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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱるめりあ
第五部 幸せを守るための反逆

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第65話 一緒に帰りましょう

 王都進軍の前夜、セラは領主館の裏手にある丘へ立っていた。


 遠くに見えるのは、軍営の灯り。


 その先には、王都グランセルへ続く街道がある。


「寒くないですか」


 声をかけると、彼女は振り返った。


「少し」


「外套を持ってきました」


「アレンが着ていたものでは?」


「俺はもう一枚あります」


 実際には、屋敷へ取りに戻ればある。


 今は少し寒い。


 セラの肩へ外套をかける。


「ありがとうございます」


「眠れませんか」


「はい」


 彼女は再び遠くを見る。


 俺も隣へ立った。


 丘の下では、荷車の車輪を確かめる音がする。


 馬のいななき。


 見張りの声。


 三千人が眠ったり、眠れなかったりしている夜だ。


「王都を見ているのですか」


「見えません」


「そうですね」


「ですが、あの方角です」


 指先が街道の先を示す。


「追放された夜も、この道を通りました」


 俺は黙って待つ。


「大広間には、王家の旗が並んでいました」


 セラの声は静かだった。


「兄のように思っていた方々も、父の友人も、私へ礼を教えた人もいました」


「誰も助けなかった」


「はい」


 彼女の指が外套の端を握る。


「婚約破棄を告げられた時、最初に考えたのは、何を間違えたのかでした」


「セラは間違えていません」


「今は、そう思えます」


 すぐに否定を重ねず、続きを聞く。


「当時は、自分が役に立たなかったから捨てられたのだと思いました」


 風が銀色の髪を揺らす。


「大広間から出る時、誰とも目が合いませんでした」


「マリアンヌ殿下は」


「止めようとしてくださいました。でも、兵に遮られて」


 彼女は目を閉じる。


「城門を出た後、振り返りました」


「戻りたかった?」


「わかりません」


 長い沈黙。


「ただ、あそこしか自分の居場所を知らなかったのです」


 帰る場所ではない。


 それでも、ほかを知らなければ、追い出された場所へ戻ることを考えてしまう。


 セラは外套の内側から、小さな銀の髪飾りを取り出した。


 市場で俺が贈ったものだ。


「明日も、これをつけます」


「王都の宝石ではなく?」


「はい」


「公的な場には簡素すぎませんか」


「だからよいのです」


 彼女は掌の上で、葉の形をした飾りを見つめる。


「王宮で身につけていた宝石は、家と役目を示すものでした」


「これは?」


「私が、ここで選ばれたことを示します」


 正確には、俺が選んだ。


 そう思うと、急に恥ずかしい。


「似合うと思って買っただけです」


「知っています」


「高価でもありません」


「それも知っています」


「それでも?」


「だからこそ、私のものです」


 セラは髪飾りを俺へ差し出した。


「明日の朝、つけていただけますか」


「俺が?」


「最初につけてくださったのも、アレンです」


「手が震えるかもしれません」


「私も震えます」


「では、お互い様ですね」


 髪飾りを受け取り、落とさないよう胸元へしまった。


 明日、王都へ入る彼女の髪には、辺境の市場で選んだ小さな葉がつく。


「今は?」


 俺が尋ねる。


「帰る場所を知っています」


「ここですか」


「はい」


 セラが俺を見る。


「アレンがいる場所です」


 胸が温かくなる。


 ただ、その目にはまだ恐怖がある。


「王都へ戻るのが怖い?」


「怖いです」


 即答だった。


「軍勢がいても?」


「はい」


「マリアンヌ殿下も、ガレスも、アニエスもいる」


「それでも」


 彼女は両手を組む。


「大広間へ入れば、あの夜の声が聞こえる気がします」


「ヴィクトル殿下の?」


「それだけではありません」


 誰も何も言わなかった音。


 沈黙。


 視線を逸らす人々。


「また、誰も私を信じなかったら」


「証拠があります」


「理屈ではわかっています」


「はい」


「でも、怖さは理屈だけでは消えません」


「俺も怖いです」


 セラがこちらを見る。


「アレンも?」


「もちろん」


「王都へ進むと決めたのに」


「決めた人ほど怖いと思います」


 俺は軍営の灯りを見る。


「三千人を動かして、間違えたらどうするのか。王都で戦闘になったら。市民を守るつもりで、もっと混乱させたら」


「焼けた村のことを?」


「はい」


 忘れない。


 でも、その怖さを理由に動かないことも選べない。


「勝てるとは言えません」


「はい」


「王太子殿下が話を聞くとも」


「はい」


「王都の人々が、俺たちを歓迎するとも限らない」


「はい」


「反逆者として石を投げられるかもしれません」


