第63話 王都のパン騒動
「王都グランセルで、市民が穀物倉庫を開けました」
急使の報告で、防衛本部の全員が立ち上がった。
「開けた、とは」
俺が尋ねる。
「王家の許可を待たずにです」
急使は雪で濡れた外套を脱ぐ暇もなく、机へ紙を広げた。
「パンの値段が三日で倍になりました。昨日、南市場でパン屋が売り切れを告げたところ、群衆が王宮管理の倉庫へ向かった」
「死傷者は?」
マリアンヌが聞く。
「確認できているだけで、市民七人、衛兵三人が負傷。死者の報告はまだありません」
少しだけ息を吐く。
だが、次の瞬間には別の不安が来る。
「倉庫の中身は」
「穀物がありました」
アニエスが眉を上げる。
「市民へ売る分がないと言っていたのに?」
「軍と王宮用として保管されていました」
部屋の空気が冷える。
王都の市民がパンを買えない中、倉庫には穀物があった。
「誰が扉を開けたのですか」
セラフィーナが尋ねる。
「最初は群衆です。ですが、途中から倉庫番と一部の衛兵が鍵を渡したと」
「略奪になった?」
「最初は袋を奪う者もいました」
急使は続ける。
「その後、パン屋組合と市場の商人が台帳を作り、家族数ごとに配給を始めました」
アニエスが小さく笑う。
「商人は、混乱の中でも帳簿を作るのね」
「笑っている場合ですか」
「褒めてるのよ」
急使が別の紙を出す。
「王宮は、ハルフォード領の扇動による暴動と発表しました」
「俺たちが?」
「商人同盟の納品停止が原因だと」
胃が痛くなる。
「市民向けの荷は止めていません」
アニエスが即座に言う。
「むしろ小口便を増やした」
「記録は?」
「全部ある」
セラフィーナが書類を受け取る。
「王都へ届いた量、王家に差し止められた荷車、軍による買い上げ記録を並べましょう」
「市民蜂起を、こちらの宣伝へ使うのですか」
マリアンヌの声は硬い。
「使いません」
俺は答えた。
「市民は、俺たちのためにパンを求めたわけではない」
彼らは腹が減ったから倉庫へ向かった。
家族へ食べさせるために。
「でも、王家の発表を放置すれば、鎮圧の理由にされます」
セラフィーナが言う。
「事実を届ける必要があります」
「どうやって」
「商人の小口便」
アニエスが地図を指す。
「市場へ入れる荷車はまだある。パンと一緒に記録を運ぶ」
「紙だけでは読めない人もいる」
「絵と数字を使う」
マリアンヌが提案した。
「王宮倉庫の量、市民市場へ届いた量、軍が止めた量。升の絵なら伝わります」
「王女殿下の署名も?」
「入れます」
彼女は迷わなかった。
「王家の発表が偽りだと、王家の一員として証言します」
急使が口を挟む。
「王都では、王女殿下は誘拐されたと」
「では、私自身の言葉を添えます」
「筆跡を偽造されたと言われます」
「商人と衛兵の証言も」
セラフィーナが続ける。
「一人の権威へ頼らず、複数の記録を重ねます」
反乱が辺境だけの話ではなくなっていく。
王都の市民が、自分たちの食卓を守るため立ち上がった。
王国軍の中では、命令の根拠を問う兵が増えている。
商人は納品を止めた。
地方の人々が三千人集まった。
それぞれ別の理由だ。
だから、簡単には一つの命令で止められない。
急使は、王都の市場で見た光景を続けた。
「倉庫が開いた後、最初にパンを受け取ったのは子どもでした」
「誰が決めたのですか」
「市場の女たちです。子ども、高齢者、病人の順に列を分けました」
「衛兵は?」
「半分は王宮の命令を待ち、半分は列の整理を手伝いました」
マリアンヌが目を伏せる。
「王都の衛兵は、王家を守るために雇われています」
「でも、市民も王国の人間です」
俺が言う。
「だから迷っているのでしょう」
急使はうなずいた。
「一人の衛兵が、パンを求める母親へ槍を向けられないと言いました。その場で武器を置いたそうです」
