第8話 ハルフォード領へようこそ
山道を抜けた先に、見慣れた風景が広がった。
雪解け水を集めて流れる細い川。まだ茶色いままの畑。ところどころ板が外れた柵。遠くには、煙を上げる小さな集落。
「ここからが、ハルフォード領です」
俺が言うと、馬車の窓から外を見ていたセラフィーナが姿勢を正した。
「思っていたより、山が近いのですね」
「北風を防いでくれます。ただし春の雪解けが多い年は、川がよく機嫌を損ねます」
「河岸の補強が必要ですか」
「到着して最初にそこへ気づきます?」
「見ればわかります」
さすがというべきか、休んでほしいというべきか迷う。
道端で薪を運んでいた老人が、俺たちの馬車に気づいた。
「アレン様だ!」
その声をきっかけに、畑や作業小屋から人が集まってくる。
「お帰りなさい!」
「王都はどうでした?」
「ずいぶん早かったじゃないですか!」
皆が手を振る。
馬車を止めると、子どもたちが車輪のそばまで駆けてきた。
「危ないから、少し離れろ!」
俺が声をかけると、素直に二歩だけ下がる。二歩しか下がらないあたりが、うちの領民らしい。
セラフィーナは窓の内側で、驚いたように人々を見ていた。
「領主代理へ、皆がこのように近づくのですか」
「畑の相談も、屋根の修理も、だいたい直接来ますから」
「護衛は?」
「今日はガレスが領主館にいるはずです」
「そういう意味ではありません」
少し呆れた声だった。
領主館へ着く頃には、馬車の後ろへ十人以上の領民がついてきていた。
屋敷と呼んではいるが、王都の貴族邸に比べれば大きな農家に近い。石造りの二階建てで、東側の壁には補修した跡が残っている。
玄関前に、腕を組んだ大柄な男が立っていた。
「遅い」
「帰って最初の言葉がそれか、ガレス」
「王都から予定外の客を連れてくるなら、せめて伝令を先に寄越せ」
幼なじみで守備隊長のガレス・ロークは、俺をにらんだあと、馬車から降りたセラフィーナへ目を向けた。
銀髪を隠していた布が外れる。
周囲の領民が息を呑んだ。
「ローゼンフェルト公爵令嬢……」
誰かがつぶやく。
セラフィーナは背筋を伸ばした。
王宮で断罪された時と同じ、隙のない立ち姿だ。
「公爵家からは追放されました。現在は、アレンの保護宣誓の下におります」
名前を呼ばれたことで、周囲の視線が俺へ集まった。
「説明は中でする」
俺が言うと、ガレスが深くため息をついた。
「お前、王都へ行って何を持ち帰ってきたんだ」
「ものすごく説明の難しい責任」
「見ればわかる」
そのとき、玄関の扉が開いた。
使用人に支えられながら、父が姿を見せる。
「父上、寝ていないと」
「息子が帰ったのに、寝台で待てというのか」
エドガー・ハルフォードは病で痩せていたが、目元の穏やかさは変わらない。
俺は急いで肩を支えた。
「こちらが、セラフィーナ様です」
「今は、セラフィーナと呼んでいます」
彼女が静かに訂正する。
父は俺と彼女を交互に見て、ほんの少し笑った。
「そうか。では、セラフィーナさん。遠いところをよく来てくれた」
「事情をご存じなのですか」
「詳しくはまだだ。だが、アレンが困っている人を連れて帰ることは、珍しくない」
「公爵令嬢を連れて帰ったのは初めてです」
「それはそうだろう」
父は咳をこらえ、続けた。
「事情は食事の後で聞こう。まずは休みなさい。王都からここまで、ずいぶん疲れただろう」
「私がこの家へ入ることで、皆様へ危険が及びます」
「危険の話も後で聞く」
「ですが」
「空腹と疲労の中で出した結論は、たいてい必要以上に暗いものになる」
父らしい言葉だった。
「あなたを政治の駒として迎えるつもりはない。今は、長旅を終えた十九歳の娘さんとして休んでほしい」
セラフィーナの青い瞳が揺れた。
クレアが、主人の隣で静かに頭を下げる。
「お心遣いに感謝いたします」
屋敷へ入る前、クレアがセラフィーナの外套についた埃を払い、旅で乱れた銀髪を手早く整えた。
「これで大丈夫です」
「大丈夫、とは?」
「新しい生活を始めるお顔です」
セラフィーナは返事をしなかったが、髪へ触れた指先が少しだけ震えていた。
用意した部屋は、二階の南向きだった。
立派とは言えない。壁紙は古く、机の角には修理の跡がある。暖炉も小さい。
それでも、朝に日が入り、窓から畑と川が見える。
俺と使用人たちで、昨日まで物置だった部屋を片づけた。寝台へ新しい藁を足し、洗った麻布を掛け、壊れていた衣装箱の蝶番を直した。
窓辺には、領民の子どもたちが摘んだ早咲きの花が置いてある。
「豪華ではありませんが、ひとまずここを使ってください」
セラフィーナは部屋の中央に立ち、ゆっくり見回した。
「これは、誰の部屋だったのですか」
「昨日までは、予備の毛布と壊れた椅子の部屋です」
「そうではなく」
彼女は机へ触れた。
「これから、誰が使う部屋ですか」
「セラフィーナです」
「私が、いつまで滞在するかも決まっていません」
「決まっていないから、必要なんです」
「なぜですか」
「滞在が一日でも一年でも、眠る場所は要るでしょう」
俺には当然の話だった。
けれど彼女は、すぐには答えなかった。
「王宮では、私の部屋は王太子妃となる者のための部屋でした」
小さな声で言う。
「公爵邸の部屋も、ローゼンフェルト家の令嬢へ与えられたものです」
彼女は窓辺の花を見る。
「私個人のために用意された部屋は、初めてかもしれません」
俺は何と返すべきかわからなかった。
気の利いた言葉を探していると、廊下から子どもの声がした。
「お姫様、花は気に入った?」
半開きの扉から、小さな顔がのぞいている。
「こら、勝手に二階へ上がるな」
俺が追い払おうとすると、セラフィーナが先に答えた。
「ええ。とてもきれいです」
「よかった!」
子どもは満足して走り去った。
セラフィーナは、その背中を見送る。
「私を怖がらないのですね」
「王都の噂より、自分で見た人を信じる連中です」
「アレンと同じですね」
「俺より判断が早いので、困っています」
彼女の口元が少し緩んだ。
「ようこそ、ハルフォード領へ」
改めて言う。
「何もかも足りない場所ですが、足りないものは皆で相談します」
セラフィーナは窓の外を見た。
畑では、集まっていた領民たちが仕事へ戻り始めている。遠くでガレスが、馬車を追ってきた子どもたちを叱っていた。
華やかな王都とは、何もかも違う。
「よろしくお願いいたします、アレン」
「こちらこそ、セラフィーナ」
その直後、廊下の下から夕食を知らせる鐘が鳴った。
「まずは食事ですね」
「はい。父上の言う通り、空腹で考えると暗くなりますから」
「どのようなお料理でしょう」
ほんの少し警戒した声だった。
俺は答えに迷った。
ハルフォード領の歓迎料理は、だいたい見た目より素朴で、味もさらに素朴だ。
「その件については、食卓で説明します」
セラフィーナは、不安そうに俺を見た。
逃避行が終わり、彼女の辺境での最初の夜が始まろうとしていた。