「それは、少し現実的すぎませんか」


「正直に話そうと思って」


 セラが小さく笑う。


「アレンらしいです」


 笑顔が消えないうちに、俺は続ける。


「でも、一つだけ約束できます」


「何でしょう」


「今度は、一人にしません」


 彼女のまばたきが止まる。


「大広間へ入る時も?」


「隣にいます」


「城門で止められたら」


「一緒に止まります」


「皆が、私を嘘つきだと言ったら」


「証拠を出します」


「それでも信じなかったら」


「俺が信じます」


 声が少し震えた。


 格好よく言うつもりだった。


 けれど、彼女の目を見ていたら、胸がいっぱいになった。


「王都へ着いた後、私はローゼンフェルト公爵令嬢として立ちます」


「はい」


「証拠を読み、兄上の罪を示し、皆の前で話します」


「はい」


「でも、その前に」


 セラは一歩だけ近づいた。


「今夜だけは、役割ではなく、私として怖がってもよいですか」


「もちろん」


「手を握ってください」


 俺は言われる前から伸ばしかけていた手を、今度こそ差し出した。


 セラの指は冷たい。


 力は弱くない。


「公爵令嬢としては、少し情けないですね」


「俺は領主なのに、かなり怖がっています」


「比べることではありません」


「では、二人とも情けなくないことにしましょう」


「都合のよい結論です」


「必要な時は、都合よく考えるのも大切です」


 彼女が小さく笑った。


「セラ」


「はい」


「あなたが追い出された王都へ、今度は一緒に帰りましょう」


 風が止んだように感じた。


 セラの手が、外套の端から離れる。


 ゆっくり、俺へ伸びる。


 俺も手を出す。


 指先が触れた。


 彼女はすぐには握らなかった。


 確かめるように、掌を重ねる。


「王都は、帰る場所ではありません」


「はい」


「私の家は、ここです」


「はい」


「それでも、帰るのですか」


「追い出されたままにしないために」


 彼女が息を吸う。


「奪われた名誉を取り戻すため?」


「それも」


「王家を倒すため?」


「必要なら変えます」


「では、何よりも?」


 俺は考えた。


「セラが、自分の足で城門を通るためです」


 青い瞳から涙が落ちる。


 彼女は笑っていた。


「はい、アレン」


 手が強く握られる。


「一緒に帰ります」


 俺はもう一方の手で、彼女の頬へ触れた。


 冷たい。


「泣いています」


「寒いからです」


「それは無理があります」


「では、少し怖いから」


「俺もです」


「少し?」


「かなり」


 セラが笑う。


 俺も笑った。


 勇ましい宣言より、こうして怖いと言えることの方が、今は大切だった。


「明日の服は決まりましたか」


 俺が尋ねる。


「クレアが三着用意しています」


「三着も?」


「移動用、交渉用、予備です」


「俺は一着です」


「予備を用意してください」


「荷物が増えます」


「領主が泥だらけで王都へ入るつもりですか」


「過去に一度、古い礼服で」


「今回は違います」


 彼女の声に、少し公爵令嬢らしい強さが戻る。


「王都へ、ハルフォード領の代表として入るのです」


「では、新しい礼服を?」


「裁縫室で仕立てたものを」


 以前、近隣貴族に笑われた時、約束した礼服だ。


 領内の職人が作った。


「似合いますか」


「明日、確認します」


「今は?」


「今は外套で見えません」


「厳密ですね」


「大切な交渉ですので」


 何でもない会話がうれしかった。


 王都へ向かう前夜でも、俺たちは俺たちのままだ。


「セラ」


「はい」


「帰ってきたら、何をしたいですか」


「朝食を食べたいです」


「王都でも食べますよ」


「領主館の食堂で」


「家族用の皿で?」


「はい」


「蕪は」


「不要です」


「そこは変わらない」


「アレンは?」


「紅茶を淹れます」


「味は安定しましたか」


「努力中です」


「では、帰ってから確認します」


 帰ってから。


 その言葉を、二人で未来へ置く。


「約束です」


「はい」


 丘を下りる前、セラは領主館を振り返った。


 窓の一つに灯りが残っている。


 クレアが明日の衣装を確かめているのだろう。


「帰ってくる場所が見えます」


「はい」


「王都へ向かうのに、後ろを見てもよいのでしょうか」


「道を覚えるためなら」


「迷った時に?」


「帰る時に」


 セラは灯りの位置を確かめるように、しばらく見ていた。


「では、覚えておきます」


「俺も」


 進むために、帰る場所を忘れる必要はない。


 丘の下で、夜明け前の見張り交代を告げる鐘が鳴った。


 まだ暗い。


 けれど、東の空はわずかに薄くなっている。


 俺たちは手をつないだまま、軍営の灯りへ向かって歩き出した。


 朝になれば、同じ列に並び、王都へ向かう。

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