第62話 三千人の軍勢
三千人が広場へ集まると、人の声だけで地面が震える。
「本当に三千?」
俺が尋ねると、アニエスは名簿を叩いた。
「三千百二十七。荷車の御者と炊事係を含めて」
「兵士だけでは?」
「千四百弱」
少し安心した。
三千人全員が剣を持っていると言われたら、俺の胃が耐えない。
広場には、ハルフォード領の守備隊だけでなく、近隣領から来た農民、職人、元王国兵、商人の護衛が並んでいる。
武器もばらばらだ。
槍。
弓。
斧。
鍬。
荷車を修理する工具。
軍勢というより、大規模な共同作業に見える。
「実際、共同作業だ」
ガレスが言った。
「戦える者だけで軍は動かん」
彼は名簿を見ながら隊を分けていく。
「弓を使える者は前へ。馬を扱える者は輸送。字が読める者は伝令補助」
「料理ができる者は?」
アニエスが尋ねる。
「炊事」
「交渉ができる者は?」
「勝手に値切るな」
「軍の仕入れは値切るわよ」
「必要な物は買え」
「必要だからこそ値切るの」
いつもの言い争いが始まる。
三千人の前でも変わらないのは、少し安心する。
マリアンヌは王国兵の離反者たちと話している。
彼らへ王家の紋章を捨てろとは命じなかった。
「王国を守るために身につけた印なら、恥じる必要はありません」
彼女は言う。
「ただし、王太子個人の命令へ従う印としては使わないでください」
兵士たちは紋章布を腕から外し、胸元へしまった。
捨てるのではなく、意味を取り戻すように。
「この人数、どうして集まったのでしょう」
セラフィーナが広場を見渡す。
公の場なので、俺は彼女を愛称で呼ばない。
「マリアンヌ殿下の証拠と、商人同盟のおかげです」
「それだけではありません」
彼女は列の一つを指した。
そこには、以前税制改革へ反対した農民がいる。
別の列には、洪水の時に避難所を作った女性たち。
学校の教師。
水車を直した職人。
焼けた村から来た七人。
「皆さん、以前からハルフォード領を知っています」
「改革の成果?」
「成果だけではありません」
セラフィーナは言う。
「百軒へ説明に行ったこと。失敗した時、謝ったこと。逃げる自由を認めたこと」
遠くから来た男が、俺へ声をかけた。
「若旦那様」
「はい」
「うちの村も徴発を拒んだ。領主は王家へ従えと言ったが、俺たちは家族を連れて出てきた」
「家は?」
「残してきた」
「戻りたいですか」
「もちろん」
「では、戻れる形を考えます」
「戦わないのか」
「必要なら戦います」
「必要なら?」
「家を取り戻すために、家を全部壊したくありません」
男は少し考え、うなずいた。
「橋で、降伏した兵を殺さなかったって聞いた」
「はい」
「俺の弟は王国兵だ」
また、家族が両側にいる。
「会ったら、俺はどうすればいい」
「名前を呼んでください」
「戦場で?」
「武器を下ろせるなら」
ガレスが横から言う。
「無理なら、自分を守れ。だが、弟だとわかった後に追い打ちはするな」
「できるかな」
「できないと思うなら、後方へ回れ」
男は迷った末、輸送隊の列へ移った。
戦う勇気だけが勇気ではない。
自分にできないことを認めるのも必要だ。
「三千人を養う穀物は?」
俺がアニエスへ尋ねる。
「十日分」
「短い」
「軍勢は歩くだけで食べるのよ」
「王都まで何日」
「最短でも八日。途中で補給が必要」
「協力する町は」
「今のところ四つ。確約は二つ」
「足りませんね」
「だから、三千人全員で進まない」
アニエスが地図へ線を引く。
「守備を残す。補給路を守る。先に交渉団を出す」
ガレスもうなずく。
「前へ出すのは千五百。残りは後方と交代要員」
「三千人の軍勢という見出しには、少し偽りがありますね」
「見出しを気にするな」
俺は気にしていない。
少しだけ、新聞ならどう書くかと思っただけだ。
軍営の一角では、参加者へ木札が配られていた。
赤は戦闘隊。
青は救護。
黄は輸送。
白は炊事と避難誘導。
文字が読めなくても、自分の役割がわかる。
「色を決めたのは学校の子どもたちです」
セラフィーナが言う。
「赤が強そうだから戦闘、青は水の色だから救護だそうです」
「救護は水なんですか」
「傷を洗うから、と」
子どもの理屈は単純で、現場では役に立つ。
以前、水門や避難所へ使った印が、今は三千人を動かしている。
炊事隊の女性が白札を胸へ結びながら、槍を持つ息子へ声をかけた。
「腹が減ったら戻っておいで」
「戦ってる最中に?」
「食べなきゃ負けるよ」
息子は苦笑し、母親から乾燥パンを受け取った。
離れたところでは、橋で負傷した兵が青札をつけ、救護の指導をしている。
「腕が動かなくても、教えられる」
彼は若い志願者へ包帯の結び方を見せた。
三千人という数は、剣の本数ではない。
以前得た知識や、誰かを助けた経験まで集まった数だった。
正午、全員へ方針を伝えるため、広場の台へ上がった。
三千人の顔がこちらを向く。
怖い。
拍手されるより、焼けた村の沈黙の方がまだ耐えやすい気がする。
「皆さんへ、最初に確認します」
俺は言った。
「これは、王都を奪って富を分ける軍ではありません」
ざわめきが起きる。
「王太子の違法な命令を止め、徴発を終わらせ、家へ帰るための軍です」
「王家を倒すのか!」
誰かが叫ぶ。
「今、そこまでを決めません」
正直に答える。
「王家が法へ戻り、国民を守るなら、その仕組みを使えます。戻らないなら、変える必要があります」
マリアンヌが目を閉じ、うなずく。
「俺一人が次の国の形を決めることはしません」
「では、誰が?」
「王都の市民、地方の領民、兵士、商人。関わる人々が決める場を作ります」
「綺麗事だ!」
「そうかもしれません」
声の方を見る。
「でも、王太子一人が決めた結果が今です。同じ方法で逆の命令を出しても、また誰かが飢えます」
広場が静まる。
「戦いたくない者は、今からでも後方へ移れます。帰る者を罰しません」
数人が列を離れた。
誰も責めない。
代わりに、炊事隊へ移る者。
荷車へ向かう者。
そのまま帰る者。
三千百二十七という数字は少し減った。
けれど、残った人数の意味は重くなった。
「若旦那様!」
焼けた村の若者が声を上げた。
「俺たちは、あんたが失敗しないから来たんじゃない!」
胸が痛む。
「次は、早く来させるために一緒に来た!」
周囲から声が上がる。
「荷車は任せろ!」
「橋の修理は俺たちがやる!」
「怪我人はこっちへ!」
軍勢は、俺へ従うだけの人々ではない。
自分の役割を持ち、俺が間違えば止める人々だ。
それが三千人分ある。
夕刻、軍営のかがり火が一斉に灯された。
農民が作った木札。
商人の荷札。
王国兵の古い紋章。
学校で字を覚えた若者の名簿。
これまで積み上げた日常が、軍勢の形で広場へ並んでいる。
その夜、王都から急使が到着した。
市内でパンを求める群衆と衛兵が衝突したという報せだった。




