第76話 夫婦になった朝
目を覚ますと、隣に銀色の髪があった。
以前、一つの寝台を仕切り布で分けて眠った夜とは違う。
今回は、正真正銘、夫婦として同じ部屋にいる。
セラはまだ眠っていた。
寝顔を見るのは反則な気がする。
何に対する反則かはわからない。
見ないように天井へ目を向ける。
数秒後、また見た。
「アレン」
「起きてた?」
「先ほどから、視線が往復しています」
「すみません」
「謝ることではありません」
セラが目を開ける。
互いに見つめる。
昨日、何百人の前で口づけた。
なのに、朝の寝台で目が合う方が恥ずかしい。
「おはようございます」
「おはよう、セラ」
自然に名前を呼ぶ。
彼女の表情が柔らかくなる。
「今日から、夫なのですね」
「昨日からでは?」
「書類上は昨日です」
「生活上は今日?」
「初めての朝ですので」
「では、おはようございます、妻」
言った瞬間、自分で耐えられなくなり、顔を背けた。
「アレン」
「はい」
「こちらを見てください」
「少し待って」
「夫でしょう」
「その言葉を便利に使っていませんか」
「今後、検証します」
顔を戻すと、セラも真っ赤だった。
「おはようございます、夫」
今度は彼女が布団へ顔を隠す。
「自分で言って恥ずかしくなった?」
「予想以上でした」
「もう一度?」
「今日は結構です」
「残念です」
布団の中から、細い声が返る。
「明日は、試します」
その一言で、朝から胸がいっぱいになる。
身支度をしようとして、次の問題が起きた。
今まで別々の部屋だったため、着替えの時に相手がいることを想定していない。
「俺、隣室へ行きます」
「夫婦ですので、そこまで気にしなくても」
セラが言った後、自分で固まる。
「いえ、やはり行ってください」
「はい」
「急いで戻ってください」
「はい」
扉へ向かう。
「アレン」
「何でしょう」
「外套を」
俺は寝台脇に自分の外套を置き忘れていた。
戻る。
セラも同時に手を伸ばし、指が触れる。
二人で止まる。
「朝から、何をしているのでしょう」
「夫婦の練習?」
「練習が必要なのですか」
「俺たちには」
「否定できません」
ようやく隣室へ移動し、着替えを終える。
戻ると、クレアが扉の前に立っていた。
「おはようございます、アレン様」
「おはようございます」
「セラフィーナ様のお支度を」
「今、着替えています」
クレアが一瞬止まった。
いつもなら当然のように部屋へ入る。
今日は、夫婦の寝室だ。
「……お入りしても?」
クレアが確認する。
「俺に?」
「お二人へです」
扉の向こうからセラの声がした。
「どうぞ、クレア」
入ると、セラはすでに身支度を整えている。
「おはようございます、セラフィーナ様」
「おはよう、クレア」
クレアは髪を整えようと近づき、俺がそばにいることに気づく。
今までなら、俺はこの時間にいない。
「アレン様は、朝食室へ」
「行った方が?」
「いえ」
クレアが珍しく言葉に詰まった。
「お二人でお決めください」
「クレアが慌てています」
セラが少し楽しそうだ。
「慌てておりません」
「目が二度、扉を確認しました」
「新しい動線を検討しております」
「やはり慌てています」
害のない範囲で、クレアの完璧さが崩れている。
俺たちは笑った。
「では、俺は朝食室で待っています」
「待ってください」
セラが呼び止める。
「何か?」
「髪飾りを選んでいただけますか」
机には三つ並んでいる。
銀の葉。
白百合。
青い小石のついた小さな留め具。
「俺が?」
「夫なのですから」
小さな甘えだった。
今までのセラなら、自分の役割や服装へ最適なものを選んだ。
今日は、俺に選んでほしいと言う。
「では、銀の葉を」
「理由は?」
「最初に贈ったものに似ているので」
セラの目が細められる。
「それにします」
クレアが髪へ差し込む。
「いかがですか」
「きれいです」
「髪型が?」
「妻が」
また言ってしまった。
セラは鏡の前で完全に止まる。
クレアは数秒沈黙し、何事もなかったように櫛を置いた。
