第57話 マリアンヌ王女の離反
夜半、防衛本部の扉が三度叩かれた。
二度。
間を置いて一度。
王女がお忍びで来た時に使った合図だった。
「まさか」
俺が立ち上がるより先に、セラフィーナが扉へ向かった。
ガレスが腕を伸ばして止める。
「俺が開ける」
剣へ手を置き、慎重に扉を開く。
冷たい風とともに、一人の旅人が中へ倒れ込んだ。
灰色の外套。
泥だらけの靴。
抱えているのは、革で包んだ書類の束。
「マリアンヌ殿下」
セラフィーナが駆け寄る。
王女は顔を上げた。
頬に小さな傷がある。
髪は乱れ、息が切れていた。
「セラフィーナ様」
「どうして、ここへ」
「王宮を出ました」
短い言葉だった。
クレアがすぐに毛布をかける。
「まず、お体を温めます」
「書類を」
「後です」
「今です」
マリアンヌは革包みを胸へ抱いたまま離さない。
「これを失えば、出てきた意味がありません」
防衛本部の卓へ運び、扉を閉める。
ガレスは外の警備を倍にした。
「追手は?」
「王都を出てから二度、検問を避けました。私が消えたことは、朝には知られているはずです」
「護衛は」
「途中まで二人が助けてくれました。今は別の道へ向かっています」
新しい名前は聞かなかった。
追跡された時、知らない方が守れることもある。
クレアが温かいスープを持ってくる。
マリアンヌは三口だけ飲み、書類の紐を解いた。
セラフィーナは革包みの端へ触れたまま、すぐには開かなかった。
「殿下ご自身が持ってこられたのですか」
「他の誰かへ預ければ、その人まで処罰されます」
「すでに助けた方がいるのでしょう」
「はい」
マリアンヌは目を伏せた。
「名は申し上げません」
「聞きません」
セラフィーナは即答する。
「その方々が安全になるまで、記録にも残しません」
マリアンヌの肩から、少しだけ力が抜けた。
「王宮では、誰を信じてよいかわからなくなりました」
「ここでも、すぐに全員を信じる必要はありません」
俺が言う。
「扉を閉め、原本を数え、写しを作る。信頼は手順でも守れます」
「不思議です」
「何がですか」
「優しい言葉より、その方が安心します」
「辺境向きですね」
ほんの一瞬、王女が笑った。
「これは、セラフィーナ様を反逆者とした最初の報告書です」
古い紙が一番上にある。
王宮の舞踏会で読み上げられた穀物横流しの記録。
「原本?」
セラフィーナの手が止まる。
「はい」
「署名が」
「偽造です」
マリアンヌが別の帳簿を出す。
「同じ日に署名した本人は、南部の税務会議へ出席していました。移動記録と宿泊記録があります」
次の書類。
雪崩で閉ざされていた北街道の通行記録。
あの夜、俺が気づいた矛盾を、王宮自身の記録が証明している。
「これだけで、冤罪を立証できます」
セラフィーナの声が震えた。
「まだあります」
王女はさらに紙束を広げる。
地方からの徴税報告。
王都の軍需支出。
王太子側近へ流れた資金。
反対した役人の左遷命令。
王国軍へ出された穀物徴発の指示。
「兄上は、国庫の不足を隠すため、地方へ負担を押しつけました」
「国王陛下の承認は?」
「ありません」
マリアンヌが首を振る。
「父上は病床で、重要文書は兄上の側近が選別しています。王太子令が、王命として扱われている」
「違法です」
「はい」
セラフィーナが一枚ずつ確認する。
書類を読む顔は冷静だ。
でも、指先は震えている。
自分を追放した嘘が、紙の上で崩れていく。
「殿下」
俺が尋ねる。
「これを持ち出せば、王家へ戻れません」
「わかっています」
「王女としての地位も」
「失うかもしれません」
「王太子殿下と敵対することになります」
マリアンヌの顔が歪んだ。
「兄上は、幼い頃は優しい人でした」
声が小さくなる。
「私が熱を出せば、一晩中そばにいてくれた。馬から落ちた時は、自分のせいでもないのに謝りました」
王太子を怪物として切り捨てれば、決断は簡単になる。
でも、彼女にとっては兄だ。
「今も、兄上を憎みきれません」
涙が落ちる。
「それでも、兄上がしていることを守ることはできません」
セラフィーナが、王女の手を取った。
「殿下が、ご自分を責める必要はありません」
「私は王家の一員です」
「だからこそ、止めようとしているのでは?」
「遅すぎました」
「遅くありません」
セラフィーナの声は強かった。
セラフィーナは冤罪の原本を両手で持った。
「私は、これを見れば怒りだけが湧くと思っていました」
「違うのですか」
マリアンヌが尋ねる。
「悲しいです」
セラフィーナは紙から目を離さない。
「これほど粗い偽造でも、誰も止めなかったことが」
「私も止められませんでした」
「殿下は今、止めるために来ました」
「でも、セラフィーナ様が失ったものは戻りません」
「はい」
否定しない声だった。
「だから、戻らないものを理由に、これから失われる人まで見捨てないようにしましょう」
マリアンヌは涙をこらえきれず、彼女の手へ自分の手を重ねた。
姉妹ではない。
それでも、二人は同じ紙を支えていた。
「この証拠で、救える人がいます」
マリアンヌは顔を上げる。
「私を、受け入れてくださいますか」
「もちろんです」
俺が答えた。
「ただし、王女だからではありません」
「では?」
「危険を知って、ここへ来た一人としてです」
彼女は少し笑った。
「ハルフォード領らしい答えですね」
「褒められていますか」
「はい」
ガレスが書類を見ながら言う。
「これで王国軍が止まるか?」
「すぐには難しいです」
セラフィーナが答える。
「ですが、将校と兵士へ命令の違法性を示せます。近隣領へも」
「写しを作る」
クレアがすでに紙を用意していた。
「一晩で何部必要ですか」
「可能な限り」
「承知しました」
防衛本部の全員が動き始める。
書類を分類する者。
原本へ印をつける者。
写しを取る者。
マリアンヌは疲れているのに、席を立とうとした。
「殿下は休んでください」
セラフィーナが止める。
「ですが」
「証拠を届ける役目は果たしました」
「まだ、皆へ説明を」
「明日にしてください」
「眠れると思いません」
「横になるだけでも」
王女は迷い、やがてうなずいた。
クレアに支えられ、隣室へ向かう。
扉の前で、マリアンヌが振り返った。
「アレン様」
「はい」
「私は、兄上を止めたいです」
「はい」
「でも、兄上を殺したいわけではありません」
「わかっています」
「その違いを、忘れないでください」
「忘れません」
彼女はセラフィーナを見る。
「セラフィーナ様」
「はい」
「私は、王家を裏切ったのでしょうか」
セラフィーナはすぐには答えなかった。
「殿下は、国民を裏切らない方を選びました」
マリアンヌの目から、また涙が落ちる。
今度は拭わず、深く頭を下げた。
夜明けまでに、証拠の写しは二十部できた。
橋の向こうの王国軍。
近隣領。
商人たち。
王都の役人。
それぞれへ送る。
マリアンヌ王女の離反は、王家から一人が逃げたというだけではない。
王宮の内側から、王太子の命令は国家そのものではないと証明する一歩になった。




