第5話 夫婦のふりをしてください
宿の主人が教えてくれたのは、あまり嬉しくない朝の知らせだった。
「王都の兵が、宿場の出入り口で旅人の顔を確かめてる。銀髪の若い女と、古い礼服を着た男を探してるらしい」
俺は自分の袖を見た。
古い礼服という特徴が、ここまで正確に役立つ日が来るとは思わなかった。できれば一生来てほしくなかった。
「着替えましょう」
クレアが即座に言った。
彼女は昨日のうちに宿の洗濯女から地味な外套と作業着を借り、礼服を荷箱の底へ押し込んだ。セラフィーナ様の銀髪も、茶色い布と帽子で隠す。
鏡の中の俺は、王都の夜会へ出た男爵家嫡男ではなく、少し疲れた地方商人に見えた。
「問題は、三人の関係です」
セラフィーナ様が机へ宿場の簡単な見取り図を広げる。
「王都から逃げる男女と侍女、という組み合わせは目立ちます」
「では、クレアさんを妹ということにしますか」
「年齢より、主従の振る舞いが隠しにくいでしょう」
クレアは主人へ紅茶を渡す手つき一つで、長年の侍女だとわかる。俺に見抜けるのだから、見る目のある兵士ならなおさらだ。
「夫婦と、その妻付きの使用人」
クレアが静かに言った。
俺は聞き間違えたふりをしたかった。
「もう一度お願いします」
「アレン様とセラフィーナ様が旅の夫婦を演じ、私は妻付きの使用人として同行します。地方の小商人が、体の弱い妻を親戚の家へ連れていく設定なら、荷物の少なさも説明できます」
「ほかの案は?」
「ございますか、アレン様」
ない。
セラフィーナ様は、しばらく黙っていた。
「合理的です」
「合理的でも、難易度が高すぎませんか」
「検問で捕まるよりは低いでしょう」
正論である。
こうして、俺たちは夫婦になった。
もちろん、ふりだけだ。
「まず呼び方です」
クレアが机の前へ立つ。
「夫婦が『セラフィーナ様』『アレン様』では不自然です」
「では、何と」
「敬称を外してください」
簡単に言う。
俺はセラフィーナ様を見た。
彼女も俺を見ていた。
「……セラフィーナ」
たった一言なのに、喉が妙に乾いた。
セラフィーナ様――いや、演技中はセラフィーナだ――の青い瞳がわずかに揺れる。
「はい、アレン」
自分の名前を呼ばれただけだ。
それなのに、昨夜の寝台より距離が近くなったような気がした。
「もう一度」
クレアが容赦なく言う。
「セラフィーナ」
「アレン」
「硬すぎます。敵国の条約締結ではありません」
「夫婦というものに慣れていないので」
「私もです」
「お二人とも未婚ですから、当然でございます」
クレアは淡々としているが、紅茶を注ぐ手元が少しだけ忙しい。楽しんでいるのではないだろうか。
「次に距離です。検問では腕を組んでください」
俺とセラフィーナは同時に自分の腕を見た。
「質問も想定します」
クレアは容赦がなかった。
「結婚して何年ですか、と聞かれたら?」
「三年です」
俺とセラフィーナの答えが重なった。
「出会った場所は?」
「市場です」
「河岸です」
今度は見事に割れた。
「お二人の結婚は、出会った場所からすでに不安でございます」
「設定を作り込みすぎると、かえって忘れます」
セラフィーナが真剣に反論する。
「では、夫が妻へ最初に贈った物は?」
「……必要ですか、その質問」
「兵士が聞く可能性は低いですが、間が持たない時の会話には使えます」
セラフィーナは少し考え、俺の袖口を見た。
「新しい礼服、ということにしましょう」
「それは俺が贈られる側では?」
彼女の口元がかすかに緩んだ。
「次に距離です。検問では腕を組んでください」
「必要でしょうか」
「夫婦らしさを言葉だけで証明しようとすると、質問が増えます」
セラフィーナが立ち上がった。
「練習しましょう」