「朝食の準備を確認して参ります」
「逃げましたね」
「業務です」
扉が閉まる。
セラと二人になる。
「無自覚で言うのは、ずるいです」
「思ったので」
「私も、何か返さなければ」
「返さなくていいですよ」
「夫婦は公平であるべきです」
「そこを制度化しないでください」
廊下を歩く時も、距離が決まらない。
昨日までは婚約者として半歩ほど空けていた。
今日は夫婦だが、急に肩を寄せるのも意識しすぎている気がする。
俺が少し近づく。
セラも同じ方向へ動く。
二人で壁へ寄った。
「なぜ、こちらへ?」
「セラが動いたので」
「アレンが先です」
「では中央へ戻りましょう」
今度は同時に戻り、肩が触れた。
「……このままでよいのでは」
「はい」
たった廊下を歩くだけで、結論まで三回かかった。
使用人とすれ違う。
「おはようございます、旦那様、奥様」
夫婦になって初めて、他人からそう呼ばれた。
俺たちは同時に立ち止まる。
「おはようございます」
返事まで重なった。
使用人は何も気づかない顔で通り過ぎたが、耳が少し赤かった。
「皆も慣れていないようです」
「私たちだけではありませんね」
「安心しました」
朝食室へ移る。
いつもの卓。
いつもの皿。
違うのは、俺たちが並んで座ることを誰も不思議に思わないことだ。
クレアがパンを置く。
セラは蜂蜜の壺へ手を伸ばす。
俺も同時に伸ばし、手が触れる。
「また」
「食卓が狭いのでは?」
「昨日まで同じ広さでした」
「夫婦になると狭くなる?」
「距離が近くなったのです」
真顔で言われ、俺が動揺する番だった。
「それは、いいことですね」
「はい」
セラは蜂蜜を自分のパンへ塗る。
次に、俺のパンへも少し。
「甘すぎませんか」
「夫なのですから、私の好みも少し共有してください」
「そういう意味で使う?」
「便利ですね」
昨日まで特別だった言葉が、もう日常の中で使われ始めている。
妻だから。
夫だから。
強制するためではなく、小さく甘えるために。
「セラ」
「はい」
「今日は政務を休みませんか」
「何か予定が?」
「特にありません」
「では、午前だけ休みましょう」
「午後は仕事?」
「夫婦になっても書類は減りません」
「革命の英雄に休暇は」
「その役職は存在しません」
「残念です」
朝食の最後に、クレアが今日の予定表を持ってきた。
「午前は休息、昼食後に書類確認を二時間、その後は自由時間です」
「自由時間?」
セラが予定表を見る。
「何をすればよいのでしょう」
「自由にお過ごしください」
「自由を予定へ入れるのですか」
「入れなければ、お二人とも仕事をなさいますので」
反論できない。
「夫婦として、何かすべきことは?」
セラが真面目に聞く。
「散歩、読書、お茶など」
「いつもと同じです」
「それでよろしいかと」
クレアは予定表を置いた。
「夫婦になったからといって、毎日新しい行事を作る必要はございません」
「よかったです」
俺が言う。
「何を心配していたのですか」
「毎日、夫らしいことを求められるのかと」
セラが首をかしげる。
「では、今日の夫らしいこととして、午後の散歩へ付き合ってください」
「喜んで」
「一つ決まりましたね」
日常と特別の境目は、案外そのくらいでよかった。
食後、二人で窓辺へ移る。
庭では、昨日の白百合を片づける子どもたちが笑っている。
「特別な日が終わりましたね」
俺が言う。
「はい」
「寂しいですか」
「いいえ」
セラは首を振る。
「今日も、同じ食卓へ座れました」
「午後は同じ机?」
「はい」
「夜は同じ家へ帰る」
「もう家の中です」
「では、同じ部屋へ」
セラの頬が赤くなる。
「その言い方は、まだ慣れません」
「俺も」
彼女の手が、窓辺で俺の手へ重なる。
「でも、慣れていきましょう」
「毎朝?」
「毎朝です」
夫婦になった最初の朝は、照れて、笑って、蜂蜜を少し塗りすぎた。
それでも、いつもの日常がそのまま続いている。
そのことが、何より幸せだった。




