第60話 アレンの失敗
「西の村から救援要請!」
「橋の防衛線にも王国軍が集結!」
二つの報告が、ほとんど同時に入った。
防衛本部の卓には、濡れた地図が広げられている。
冬の夕方。
あと一時間もすれば暗くなる。
「西の村の状況は」
俺が尋ねる。
「騎兵が二十ほど。倉庫へ火をつけたという話です」
「村人は?」
「避難中。ただし、老人と子どもが残っている可能性があります」
「橋は?」
ガレスが別の伝令を見る。
「歩兵三百。前回より多い。夜に渡る準備をしている」
「陽動かもしれん」
ガレスが地図へ指を置く。
「西へ兵を出させ、橋を抜くつもりだ」
セラフィーナが救援要請の紙を読む。
「西の報告は、到着までに二度中継されています」
「情報が古い?」
「少なくとも一時間前です」
「火がどこまで広がったかは」
「不明です」
使える兵は百二十。
橋へ八十。
領都と避難所へ二十。
自由に動かせるのは二十だけ。
西の村まで急いでも二時間。
全員を送れば、橋の予備がなくなる。
「商人同盟の護衛は?」
「荷車を守って東へ出ている」
ガレスが答える。
「呼び戻せば夜になる」
「橋から兵を減らすのは」
「危険だ」
「西を放置する方が危険かもしれない」
「わかっている」
声が荒くなる。
誰も正解を持っていない。
「騎兵二十なら、村の自警団でも時間を稼げる可能性があります」
セラフィーナが言う。
「一方、橋を突破されれば領都まで道が開きます」
「なら橋を優先?」
「判断するのはアレンです」
責任を押しつけたのではない。
領主である俺が決めるべきことだと、明確にしただけだ。
「西へ十。橋へ十」
俺は言った。
ガレスの眉が動く。
「中途半端だ」
「西の避難誘導と偵察。敵が多ければ戻る。橋の予備は残す」
「十では村を奪還できん」
「奪還より避難を」
「到着する頃には暗い」
「だから今すぐ出す」
決めた。
伝令が走る。
兵が馬へ乗る。
俺は地図へ目を戻す。
決めたのに、胸の中で別の答えを探している。
西へ二十送るべきだったか。
橋へ全員残すべきか。
俺自身が行けば。
「アレン」
セラフィーナが呼ぶ。
「次の報告を待ちましょう」
「待っている間に」
「今、別の命令を出せば、向かっている兵が混乱します」
正しい。
でも、椅子へ座っていられない。
防衛本部の中を何度も歩く。
「足音がうるさい」
ガレスが言う。
「すまない」
「謝るくらいなら座れ」
「座ると考えすぎる」
「歩いても同じだ」
その通りだった。
三十分後、橋から報告が来た。
王国軍は前進していない。
かがり火を増やしていただけ。
「陽動ではない?」
「まだわからん」
ガレスは険しい顔のまま。
「西へ追加を送る」
俺は言った。
「何人だ」
「橋から二十」
「今から?」
「西の被害が大きいかもしれない」
「だから最初に送れと言った」
責める声ではない。
事実だった。
「わかってる」
俺は命令書へ署名する。
だが、橋から兵を戻し、進路を変えるまで時間がかかる。
雪が降り始めた。
「俺も行く」
「アレン」
セラフィーナが止める。
「現地の判断が必要です」
「今からでは、到着は夜です」
「だから行きます」
「私も」
「セラフィーナは領都に」
言いかけて、彼女の目を見た。
公の場だ。
愛称では呼べない。
「一緒に行きます」
「危険です」
「現地の被害記録と物資配分が必要です」
言い争う時間がない。
「わかりました」
俺たちは追加兵とともに西へ向かった。
雪の中、馬を走らせる。
道は暗い。
遠くの空が赤い。
村の方向だ。
近づくほど、煙の匂いが強くなる。
「急げ!」
叫んでも、馬は限界だった。
村へ着いた時、倉庫と家屋の一部は焼け落ちていた。
屋根が崩れる音。
泣く声。
雪の上に置かれた負傷者。
最初に見えたのは、毛布へ包まれた小さな体だった。
生きている。
胸が動いている。
それでも、顔に火傷がある。
「救護を!」
セラフィーナがすぐに動く。
「井戸の水は使えますか」
「凍ってる!」
「湯を沸かして。火傷へ油は塗らないでください。清潔な布を」
俺は村人をつかまえる。
「敵は?」
「もう行った」
「何人」