「他の兵に捕らえられた?」
「市民が間へ入りました。今は市場の建物へかくまわれています」
地図の上では、王都は一つの点だ。
だが、その点の中で、衛兵も商人も母親も、それぞれ選んでいる。
「暴動という一言では足りませんね」
セラフィーナが言った。
「はい」
急使は手袋を外した。
指先がひどく冷えている。
「王都の人たちは、ハルフォード領が来るかと聞いています」
「誰がそう言ったんです」
「新聞の作文を覚えている人がいました」
王国で一番幸せな場所。
帰ってきていいと言ってくれる人がいるから。
「王都にも、帰っていいと言える場所を作れるのか、と」
すぐに答えは出なかった。
それでも、遠い王都の市民が、辺境の小さな学校の言葉を知っていた。
「王宮は次にどう動きますか」
俺がマリアンヌへ尋ねる。
「市内の門を閉じ、集会を禁じるでしょう」
「軍を戻す?」
「王都近くの部隊を。辺境の討伐軍へも帰還命令が出るかもしれません」
「それは橋への圧力が減る」
ガレスが言う。
「だが、市民が危険だ」
「俺たちが進めば、王都の戦闘を増やすかもしれない」
「進まなければ、王家は市民だけを鎮圧する」
どちらも危険だ。
また、選択を迫られる。
焼けた村の光景が頭へ浮かぶ。
情報不足で急げば、別の場所を失う。
慎重すぎれば、間に合わない。
「今夜は決めない」
俺は言った。
全員がこちらを見る。
「報告を三つに分けて確認します。王都の市民組織。王国軍の動き。進軍路の補給」
「時間がない」
ガレスが言う。
「だから、時刻を決めます。夜半までに情報を集め、そこで決定する」
「村の時と同じになるのが怖いか」
鋭い。
「はい」
隠さなかった。
「急いで誤ることも、遅れて誤ることも怖い」
「なら、何を変える」
「俺一人で地図を見ない」
セラフィーナが俺を見る。
「王都の事情はマリアンヌ殿下。物流はアニエス。軍事はガレス。法と交渉はローゼンフェルト公爵令嬢」
「アレンは?」
「最後に決めます」
怖い。
でも、前より判断材料を集める仕組みはある。
アニエスは王都へ送る荷札を机へ並べた。
「パンだけ送れば、王家に接収される」
「では、どうする」
「小口へ分ける。薬、布、乾燥豆に混ぜる。配給所ごとに届け先を変える」
「軍用と疑われませんか」
「だから一台に積みすぎない」
彼女は三十枚の荷札を並べ替える。
「市民を助けたい。でも、こちらの軍の補給を空にするわけにもいかない」
「送れる量は?」
「千人が一日食べる分」
「王都全体には足りない」
「足りないから送らない、では一袋も届かないわ」
セラフィーナが配給記録の書式を作る。
「受け取った側にも、誰へ渡したか記録していただきます」
「混乱の中で帳簿を?」
「完璧でなくて構いません。奪った者ではなく、配った者が責められないためです」
王都の市民蜂起を遠くから称えるだけでは、人は食べられない。
俺たちの仕事は、声援より先に荷車を出すことだった。
夜半まで、報告が次々と入った。
王都南門の衛兵が、市民への発砲命令を拒否。
パン屋組合が配給所を三か所設置。
王宮側は中央広場を封鎖。
近隣の二都市で、王都へ食料を送る募金が始まった。
「これは暴動ではありません」
セラフィーナが言う。
「市民が、自分たちで秩序を作り始めています」
「王家の外で?」
「はい」
マリアンヌは紙を握りしめた。
「兄上は、これを最も恐れるでしょう」
「だから鎮圧する」
「はい」
窓の外では、三千人の軍営の灯りが揺れている。
辺境で始まった拒絶は、王都のパンを求める声とつながった。
もう、ハルフォード領だけを守れば終わる争いではない。
夜半の鐘が鳴る。
俺たちは作戦会議室へ移った。
王都へ向かうかどうかを決めるために。




