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婚約破棄された公爵令嬢を辺境へ連れ帰ったら、俺の領地が王国で一番幸せになりました!?  作者: ぱる子
第一部 公爵令嬢を連れ帰りました

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第6話 名前で呼んでください

「セラフィーナ様、お茶をどうぞ」


 宿場町を離れて半日。


 馬車を止めた休憩地で、俺は湯気の立つ木杯を差し出した。


 セラフィーナ様は杯を受け取らなかった。


「……セラフィーナ様?」


「はい」


 一拍遅れて返事が来る。


 聞こえていなかったのだろうか。


「お茶です。少し薄いですが、冷えた体にはいいかと」


「ありがとうございます、アレン様」


 いつも通りの呼び方。


 昨日、検問で夫婦を演じた時だけは違った。


 アレン。


 セラフィーナ。


 名前を呼び捨てにしただけで、互いにまともに歩けなくなるほど緊張した。演技が終われば敬称へ戻す。それが当然だ。


 なのに、セラフィーナ様は木杯を見つめたまま、どこか納得していないように見える。


「味に問題が?」


「いいえ。おいしいです」


「まだ飲んでいませんよ」


 彼女は木杯を見た。


 クレアが横で口元を押さえた。


「クレアさん、笑いました?」


「いいえ。少々、煙が目に」


 たき火の煙は、彼女と反対側へ流れている。


 昼食は街道脇で、固いパンと干し肉を分けた。


 セラフィーナ様はパンをちぎりながら、何度かこちらを見る。俺が目を合わせると、すぐに道の先へ視線を移した。


「疲れましたか」


「いいえ」


「馬車酔いは?」


「ございません」


「では、何か不足が」


「アレン様は、昨日の演技について、どのようにお考えですか」


 ようやく本題らしきものが来た。


「危険でしたが、うまく切り抜けられたと思います。セラフィーナ様の受け答えは見事でした」


「そうではなく……」


 彼女はパンの欠片を見つめる。


「いえ。何でもありません」


 また逃げられた。


 俺は領民の相談なら、作物の出来や家族の具合から少しずつ話を聞ける。だが、公爵令嬢が名前の呼び方一つで悩んでいるなど、思いつけるはずもなかった。


 クレアだけは事情を察しているようだった。片づけをしながら何度も主人を見て、そのたびに小さく肩を落としている。


 午後の馬車でも、セラフィーナ様は何かを言いかけてはやめた。


「アレン様」


「はい」


「その……」


「どうしました?」


「いえ。街道の状態は、まだ悪いのでしょうか」


「雪解けが始まっていますから。明日は河岸側へ迂回した方がよさそうです」


 しばらくして、また。


「アレン様」


「はい」


「昨日のことですが」


「検問ですか?」


「……はい。検問の兵士は、追ってくると思いますか」


「令状を取り直せば可能性はあります。ですが、今夜までに距離を稼げば――」


「そうですね」


 会話が終わる。


 何か別のことを聞きたかったように思えるのだが、俺にはわからない。


 夕暮れ、街道脇の林へ馬車を寄せた。


 クレアは手際よく簡単な夕食を準備し、食後には寝床まで整える。


「薪をもう少し拾ってまいります」


「俺が行きます」


「アレン様は馬具をご確認ください。セラフィーナ様、よろしければ水筒をお願いいたします」


 そう言って、クレアは一人で林の奥へ歩いていった。


 近くに十分な薪が積まれていることへ、俺は気づかないふりをした。


 セラフィーナ様と二人になる。


 彼女は水筒の口を布で拭いていた。もう三度目だ。


「何か、俺に言いたいことがありますか」


 尋ねると、手が止まった。


「なぜ、そう思うのですか」


「今日は四回ほど、別の話へ変わりましたので」


「数えていたのですか」


「領地では、相談を途中でやめた人がいないか気をつけるようにしています」


「私は領民ではありません」


「同じ馬車に乗る仲間です」


 セラフィーナ様は、少しだけ目を見開いた。


