第74話 結婚式前夜
結婚式前夜、俺はセラの部屋へ紅茶を届けに行った。
別に、口実ではない。
厨房で茶器を見かけ、明日は忙しいだろうと思い、本人へ持ってきただけだ。
少なくとも、廊下を歩いている間はそう思っていた。
「失礼します」
扉を叩くと、クレアの声がした。
「どうぞ」
部屋へ入って、立ち止まる。
椅子に座ったセラの銀髪を、クレアが丁寧に梳いていた。
明日の髪型を確かめているらしい。
窓辺には白百合。
寝台の上には、裁縫室の女性たちが仕上げた白い衣装。
机には領民から届いた贈り物が積まれている。
木彫りの小箱。
刺繍の布。
学校の子どもたちが書いた、少し曲がった祝いの文字。
部屋の中には、明日の幸福しかなかった。
「アレン?」
鏡越しにセラと目が合う。
「紅茶を」
「ありがとうございます」
「邪魔なら戻ります」
「待ってください」
即座に止められた。
「こちらへ」
「髪を整えている途中では」
「仮の形です。見ていただきたいのです」
俺は慎重に椅子を選び、少し離れた場所へ座った。
近づきすぎると、クレアの仕事を邪魔する。
遠すぎると、見てほしいと言われた意味がない。
結婚式前夜の夫候補には、椅子の距離一つでも難しい。
「どうでしょう」
クレアが髪を半分だけまとめる。
白百合の小さな飾りが差し込まれた。
「きれいです」
「髪型についてです」
「髪型も」
「ほかは?」
セラが尋ねる。
「セラも」
「順番が逆です」
「すみません」
クレアの口元が少しだけ緩む。
「アレン様、率直な感想で構いません」
「率直に言っています」
「では、問題ございません」
セラは鏡の中で頬を赤くした。
「政務の式次第なら、緊張しないのですが」
クレアが髪を三つの束へ分ける。
「明日の進行表も完璧でしたね」
「入場時刻、誓約、食事、来賓の席順。すべて確認しました」
「問題は?」
俺が聞く。
セラは鏡越しにこちらを見る。
「妻になることです」
「問題なんですか」
「問題というより、未経験です」
「俺も夫は初めてです」
「だから不安なのです」
「二人とも初めてなら、公平では?」
「失敗の可能性が二倍です」
「そういう計算?」
クレアが笑いをこらえるように息を吐いた。
「夫婦に、完全な手順書はございません」
「ないのですか」
「ございますと、世の中の夫婦はもう少し喧嘩が少ないかと」
「では、何を基準に」
「相手のお顔を見てください」
クレアはセラの髪へ細い紐を結ぶ。
「機嫌が悪ければ理由を聞く。疲れていれば休ませる。嬉しそうなら、一緒に喜ぶ」
「普段と同じです」
「はい」
「では、妻になることは特別ではない?」
「特別ですが、毎日は普通です」
セラは考え込む。
「普通の毎日を続けるために、特別な約束をするのですね」
「そのようにお考えいただければ」
俺は紅茶を注いだ。
セラの杯には蜂蜜を少し。
自分の杯へは入れない。
「覚えていたのですね」
「妻になる人の好みなので」
「まだ妻ではありません」
「明日から?」
「明日からです」
二人で言った後、同時に照れた。
クレアは何も言わず、髪を編み続ける。
その沈黙が一番恥ずかしい。
クレアは一度、編みかけの髪をほどいた。
「少し強く結びすぎました」
「痛くはありません」
「明日は長い一日です。今は平気でも、夕方には頭が痛くなります」
髪を美しく見せることより、セラが一日笑っていられることを優先する。
その手つきが、二人の関係をよく表していた。
「式の途中で崩れた場合は?」
セラが尋ねる。
「直します」
「誓いの途中でも?」
「その時は、少し待っていただきます」
「皆様の前で?」
「髪型より、セラフィーナ様のお顔の方が大切です」
「クレアは時々、とても大胆ですね」
「アレン様を王宮から連れ出す計画へ加わった頃からでしょうか」
「俺が連れ出した側では?」
「お二人とも、連れ出される側でもございました」
確かに、あの夜から俺たちの人生は、互いに引っ張り合って進んできた。
「クレア」
セラが話題を変える。
「この髪型は、王太子妃候補だった頃にも使いましたか」
クレアの手が止まった。
「似た形はございました」
「やはり」
「ですが、同じではありません」
編み目へ、白い細紐が通される。
「当時は、王太子妃として威厳があるように。正面から見た時、隙がないように整えました」
「明日は?」
「セラフィーナ様が笑った時、髪が少し揺れるように」