「今ですか」
「検問で初めて行う方が危険です」
彼女はためらいながら俺の左腕へ手を添えた。
外套越しでも、指先の位置がわかる。
俺は背筋を伸ばしすぎた。
「アレン様」
「はい」
「演技中です」
「……はい、セラフィーナ」
「返事まで硬いです」
彼女の口元が、ほんの少し上がった。
検問所は宿場町の出口にあった。
王都の兵と地方の役人が、馬車を一台ずつ止めている。掲示板には、ローゼンフェルト公爵令嬢の似顔絵が貼られていた。
似顔絵は実物よりずいぶん険しい顔をしている。
「これは、私でしょうか」
セラフィーナが小声で尋ねた。
「銀髪という点は合っています」
「ほかは」
「本人の前で言える範囲では、あまり」
「アレン」
腕を少しつねられた。
演技だろうか。たぶん演技だ。
「次!」
兵士の声が飛ぶ。
俺たちの番になった。
「どこへ行く」
「北西の親類のところへ。妻が長く体調を崩しておりまして、空気のよい土地で休ませるつもりです」
用意した設定を答える。
兵士は俺より、セラフィーナを見た。
「顔を上げろ」
彼女は帽子のつばを少し持ち上げた。
銀髪の大半は布の下に隠れている。服も地味だ。それでも、立ち姿の品まで隠すのは難しい。
「奥方にしては、ずいぶん上等な話し方をするな」
「結婚前は、商家で帳簿を任されておりました」
セラフィーナが答える。
「夫は計算が苦手ですので、今も私が見ております」
「そこまで設定に入っていましたか」
俺が小声で聞くと、彼女は穏やかに微笑んだ。
「事実に近い方が自然でしょう、あなた」
あなた。
心臓が一拍、変な動きをした。
兵士が俺を見て、少し同情するような顔をした。
「尻に敷かれてるな」
「おかげで店が潰れずに済んでいます」
答えると、周囲の役人が笑った。
空気が少し緩む。
だが、王都の近衛兵だけは笑わなかった。
「荷を調べる」
クレアが馬車の後ろを開ける。衣類、保存食、空の木箱。礼服と青いドレスは、箱の二重底へ収めてある。
近衛兵は箱を叩き、俺たちへ視線を戻した。
「妻の髪を見せろ」
セラフィーナの手が俺の腕へ少し強く触れた。
「理由を伺っても?」
彼女の声は柔らかい。
「銀髪の女を探している」
「女性の帽子や髪を、公道で兵士が強制的に外す権限は、捜索令に明記されているのでしょうか」
「何?」
「私は商家で契約を扱っておりました。任意の検問と身体捜索は別です。正式な捜索令があるなら従います。ないのであれば、夫以外の男性へ髪を見せることはお断りします」
夫以外。
そこで俺を見るのは、演技として正しい。正しいのだが、落ち着かない。
「俺からも、令状を確認させてください」
俺は一歩前へ出た。
近衛兵は面倒そうに舌打ちした。後ろには検問を待つ馬車が何台も並び、商人たちが不満の声を上げ始めている。
地方役人が近衛兵へ耳打ちした。
「令状がないなら、長く止める方が騒ぎになります」
近衛兵は俺たちをにらみ、手を振った。
「行け」
馬車が動き出す。
宿場町の門を抜けても、俺たちはしばらく腕を組んだままだった。
離すきっかけがわからなかっただけだ。
「もう、安全でしょうか」
セラフィーナが言う。
「そうですね、セラフィーナ様」
敬称へ戻した瞬間、彼女の指がわずかに止まった。
「はい、アレン様」
彼女も戻る。
腕が離れた。
ほっとしたはずなのに、風が入り込んだように少し寒く感じた。
馬車へ乗り込むと、クレアが何事もなかった顔で尋ねる。
「夫婦役はいかがでしたか」
「二度とやりたくありません」
俺が答えると、セラフィーナ様もすぐにうなずいた。
「同感です」
それから二人とも黙った。
二度と、と言ったわりに、名前を呼ばれた音だけは、なかなか頭から離れなかった。