 たき火がはぜる。


「昨日の検問で、私たちは夫婦を演じました」


「はい」


「その際、敬称を外しました」


「はい」


「本日、あなたは何事もなかったように戻されました」


「演技は終わりましたから」


 答えると、彼女は視線を落とした。


 まずい。


 何かを間違えたらしい。


「もしかして、不快でしたか」


「不快だったのなら、このような話はいたしません」


「では……」


 彼女は政治交渉の席へ臨む時のように、一度呼吸を整えた。


 けれど、その指は水筒の布を強く握っている。


「先ほどまでの呼び方では、いけませんか」


 小さな声だった。


 王太子の前で偽造書類を否定した時より、ずっと不安そうに聞こえた。


「先ほどまで、というと」


「昨日です」


「夫婦のふりをしていた時の?」


「はい」


 俺は彼女を見る。


 セラフィーナ様は顔を上げない。


「理由を聞いても?」


「私たちは、ハルフォード領まで同じ目的で進んでおります」


 彼女は慎重に言葉を選ぶ。


「敬称は礼節として必要です。しかし、あの呼び方へ戻ると、昨日までより遠くなったように感じました」


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


「私の立場は、もう公爵令嬢ですらありません。それでも『様』と呼ばれると、あなたとの間に、失った身分だけが残っているようで」


「俺は、立場がなくなったから敬称を外すつもりはありません」


 彼女が顔を上げた。


「あなたを軽く扱いたくなかっただけです」


「わかっています」


「では、名前で呼んでも?」


 青い瞳が揺れた。


「そのために、お願いしています」


 俺は喉を整えた。


 検問では演技だった。


 今度は違う。


「セラフィーナ」


 呼ぶと、彼女の表情がゆっくりほどけた。


「はい、アレン」


 声が少し震えていた。


 俺たちはそこで妙に黙った。名前を変えただけなのに、次に何を話せばよいのかわからない。


「もう一度、お呼びしても?」


 セラフィーナが尋ねる。


「もちろんです」


「アレン」


「はい」


「……特に用件はありません」


「それでも呼んだんですか」


「呼び方が定着するか、確認が必要でした」


「制度の試験運用みたいに言わないでください」


「では、何と言えば」


「呼びたかった、でいいのでは」


 彼女は黙り、たき火へ顔を向けた。耳の先が赤い。


「その表現は、正確すぎます」


 俺まで顔が熱くなった。


「公的な場では、これまで通りがよいでしょう」


「そうですね。王宮や役所で急に名前を呼び捨てにしたら、別の誤解を招きます」


「私的な場だけ」


「はい。俺たちと、親しい人の前だけで」


「敬称を外しても、敬意まで失うわけではないのですね」


「むしろ、前より丁寧に呼ばないといけない気がします」


「それでは呼び捨ての意味がありません」


「慣れるまで待ってください」


 その範囲を確認したことで、これは演技の名残ではなく、二人で選んだ約束になった。


「はい、アレン」


 返された名前は、昨日より柔らかく聞こえた。


 告白でも、婚約でもない。


 ただ敬称を一つ外しただけだ。


 それなのに、俺たちの間にあった見えない壁が、少し低くなったように思えた。


「ところで、クレアさんはいつ戻るんでしょう」


 俺が林を見ると、少し離れた木の陰から外套の裾が見えた。


「クレア」


 セラフィーナが呼ぶ。


「はい、セラフィーナ様」


 何事もなかったように、クレアが薪を一本だけ抱えて戻ってきた。


「ずいぶん時間がかかりましたね」


「適切な薪を厳選しておりました」


 積んである薪とほとんど同じ枝だった。


 セラフィーナは侍女を見たあと、俺を見る。


 そして、ほんの少しだけ笑った。


「アレン。明日の道について、相談してもよろしいですか」


「もちろんです、セラフィーナ」


 もう、言い直す必要はなかった。


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