クレアは鏡の中の彼女を見る。
「動いても崩れにくく、けれど固く見えないように」
「私自身のために?」
「はい」
長い間、クレアはセラの髪を役割へ合わせて整えてきた。
公爵令嬢。
王太子妃候補。
追放される夜には、旅へ耐えられるように。
辺境へ着いた朝には、新しい生活を始められるように。
「明日は、王太子妃のためではありません」
クレアの指が、編み目を確かめる。
「革命の象徴のためでも、名誉を回復した公爵令嬢のためでもございません」
白百合の飾りを一つ、髪へ留めた。
「アレン様を選んだセラフィーナ様のために整えます」
セラの目へ涙が浮かぶ。
「クレア」
「はい」
「私は、あなたへ命令ばかりしてきました」
「お仕えする身でしたので」
「今も?」
クレアは少し考えた。
「今もお仕えしております」
それから、柔らかく続ける。
「ですが、友人として申し上げたいこともございます」
セラは椅子の上で背筋を伸ばした。
クレアは鏡越しではなく、彼女の正面へ回る。
手を取った。
「これから毎日、幸せになってください」
部屋が静かになる。
白百合の香り。
湯気の立つ紅茶。
窓の外から聞こえる、明日の飾りつけをする人々の声。
セラはクレアの手を両手で包んだ。
「毎日、ですか」
「はい」
「難しい日もあると思います」
「承知しております」
「失敗して、喧嘩をして、仕事がうまくいかない日も」
「その日にも、幸せになってください」
「どうすれば」
「その日の終わりに、帰る場所があることを忘れなければ」
セラは涙を拭わなかった。
「私は、幸福を義務にしてしまいそうです」
「では、義務になさらないでください」
「幸せでなければならない、と考えそうです」
「悲しい日は悲しんでください」
クレアの返事は迷いがない。
「怒る日は怒り、疲れた日は休み、嬉しい日は笑う。すべて含めて、アレン様と暮らしてください」
セラが俺を見る。
「アレン」
「はい」
「私は、毎日完璧な妻にはなれないと思います」
「俺も毎日完璧な夫は無理です」
「今日くらい、少し悩んでください」
「正直な方がいいかと」
「確かに」
セラは涙のまま笑った。
「では、失敗する日も含めて、一緒に暮らしてください」
「もちろん」
「仕事を忘れたら?」
「クレアさんに叱られます」
「夫婦の問題では?」
「二人とも叱られましょう」
クレアが静かにうなずいた。
「承知しました」
「そこは否定してください」
三人で笑う。
クレアは髪飾りを一度外し、明日のために布へ包んだ。
「本番は朝から整えます」
「何時ですか」
「夜明け後です」
「起きられるでしょうか」
セラが真剣に心配する。
「王都への進軍では夜明け前に起きていましたよ」
「戦時と結婚式は緊張の種類が違います」
「俺も起こしに」
「花婿は入室禁止です」
クレアに即答された。
「では、廊下から」
「必要ございません」
「夫になるのに?」
「明日からです」
今夜はまだ、婚約者。
明日は夫婦。
その境目が、妙にくすぐったい。
「贈り物も、ご覧になりますか」
セラが机を指した。
子どもたちの手紙を一枚取る。
大きな文字で、『けんかしても、あさごはんはいっしょに』と書かれていた。
「誰が教えたんでしょう」
「学校の先生ではないと思います」
「経験から?」
「ご両親を見ているのでしょう」
別の紙には、二人と大きな食卓の絵。
俺の髪はなぜか緑色で、セラは白百合より大きく描かれている。
「俺、植物みたいですね」
「畑がお好きだからでは?」
「そういう表現?」
セラはその絵を大切に箱へ戻した。
「明日から、このような日々を作るのですね」
「緑の髪で?」
「朝食を一緒に、です」
「それなら」
俺はうなずく。
「喧嘩した朝も、同じ卓へ」
「はい」
俺は空になった茶器を盆へ戻した。
「そろそろ失礼します」
「もうですか」
「花嫁は早く休むべきだと、式次第に」
「書いたのは私です」
「なら、従ってください」
セラは少し不満そうに立ち上がる。
扉まで見送ってくれた。
「おやすみなさい、アレン」
「おやすみ、セラ」
「明日」
「はい」
「楽しみにしています」
「俺もです」
扉が閉じる直前、クレアがセラの肩へ布を掛けるのが見えた。
二人はまた何か話し始める。
主従ではなく、友人として。
俺は廊下を歩きながら、明日の誓いを頭の中で何度も練習した。
たぶん、本番では忘れる。
その時は、セラの顔を見ればいい。




