事はない。


「ごめんなさい」


 何度言っても、返事はない。


 泣き叫ぶことはできなかった。


 叫べば、広場の続きになってしまう。


 あの絶叫の先に、アレンの死が確定している。


 私は立ち上がった。


「朝食の時間です」


 クレアが私を見る。


「食堂へ参ります」


 食堂には、家族肖像画がある。


 絵の中のアレンは、私を見ている。


 私は茶器を出した。


 ポットを温める。


 茶葉を量る。


 二杯分。


 湯を注ぐ。


 砂時計を返す。


 手は正確に動いた。


 私が壊れても、覚えた手順は壊れない。


 カップを二つ置く。


 一つは私の前。


 一つは、アレンの席。


「昨日、あなたが淹れると約束しました」


 湯気の向こうへ話す。


「ですが、今日は私が淹れました」


 返事はない。


「少し濃いかもしれません」


 返事はない。


「飲んでから、文句を言ってください」


 返事はない。


 私は自分の紅茶を飲んだ。


 味がしない。


「式典の報告をします」


 向かいへ話す。


「負傷者はいません。子どもたちも無事です。あなたが守ったからです」


 返事はない。


「ガレスが警備を見直します。アニエスは商人たちへ連絡を。マリアンヌ様は王都へ」


 返事はない。


 私は次々と報告した。


 報告が尽きれば、沈黙だけになる。


 だから、同じことを言い直した。


 朝日が卓上を移動する。


 湯気が薄くなる。


 私のカップは半分減る。


 アレンのカップは満ちたまま。


 クレアが食堂へ入った。


 壁際に立つ。


 向かいのカップを下げない。


「冷めてしまいます」


 私は言った。


 返事はない。


「アレン」


 呼ぶ。


「お願いですから、私を一人にしないで」


 紅茶の表面は動かない。


 私はカップへ手を伸ばし、途中で止めた。


 代わりに飲めば、彼の分がなくなる。


 残しておけば、帰ってきた時に飲める。


 だから、触れない。


 時間だけが進む。


 紅茶が冷える。


 朝が深くなる。


 扉の外から役人の声がした。


「国葬準備について、ご決裁をお願いいたします」


 国葬。


 また、死を確定させる言葉。


 私は冷めた二杯目を見た。


 アレンの席を見た。


 絵の中の彼を見た。


「入ってください」


 声は、国家指導者のものだった。


 私の中では、まだ広場の絶叫が終わっていなかった。


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