「十人くらいだ」
二十ではなかった。
十。
こちらが最初から二十を送っていれば、間に合ったかもしれない。
「死者は」
男が黙る。
焼けた家の前に、白い布が二枚あった。
一人は老人。
もう一人は、避難を手伝っていた若者だという。
喉が動かない。
「若旦那様」
村の女が俺を見る。
「助けを呼んだ」
「はい」
「昼過ぎに」
「はい」
「来るって思ってた」
言葉が胸へ刺さる。
「すみません」
「橋が大事だったんでしょう」
「はい」
「この村より」
「違います」
「何が違う!」
女が俺の胸を叩いた。
弱い力だった。
でも、避けられなかった。
「家が焼けた! あの子が死んだ! 橋は残ってる!」
「……はい」
「何で来なかった!」
答えはある。
情報が不完全だった。
橋へ三百人いると報告があった。
領都への道を守る必要があった。
兵が足りなかった。
全部、本当だ。
でも、その説明で白い布の下の人は戻らない。
「俺の判断が遅れました」
声が震える。
「最初の報告で、十分な兵を送らなかった」
「わからなかったんだろ」
別の男が言う。
「橋の方が多いって」
「わからなかったから、半分に分けました」
「なら仕方ないのか」
「仕方ないとは言えません」
俺は白い布を見る。
「結果として、間に合いませんでした」
村人たちが集まってくる。
怒っている者。
泣いている者。
何も言わない者。
俺は彼らの前へ立った。
「俺が決めました」
ガレスもセラフィーナも、口を挟まない。
「橋を優先し、西へ送る兵を十人にした。追加を決めた時には遅かった」
雪が髪へ積もる。
「二人が亡くなり、家が焼け、怪我人が出ました」
息を吸う。
逃げたい。
情報不足だったと言いたい。
王国軍が悪いと言いたい。
もちろん、村を焼いた兵が悪い。
けれど、それで俺の判断が消えるわけではない。
「申し訳ありませんでした」
頭を下げた。
雪と泥の地面だけが見える。
「謝って戻るのか」
誰かが言う。
「戻りません」
「家も?」
「戻りません」
「なら、何のために謝る」
「俺が、自分の判断で失わせたことから逃げないためです」
「それで済むと思うな」
「思いません」
沈黙。
頭を上げられない。
石が飛んでくるかもしれない。
殴られるかもしれない。
受けるつもりだった。
何も来ない。
代わりに、子どもの泣き声が続く。
「今日は、何も決めなくていいです」
俺は顔を上げた。
「俺を領主として認められないなら、その判断も受けます」
セラフィーナの手が一瞬動く。
けれど、止めなかった。
「今は、怪我人と住む場所を優先します」
「お前が指図するのか」
「必要な物資を出します。命令ではなく、使えるものを提示します」
「領主館から?」
「全部では足りません。近隣へも頼みます」
「また遅れたら」
「今度は、担当と時刻を公開します」
声が震える。
「信じてくださいとは言えません」
言える立場ではない。
セラフィーナが毛布の数を数える。
ガレスは焼け残った家の安全を確認する。
誰も俺を慰めない。
それでよかった。
日が完全に沈むまで、復旧作業を続けた。
焼けた梁をどける。
井戸の氷を割る。
怪我人を荷車へ乗せる。
俺も木材を運んだ。
村人は話しかけない。
命じてもいないのに、俺の近くを避ける者もいる。
夜、焼け残った集会小屋へ毛布を敷いた。
食事を配る。
誰も「ありがとう」とは言わない。
当然だ。
セラフィーナが俺のそばへ来た。
二人きりではないので、愛称は使わない。
「次の物資は夜明けに到着します」
「はい」
「アレン」
彼女は公的な呼び方を崩さなかった。
ただ、声だけが柔らかい。
「休んでください、とは言いません」
「はい」
「ですが、判断記録を今夜中に書きましょう」
「俺の失敗を?」
「はい。次に同じ情報不足が起きた時のために」
俺はうなずいた。
美談にはしない。
教訓という便利な言葉で、失われたものを包まない。
それでも、同じ失敗を繰り返さないため、記録する。
集会小屋の端で、俺は判断時刻と報告内容を書き始めた。
村人たちは、何も言わずそれを見ていた。
赦しも、拒絶も、翌朝まで返ってこなかった。




